03 渦巻く心

 数日のうちに富嶽の熱は下がり、傷もすっかり良くなった。
 以前は、縁側でぼんやりする様子が目についたが、近頃の富嶽は武具の手入れをしたり、子供に構ったり、縁側に寝転んで本を読んだりして過ごしている。本は宿が無料で開放している書庫のものだ。鈴屋では滞在客の暇つぶしにと、店主が貸本のようなことをしていた。
 富嶽が借りてくるのはもっぱら鬼関連の学術書だった。鬼の挿絵と共にその生体や討伐にあたっての細かな注意と弱点、大規模な出没記録等が書かれてある。中でも富嶽は、殊更大型鬼の項目を読みふけっていた。恐らく、ホオズキの里を襲った鬼について調べているに違いなかった。里には同僚をはじめ、もちろん友人や大切な人も居ただろう。それが鬼によって破壊し尽くされたのだ。仇を討ちたい気持ちは、悔しさと怒りの入り混じった空気を孕み、時折富嶽のまわりにとぐろを巻いているかのようだ。
 文乃は、富嶽もいつか鈴屋を出て行く日が来るのだと想像すると、どうしても暖簾の向こう側で死神が手招いているように見えて仕方が無い。富嶽自ら死を選ぶのではと落ち着かず、引き留めたい衝動に駆られてた。
 客との別れなどとうに何千と経験し、二度と会わない客も少なくはない。それなのに、傍らで女給の仕事に精を出すうち、情に厚い彼の人となりを知り得た事がそう思わせている原因かも知れなかった。

 今朝、文乃が大広間の配膳を終え玄関を横切ると、宿に立ち寄った行商人から富嶽は珍しく買い物をしていた。行商人は菓子売りで、飴細工をはじめとした砂糖菓子をあちこちで売って回っている。腕を組み、難しい顔で品物を見る富嶽は真剣そのものだ。下げた膳を抱えていた文乃は後ろから声を掛けた。

「富嶽様」

 富嶽はびくりと肩を震わせた。よく見ると無骨な手にも可憐な飴細工と小さい袋がいくつか握られていた。文乃はまだ何も聞いていないにも関わらず、富嶽は慌てた様子で直ぐに違えぞと答えた。

「こ、これはな、あー、あれだ。ガキどもが最近うるせえからだ」
「まだ何も聞いちゃ居ませんよ。でも、きっと喜ぶと思いますよ」

 傷が癒えた富嶽は、体がなまってはならないからと庭で鍛錬を積んでいるが、興味を示した子どもたちがちょっかいを出し、面白おかしくじゃれている。富嶽は嫌な顔ひとつせず相手をしていた。逞しい腕に子供たちが二三人ぶら下がっているのも珍しくはなく、その様子を尻目に仕事をしていると、ふとした時に宿場女郎としての己を忘れてしまいたいと、思うこともある。のは余談である。
 富嶽は後頭部をがしがしと掻くと「おい」と文乃に手招きをし、床をぽんぽんと叩いた。言われるがまま文乃は側に寄って膝をつく。膳は邪魔にならないように脇に置いた。行商人は笑みを絶やさず「お気に召しますものがございますれば」と手の甲を擦っている。富嶽は手のひらに乗った飴細工と、箱の中の物とを今だ交互に見遣っていた。

「他を決めかねてる。どんなもんがいいか、あんたも一緒に選んでくれ」
「私なんかが選んでもよろしいんですか」
「あんた得意そうだろ。俺あ、こういうのはどうも分からねえ」

 行商人は度々鈴屋を訪れるが、文乃は客として品物を見るのは初めてだった。
 浅い桐の箱を小さく格子状に区切った中に、鶴や亀、犬、猫といった動物を模した飴細工が置物のようにして並べられてある。小さいながらもどれも精巧で、見事な出来栄えだ。文乃が一番に目についたのはうさぎの細工だった。長い耳が垂れかかっているのが何とも本物の仕草を思わせる。

「この、うさぎなんかいかがでしょう?とってもかわいい」

 文乃が指差したうさぎを行商人は手に取り「こちらでようござんすか」と訊ねると、富嶽は「じゃあそれもくれ」と言って袋に包むよう頼んだ。そうして暫し眼の保養を楽しんでいると調理場から、女将の声が飛んでくる。文乃は小言を言われぬうちに「それじゃあ、また夕時に」そう言って己が仕事に戻った。

 陽が山に隠れ始めた頃富嶽に夕餉を持って行くと、角部屋の庭には子どもたちが三人、いまだに声を上げはしゃいでいた。余程懐かれているのか、家の人が心配するぞと富嶽が何度言っても聞かず、離れず、まだ遊んでくれとせがんでいる。業を煮やした富嶽は一度縁側へ上がると白い包みを三つ引っ掴んで差し出していた。

「ほら、これやるからけえんな。明日は朝早く宿出るって言ってたじゃねえか」

 富嶽は包みを一つずつ小さい手に押し付ける。子どもたちは不思議そうにそれを広げ、中を確認した途端にきらきらと目を輝かせていた。富嶽は一人の子の頭を撫で、分かってくれるなと諭す。説得に渋々首を縦に振り、子どもたちは命一杯手を掲げ富嶽のもとから去った。また遊んでね。に返す富嶽の言葉を文乃はよく聞き取れなかった。
 子どもたちを見送った富嶽は、雨戸の鴨居から手を離し部屋へ反転した。文乃が夕食の支度を済ませ、鎮座している事に今しがた気がついたらしい。一連のやり取りを見られていたと知るやいなや、どうにも居心地が悪そうな素振りをみせた。腕を肩からぐるりと回すと、手先が鴨居にがつんと当たった。景気の良い当たりっぷりに顔を歪め、富嶽は少々涙目になりながら手を振り痛みを払った。

「いっ…、いつから見てやがった…」
「皆が楽しそうに声を上げている辺りでしょうか。でもちゃんとお声掛けして、お部屋には入りましたよ」
「…そうかい」

 座布団に腰を下ろすと富嶽は早速手を合わせた。
 今日の献立は、鮎の塩焼きとかぼちゃの煮物、それから汁物と白飯である。富嶽は毎食おいしそうに箸を運んでいる。二杯目の飯をよそうと、思い出したかのように「酒もいいか」と文乃に頼んだ。

「あんたが酌してくれんだろ、何ならあんたも一杯どうだ」

と、当たり前のように言う。怪我を負い、病み上がりでもあったが為に、鈴屋に来てからというもの富嶽は一滴も酒を口にしていなかった。医者からも特に酒は禁じられていない。文乃は、はいと笑みで返すと調理場へ戻った。

 すっかり帳は落ち、辺りは墨を溶かしたかのように真っ暗になっている。調理場に入ると戸棚から酒瓶を取り出し、徳利と盃を盆に乗せた。酒の肴は何が良いだろうと考えた文乃は、佃煮や沢庵などを物色した。するとそこへ勝手口から同僚の女給が現れた。文乃はお疲れ様とねぎらいの言葉を掛けるも、彼女は戸口に突っ立ったままなかなか中に入ってこない。柱に掛かる提灯の火に彼女の顔がぼんやりと映し出されたが、ただ呆然と文乃を見つめ返している。前掛けを翻し文乃は彼女に駆け寄った。

「どうしたの…?顔真っ青よ」

 少しかがんで、うつむき加減の彼女を覗きこむと唇はわなわなと震えていた。

「今さっきお見送りしたお客さんが話してたの…早く出なきゃなって…」
「…、何のこと…?」
「近くの結界に穴が空いてたんですって。鬼も入った痕跡があるって…」

 鈴屋界隈はウタカタの里でも端の方にあり異界と近い。故に必然的に結界の境目も近くなる。その為、鬼ノ府の監視櫓や小屋が点々と配置され、そこにはウタカタ本部から派遣されたモノノフが常駐していた。何らかの異常があった場合には即時に里の本部から応援が駆けつける手はずが整っている。
 つい先日起こったホオズキの里の事もあり、彼女も過敏になっていた。文乃も身の竦む思いだが、里を守る神垣の巫女とて人だ。時には十分に力を発揮できず、結界が薄くなってしまう事もある。実際これ迄にも同じような事は起きていた。その度に、常駐するモノノフらが鬼を討ってくれていた。きっと今回も、里のモノノフに任せていれば心配はない筈だ。
 文乃はまるで自分に言い聞かせるように彼女を宥め、仕事を終えたなら早く宿舎で休むようにと勧めた。
 それから徳利と盃と、少しの肴を盆に乗せ、文乃は再び富嶽の部屋へと戻った。富嶽は少々暇のあったことに首を傾げていたが、黙って盃を受け文乃は酌をした。ところが突然、富嶽は文乃の手首を掴んだ。

「おい、大丈夫か…」

 あろうことか文乃は気がかりが表に出てしまっていた。酌をする手が震えていたのだ。鬼が里内に入ったかもしれないという事実を、富嶽に言って良いものか考えあぐねていた。彼とてモノノフだが、死屍累々の残酷と絶望を目にしてきたばかりである。富嶽に話せば必然と頼み込んでいるようにも思え、流石に後ろめたさがあったのだ。
 富嶽は、文乃の変わりように「熱でもあるんじゃねえのか」と手を伸ばした。指先が額にふれるか触れまいか ──、
 その既の所で突然どんっと地響きのような轟音が辺りを満たし、ぐらぐらと天井が軋んでいた。まるで宿ごと揺さぶられたかのような衝撃だ。部屋の隅にあった行燈はことりと倒れ、慌てて富嶽は畳に移った火を座布団で叩く。真っ暗闇の中、今度は金属を擦り合わせたかのような咆哮が貫いた。二転三転する状況に着いて行けず、文乃はただただその場から動けない。すると今度は富嶽にいきなりに腕を掴まれていた。太い腕はがっしりと文乃の胴に回っていた。

「動くな。しかし何だこりゃあ…」

 はらりと埃が落ち来る天井を見上げ、富嶽は呟いた。文乃はついに同僚の話を口にした。結界を抜け鬼が侵入したかもしれないと。すると、富嶽は文乃を正面に見据え肩を掴んだ。

「何でもっと早く言わねえ、その櫓はどこだ!監視小屋や櫓が近えのに、何も音沙汰無しってのは妙じゃねえか。今のからすりゃ、でけえのが狙ってきたに違えねえ…」

 富嶽は、立ち上がるとすぐさま着替え、武具を身につけた。文乃は焦った。まさか、一人で外へ出ようというのではなかろうか。だとすれば余りにも無茶が過ぎる。文乃は富嶽にしがみついた。

「富嶽様、正気ですか!」
「いつもならここのモノノフ連中が対処してるんだろうが!それがねえってことは…、考えたくはねえが万が一ってこともあんだろう!」
「ですが…!」
「今誰かが行かねえでどうする…俺あもう御免だ…」

 文乃の制止虚しく、富嶽は腕を振り解くと「宿の連中には誰一人として外に出るなっつっとけ!」そう叫び一人夜闇に出て行ってしまった。今に心臓を握りつぶされそうな思いだった。追いかけるにもどうしてよいのか分からず、また文乃はこの宿に留まらねばならない身の上を悔やんだ。

 確かに富嶽の言ったように、小屋や櫓が近いにも関わらず何の知らせも無い現状はまずい。今なら馬で休まず駆ければ、朝には里の中心部に到着する。里のモノノフに状況を説明すれば、お頭なら、何とかしてくれる筈だ。そう考えた文乃は女将の元へと急いだ。
 文乃は着物の乱れなど気にせず袂を持ち上げ必死に駆けた。既に廊下には物音に驚いた客らが起きだし、提灯を掲げ右往左往していた。女将と店主は「落ち着いて下さいませ」と客らを宥めている。轟音については、近くの土手が崩れたともっともらしい説明をしていた。だが勿論、自然現象の類ではなく、鬼の仕業であることは誰もが予想しうる範疇だ。不安を携えた客らは逃げるに逃げ出せず、女将と店主の説明に納得いかないと苦言を呈している。文乃は人だかりから女将の袖を無理矢理に引っ張った。

「なんだい!文乃!見て分かるだろうこの状況が!今忙しいんだよ」
「女将…。女将は結界のこと知っていたんですか」
「知っているも何も、私だって客の噂だとばかり思ってたよ!でもこうなっちまった以上、私たちにはどうすることもできやしないんだ」
「今、富嶽様がお一人で外に…行かれました。里の中心部にどなたか早馬を頼んでやって下さい。モノノフに応援を頼んで下さい…!」

 必死に乞う文乃を、女将は更に廊下の端に引っ張ると、声を落とした。

「ちょいと、待ちな。なんであの旦那が行くんだい。死ににでも行ったのかい」
「違うんです、富嶽様は…モノノフです…、ホオズキの里の、モノノフだったんです…!」

 文乃の声は、ざわつく客を静まらせるのに十分だった。皆、富嶽がモノノフだったことは知らない。それもそうだろう。いつも着流しをまとい、ぼんやり空を眺めているだけの、せいぜい浪人か流浪者だと思っていたに違いない。
 女将は、使用人を呼びつけると、すぐにウタカタの中心部に向け発つよう頼んでくれた。客には、誰一人として宿から出ないようにと今置かれている状況を説明した。文乃は、女将の代わり身と差配にぽかんとしていた。

「女将さん…」
「勘違いするんじゃないよ。この宿潰されちゃ堪ったもんじゃないってだけだ。だけど、何もかんも失ったってのにね…。縁も無いだろう里のために大した度胸だよ…」

 女将は、それから動ける女給を調理場へ集め、夜食の握り飯を作らせた。文乃は塩の効いた大きめの丸い握り飯を二つ作り、夜通し富嶽の帰りを待っていた。

 ・

 富嶽は、明朝鈴屋に戻った。
 宿の暖簾を潜った際には疲労も見えたが、文乃の心配とは裏腹に随分と晴れやかな表情だった。
 彼が肩を貸しているのは監視をしていた里のモノノフのようで、戦闘中に足を挫いたらしい。他にも富嶽は、幾人かのモノノフを鈴屋に連れていた。皆、結界から侵入した鬼の掃討に手を取られ、周辺の民家や集落に連絡する余裕が無かったのだという。今は、異常に気づいたらしい神垣の巫女が祈祷をし、結界の穴とやらは塞がったのだそうだ。暫くすれば、巫女伝いに異変を知らされたモノノフが本部から来るだろうと言う。
 監視隊の隊長らしいモノノフは、女将や店主に頭を下げていたが、致し方の無い事である。店主は、しばし鈴屋で羽を休めてはどうかと隊員に勧めた。
 宿に轟音を立たせた鬼はやはり大型鬼のミフチという見かけ蜘蛛の様な鬼であったらしく、その足は富嶽が宿を飛び出して早々力まかせにもぎ取ったらしい。ミフチを追い、富嶽と共に奮闘していたモノノフは、猛々しい武勇を話しながら自らが興奮していた。富嶽は、文乃が心配に及ぶことのない大変優れたモノノフであるらしい。大事なくて幸いと言ったところだが、文乃は富嶽を迎えようやく生きた心地がした。
 しばし玄関に腰掛け話を続けていた富嶽だったが、隊員たちが広間へ案内されると自らも部屋へ戻った。文乃は、着替えや手ぬぐいを持ってその後を黙って着いて行く。決して信じて居なかった訳ではないが、昨晩取り乱したことを思い返せばやはり恥ずかしい。だが前を行く富嶽は、なんとなく文乃の知らない富嶽であるように映った。
 宿では見慣れないモノノフの装束、知らない歴戦の傷跡、その背に駆け寄りたい衝動を抑え、文乃は変わらず己が仕事を務めた。
 富嶽は部屋に入ると、さっさと縁側に座ってしまった。後ろ手をついて明けた空を見上げている。

「あの、富嶽様…、お怪我のほどは…」

 恐る恐る尋ねる文乃に、富嶽は首をひねった。

「あ、いや。大したもんこさえちゃいねえ」
「左様で…、熱もさめたばかりですし、何かあったらすぐに呼んで下さい。お風呂は沸かしておきましたので。お着替えはいつもの場所にございます。それでは、」

 そう言って文乃は、部屋を出ようと襖に手を掛けた。が、また「おい」と声が掛かった。振り返れば富嶽は文乃の目前にしゃがんでいる。

「何か、必要なことでも…?」
「あ、いや、なんだ…。その、昨夜は怒鳴ったりして悪かった。必死だったもんで…なんつーか」
「いえ、ご無事で帰って来てくださって…、何よりです。本当に良かった…」

 文乃はとうとう堪えきれず、懐から手ぬぐいを出し目頭を押さえた。突然文乃が泣き出すので富嶽は慌てふためいている。すると、手に持っていたらしい包みを文乃に差し出した。包みを開くと中から出てきたのは文乃が選んだうさぎの飴細工だった。

「はじめからあんたにやろうと思ってた。いつもの礼には及ばねえかも知れねえが…」

 文乃は嗚咽し、なりふり構わず富嶽の胸に飛び込んだ。今だけだ…と唱えるも背へ回された腕に、尚も望んでしまう心が渦を巻いていた。