04 ともに、

 ウタカタ本部への往路を駆けていた使用人は鈴屋を出て直ぐ、里末端の異常を巫女より受け、急行していたウタカタ隊員と運良く鉢合わせしたらしい。使用人は路を折り返し、モノノフたちと共に昼前に鈴屋へ戻ってきた。
 文乃はその頃、大量の小鉢を追い、調理場で昼餉の盛り付けを手伝って居た。が、使用人の到着と同時に突然女給の黄色い声が響き、思わず箸を落としてしまった。板長も料理人も何事かと目隠しの暖簾を押し、隙間から廊下を覗いた。玄関には帰還した使用人が居たが、本部からやってきたモノノフ数名も一緒だ。鈴屋で負傷者を預かっているので様子を見に来たのだろう。
 前掛けで濡れた手を拭き、文乃は板長の脇の下からすっと頭を滑りこませた。玄関で女将と話をするモノノフ一行を確認するなり、女給たちの騒ぎっぷりがようやく理解できた。
 うち二人のモノノフは、若い娘の目を奪うのに十分な容姿だった。果たして本部の人間なのか疑問に思ったが、身に着けている着物にはしっかりとモノノフの紋様が刺繍されていた。
 金髪の男は陣羽織の背に、口布をあてた黒ずくめの男は被っている頭巾に、それぞれ金眼四ツ目があった。後者の男性は忍の様にも見える。彼が口布をずらした時、再び甲高い声が廊下に跳ねた。女将へ軽く頭を下げ、身振り手振りを加えつつ話を始める。内容は上手く聞き取れなかったが、昨晩の鬼の騒動について経緯を説明している様子だった。一方の金髪男はへらっと笑みを浮かべ、階段端から顔を覗かせる女給たちに役者宜しく手を振っている。彼女たちもわざとらしく初々しい素振りを見せ、胸の前で振り返していた。
 文乃の後ろから覗き見ていた料理人の一人が「猫被りやがって」とぶつぶつ文句を吐き捨て仕事に戻った。あの中には、どうやら彼の気になる女給が居るらしい。板長が苦笑いをしながらそっと文乃に呟いた。
 調理場が油を売っていても昼は待ってはくれない。持ち場に戻れと板長が号令を出し、皆再び昼餉の用意にとりかかった。
 全ての小鉢がほうれん草でいっぱいになると、暖簾から女将が顔を出し文乃を手招いていた。

「文乃、ちょいと来な」

 板長に断り、文乃は諾々と廊下へ出た。そこには先ほどの金髪男と忍が居た。文乃は首を傾げた。

「女将何か御用でしょうか…?」
「文乃、あのお客人の部屋にモノノフの方をご案内して差し上げなさい」
「…それは構いませんが」

 この二人がいくらモノノフであるとはいえ、富嶽の知り合いには全く見えない。文乃が訝しげに二人を交互に見るので、金髪男はにっこりと笑いかける。どことなく胡散臭く思える。文乃は表に出ない様に務めた。

「俺は息吹だ。里の仲間が昨晩は随分と世話になったって聞いたからな。一言礼を、と思って」
「左様でございますか…」
「忙しい所申し訳ない。自分は速鳥と。案内を頼む」

 女将に尻を叩かれ、半ば急かされた形になった。文乃は、二人の前を歩き角部屋へ向かった。
 部屋の前に着くと、客人だという旨を襖越しに伝えた。しかし富嶽は部屋には居る様子だが、返事は無かった。今一度声を掛け、襖を薄く引いてみる。昼寝の邪魔をしたなら悪いと思い、静かに中を確認しようとするも、いつの間にか文乃の頭上には後方より腕が伸びていた。無礼などお構いなしに息吹がすたんと一気に襖を引いてしまった。
 富嶽は起きていた。部屋の入口には背を向け、縁側に座っている。突然の来訪者に微塵も興味を示さず、そっけない態度で振り向きもしない。
 勝手に客人を取り次いだことに文乃はばつが悪かった。富嶽の側へ寄ると、文乃は声を落として謝った。

「富嶽様、勝手なお取り次ぎ、申し訳ありません」

 無表情を貼り付けたままの富嶽は、じいっと庭の石灯籠を睨んでいる。だが怒っているという様子でもない。よくよく富嶽の表情が読み取れない文乃は続けた。

「ウタカタのモノノフの方です。昨晩の礼を言いたいのだと仰られてお連れしました」

 文乃の説明に富嶽はため息をついていた。ずんと肩を落とすくらいに息を吐くと、ようやく客人へ体を捻った。

「折角来たところ悪いが帰ってくれ、俺はあんたらに用は無い」

 振り返った富嶽はあぐらをかき、膝の上で硬く拳を握った。
 いまだ、客人の二人は一言も用件も発していないのに、富嶽には内容問わず断固拒否の姿勢がありありと見える。いや或いは、二人が訪ねてきた用件を知っている様子にも見受けられた。
 息吹と速鳥も富嶽のそんな態度は元より承知の上だったのだろうか、別段気分を害した様子も無く部屋に入ると、何食わぬ顔で座敷に腰を下ろした。

「貴殿が富嶽殿か。その洞察力をお持ちなら話が早い。昨晩の礼も然ることながら折り入って話があり参った次第。自分はウタカタの里のモノノフ、速鳥だ。こちらは息吹殿。以後お見知りおきを」
「息吹だ、よろしくっ。あんたの話は聞いてるぜ。武勇とか武勇とか嫉妬しちまうくらい武勇ばっかだけどな」

 わざとらしく笑った息吹は、後ろ手に手をついて天井を見上げていた。込み入った話であるなら文乃は退室すべきだと腰を上げたが、「いい」と富嶽に言われ、その場に留まった。
 富嶽は面倒くさそうに、頭の後ろをかいている。

「何度も言うが俺は用がねえ。見知るつもりもねえから帰ってくれ」

 速鳥は構わず続けた。

「自分たちはお頭の命でやってきた。故に手ぶらで帰る訳にも行かぬ。霊山からも貴殿の処遇については委任すると、こうして書簡も預かっている」

 懐に手をいれると速鳥は一通の書簡を取り出した。さっと横に長い紙を広げ、逆さにすると富嶽へ内容を見せる。富嶽は黙って視線を上下に走らせた。文の終わりには立派な押印が見えた。文乃もその印はよく知っていた。宿に送られてくる鬼の注意喚起の触れ書き等に必ずある霊山の印である。

「何で霊山がわざわざ…こんなもん」

 モノノフが面会を頼み、尚且つ霊山が委任状まで預けるまでの話とは何なのか文乃にはさっぱり分からない。ただ、富嶽がホオズキの里のモノノフであったことは、既に息吹も速鳥も承知のようだ。息吹は得意気に口を開いた。

「ホオズキの検分はとっくに済んでる。里は全滅だって聞いてたけどあんたの亡骸は現場に無かった。直ぐに霊山はあんたを捜し始めた。あんた程の力を持つモノノフ、このまま放っておくには勿体ない、ってね」
「霊山の意向なんざ知るか。もっとも、今あんたらの目の前に居る俺は、とっくに死んじまってる物の怪の類とも限らねえんだぜ」

 自嘲気味にそう言った富嶽に、息吹は腹を抱え目尻に涙をためていた。

「はは、あんた面白いな。霊山には凄まじい霊力を持つ霊山君が居るのを忘れちまったわけじゃねえだろ」

 霊山には、神垣の巫女を遥かに凌ぐ霊力を持った、霊山君というモノノフの頂点に君臨する巫女が居ることは文乃も知っている。
 息吹が言うに、ホオズキの事件の後、霊山君は凄惨な現場跡から富嶽の思念を追ったのだそうだ。思念とは、記憶の残り香みたいなもので、中つ国の神垣の巫女は霊力を使ってそれらの痕跡を追い、思念を通じて情景を見たり、声を聞いたりできる。それらの術は千里眼と呼ばれていた。

「霊山君は、鬼に食われた可能性も考えて冥界にも耳を澄ました。けど、そこからあんたの声は聞こえず、代わりに“とある幼い巫女”が正直に言の葉を紡いでたって訳だ」

 富嶽はしばし無言だった。とある幼い巫女とは、富嶽が以前話していたホオズキの神垣の巫女だろう。とても親しい仲だったと文乃は聞いていた。

「…ったくよ。組織ってえのは、こんなにも束縛されなきゃならねえのか。俺の仲間は皆死んじまったし、里はとっくになくなった。俺は一人だ。好きにさせてくれ」

 速鳥は縛っているのではないと首を横に振った。
 現在、ウタカタをはじめ各地で新しい鬼やこれまでには見られなかった強力な鬼が相次いで出没しているらしい。ウタカタの結界が頻繁に薄くなってしまうのも、体の弱い神垣の巫女がその鬼の異常に日夜疲労を蓄積してしまったが為、祈祷が不安定なのだ。この状況が続いてしまえば、必然的にモノノフの役割はこれまで以上に重要となる。早期異常の発見、対処は勿論のこと、周辺警護にも益々人員を割かねばならない。刻々と変わる状況に柔軟に対応するには、言わずもがなモノノフの経験と能力が必要となってくる。要は即戦力と言うわけだ。

「ウタカタはこの脅威に立ち向かい、鬼を掃討する。それがお頭の今後の方針だ。その為には、件の鬼と相まみえた貴殿の力が必要なのだ。失礼ながら、霊山君の千里眼による報告書には目を通させてもらった。貴殿のホオズキでの奮迅には恐れ入る…。ウタカタにも是非ともその力をお貸し願いたい。しばし、ウタカタのモノノフとして勤めてはくれないだろうか」

 速鳥は頭を下げた。なかなかに忠のあるモノノフである。だが富嶽は尚も口を真一文字にし、押し黙ったままだった。速鳥はもうひと押しとばかりに言葉を重ねた。

「お頭は、決して同情や哀れみなどで自分たちを遣いにやったのではない。手柄は好きなだけ持っていけとも言っている」
「は、ウタカタってのは酔狂な連中ばっかか。他里の人間に美味しいところ持って行かれちゃ、霊山のジジイどもが里の怠慢だっつって血管切らしちまうぜ。あんたんとこのお頭が、後で上から色々言われんだろうが」
「そんくらいうちのお頭は、里の手柄だとか、己の保身だとか、身分だとか考えちゃ居ない。日々のウタカタでの暮らしが、鬼に脅かされず無事であればいい、そういう考えの人だってこった」

 息吹の言葉に、文乃はウタカタのお頭を思い浮かべていた。実を言うと、お頭の“大和”は、よく鈴屋を利用していた。霊山で御所会議という各里の長が集まる会合があり、道中夜が遅くなると鈴屋に宿を取ることがあるのだ。大和は大らかで女郎たちにも偏見無く接してくれる。毎回付き人も数名連れているが、大和の人柄の良さは部下からの信頼によく現れていた。
 今話しをしている速鳥もそうだ。是が非でも富嶽を本部に連れて行きたいという熱心さは、大和への信頼の証だろう。
 モノノフが命がけで里を守ってくれる、即ち大和は命をあずけるに値するお頭、とも取れる。里の人間にとっても、こうして日々隊員たちのお陰で生活が送れているのだ。お頭が大和でよかったと誇らしく思える。
 速鳥は頭を上げると真っ直ぐに富嶽を見据えた。

「自分たちは、周辺調査のためしばらく滞在する予定だ。すぐにとは言わない。が、良い返事が頂けるのを待っている」
「おい、俺はまだ何も…」
「猶予があるからいいだろー。そう切羽詰まんなって。ゆっくり考えてくれていいからさ」
「ったく、他人事だと思いやがって」

 時間を裂いて頂き感謝する。話は以上だ。と言い、速鳥と息吹は立ち上がった。文乃はすぐ入口まで行き襖を引いた。速鳥は敷居を跨いだが、息吹は留まり、今一度富嶽に振り返った。

「あんた、ところで…。この宿にはどれくらい泊まってるんだ?」
「ああ?なんだ、藪から棒に」
「仇討ちに行く気があるなら、さっさと鬼を探しに出て行ってんじゃないのか、と思ってさ」
「何が言いてえ。初対面のくせして、礼儀も何もあったもんじゃねえな、俺にも色々あんだよ放っとけ」
「いやあ、ココに居なきゃならない特別な理由でもあんのかって思っただけさ。ああ!わかった。ここの女給さん可愛い子多いから毎晩お楽し…」
「息吹殿、口を慎まれよ」
「悪い悪い。俺も今晩頼もうかななんて、あはは」
「その辺になされよ。申し訳ない、富嶽殿。それではまた後日伺おう」

 速鳥は、同僚の無礼を詫び、一度頭を下げて二人は部屋を出て行った。文乃は茶を出すことすらも忘れていた。昼はもうとっくに過ぎている。
 一度部屋を離れた文乃は、富嶽に昼食を持って戻った。富嶽は静かに箸を動かしていた。

「ウタカタのモノノフの方は、とても賑やかな方でしたね…」
「本当にな、うるせえったらありゃしねえ」

 富嶽が空になった茶碗を差し出す。文乃は当たり前にそれを受け取り飯をよそって返す。おう、すまねえと軽く告げられる言葉に、近頃の文乃はしばしば胸が詰まるようになっていた。それだけに、速鳥たちとの会話の中で「俺は一人だ」と言い放った富嶽の言葉は殊更頭の隅に残っていた。
 昨晩、富嶽はまだ状況も定かではない頃、得体のしれない鬼に単騎で突っ込み無茶をした。結果無事に帰ってきたから良かったものの、文乃は気が気ではなく一睡も出来なかった。一人であるが故に、己が命をなりふり構わぬような扱いをしてしまうのだとしたら、文乃は一人でも気にかけている人間が居る、その事を伝えたかった。口にしても良いものだろうか…文乃は逡巡していた。
 茶を注いだ湯のみを握ったまま、俯いているのを不思議に思ったのか、富嶽はおい、と声をかける。思いつめたような表情に富嶽は目を見開いていた。

「どうした…。具合でも悪いのか」
「いいえ、富嶽様、あの。ただの女給の独り言として聞き流してくださって構いません…」

 文乃が改まって居すまいを正すので、富嶽も茶碗を置いていた。

「富嶽様は、速鳥様に俺は一人だと仰っていましたが…、少なくとも私は、富嶽様の御身を心配しておりました。昨晩のミフチもそうですし、委任状とやらが霊山から出されるほどのお方というのは十分に理解しているつもりです…。ですが、富嶽様に万が一のことがあったら、悲しむ人間がここにいる事を、どうか頭の片隅にでも留めて頂けたら…と」

 言葉尻は小さくなり、文乃は恐る恐る顔を上げた。富嶽は豆鉄砲を食らったかのような顔、いや、呆然と文乃を見つめていた。まさか、こんな事を言われるとは思っても見なかった様子だ。次第に文乃は羞恥が湧いてきた。

「出すぎたことを…、申し訳ありません。あの、私、大広間にも行かねばなりませんので、失礼いたします」

 空いた皿だけ盆に乗せると文乃は目も合わせず、そそくさと部屋を出た。
 調理場に戻った文乃は、襷を締め直し大広間を駆けずり回った。忙しく飯をよそっていれば、ぐるぐると胸を締め付けるような感情も、羞恥心も何もかも忘れられた。

 昼の波がようやく落ち着くと、文乃は休憩室に向かった。ところが廊下の向かいから、女将が歩いて来るのに出くわした。文乃を捉えるなり、あら丁度よかったわと嬉しそうに駆け寄ってくる。こういう時の女将の話といえば、十中八九、店の売上に関することだ。文乃は調理場で羊羹をかじって居れば良かったとげんなりした。

「今度は、なんですか女将さん」
「あんた、今晩ご指名だよ。ウタカタから来られた息吹様、夜になったら菖蒲の間、行ってちょうだいね」

 自分が宿場女郎であることを忘れていた訳ではないが、文乃はしばし思考が停止した。

「女将さん、何かの間違いじゃ…」
「なに言ってるの、自らあたしんとこにお越しになって直接聞いたんだから間違いじゃないよ。ちゃんと働いておくれよ。あんた、富嶽様が来てから他の旦那方の相手してないじゃないか」

 だいたいねえ、と言いながら女将は腕を組んだ。これは小言にとどまらず説教が始まろうとしている。文乃は頭を抱えたくなった。

「いくらあんたが古株だって言っても、まだ若いんだ。今稼がないでどうすんのさ。わたしゃ別に構いはしないよ?あんたの返済が遅くなろうが、早くなろうがね」

 鈴屋に売られた娘は、ほとんどが若いうちに身を売って借金を返す。返済を終えた者は鈴屋に残り老いるまで女給として働くもよし、さっさと働き口を探して店を出るもよしというのが決まりだった。それ故、女給としてしか借金を返済せぬ者は必然的に稼ぎも減るので、返済期間は伸びる。借金は利子で膨れ上がるのだ。
 文乃も最近までは昼も夜も働き詰めだった。だが、女将の言うように富嶽が来てからは他の客を相手にしていない。しかし女将も気分屋故か、随分勝手である。
 血塗れた身元もわからぬ怪しい客を招き入れ、結局身の回りの世話は全て文乃に押し付けた。当然怪我の手当も必要で、夜な夜な包帯を取り替えたり、薬を塗ったりと献身的に看病もした。最初は理不尽さが勝っていたが、共に過ごすうち、淡くて居心地の良いものに心身満たされつつあった。富嶽に頼られることも、うさぎの飴を貰うのも、他愛無い話をするのも、彼が鈴屋に居る短い間にしか出来ぬ事だ。せめて叶わぬ思いならと女給の仕事ばかりをやっていたのである。認めてしまっては、中々他の客を取る気にはなれなかったのだ。甚だ幼稚な考えだとも言い切れなくはないが、少しばかり良い夢を見ているのだと思うよう努めていた。故に気が進まないのである。
 黙る文乃の頬を女将は掴むように両手でむにと挟んだ。

「ああもう、久方ぶりの上客だってのに、なんて顔してるんだい。ほらしゃんとして、いいね。頼んだよ」

 その夜、文乃は富嶽の夕餉を別の女給に任せ、呼ばれた客人の部屋へと向かった。

 翌日、文乃は朝食を持って富嶽の部屋を訪れた。声を掛けると、中からおうと返事がある。膳を富嶽の前に置くと、いつもと変わらずお櫃の蓋をあけ白飯を茶碗によそう。富嶽は手を合わせると、一番初めに手をつけるのは決まって沢庵だった。小気味いい音が止むと、今朝は珍しく富嶽から口を開いた。

「なあ、あんた。昨夜は…金髪野郎に呼ばれてたんだってな」

 傾けていた急須の注ぎ口は湯のみを外れ、茶が盆に注がれてしまっていた。
 文乃が昨晩部屋に来なかったので、代わりに来た女給に尋ねたのだろう。文乃は今一度富嶽の湯のみに茶を入れことりと膳の上に置いいた。

「…はい」
「その…、なんだ…。あんたもそういうことしなきゃならねえのか、」
「鈴屋の女給は、殆どが宿場の女郎でもありますから…。女将から呼ばれれば致し方ありません。でも、昨晩の息吹様とは少しのお話と、あん摩をしただけでした」

 富嶽は独りでに茶でむせていた。
 文乃は慌てて富嶽の背中をさすった。手ぬぐいを取り出し富嶽の口元を拭ってやる。浴衣の膝にもむせた反動で茶がこぼれていた。拭いていると、富嶽は文乃の手を押さえる様に握っていた。富嶽はじいっと文乃を見つめるも何も言わない。のではなく、何を言おうか迷っている様子だった。開きかけた口に言葉は走らず詰まっている。
 そう、昨晩呼ばれて菖蒲の間に行ったまでは良かったが、息吹は行為を求めるどころか文乃にはちっとも興味は示さず、肩こりと腰痛が酷いのでほぐしてくれとの頼みだけだった。変わった御仁だったが正直文乃はほっとしていたのだ。
 じいっと富嶽に見つめられた文乃は、頬に溜まった熱に辛抱ならなくなりすぐに逸らした。今度は畳を拭き始めた。

「前にも少し話しましたけど、私、両親に借金があってこの鈴屋に売られてきました。最初は体を張らねば返せない金額でしたけど、今は大分返済も進みました。勿論、夜も身を売ればそれだけ早く自由の身になれる。でも女給の仕事だけで残りは返そうと、つい最近決めたんです」
「そ、そうか…」

 富嶽はいつになく複雑そうな表情をしていた。残りの茶を一気に飲み干すと勢い良く膳に戻し、頭を掻きむしった。

「俺は今、嬉しいのと、残念なのとが半分半分だ…。いや、正直な所よく分からねえんだが…」

 文乃は富嶽の自問自答に首を傾げた。すると意を決したかのように真剣な眼差しを向けていた。

「あんたが別の男と床に入ら無かったのを聞いてほっとしてる…。だが、こっから出るのが先に伸びちまったって事に…残念だって気持ちだ。昨日、俺に言ってくれただろう。あんた俺に万一のことがあったらってよ」

 富嶽は、文乃の言葉を聞き嬉しかったのだと告げた。
 何もかも失い、一人生き残った事実を受け止めたくとも虚無や罪悪感に苦しめられていた。誰一人として救えなかった己の弱さを恨んでいたのだ。しかし、先日のミフチの件もそうだが、職業病かあるいは本能かそれでもまだやりきれない悔しさは残っていたのである。そして文乃の言葉に背中を押されたのだ。今ここに集う者は知り合いですらない他人同士かもしれない。だが、身近なところから自身の力はまだ振るえるのだ。
 富嶽は一度息をついた。

「そう考えたら踏ん切りついちまった。少しでも力になれるなら、ウタカタで勤めて仇を探そうと思ってよ…。正直鬼ノ府に居るほうが鬼の情報は手に入りやすい。闇雲に一人彷徨ってても限界はあるからな」
「では…」
「おう、あいつらの話受けようと思ってる」

 いよいよ富嶽がこの宿を離れるのだと思うと、文乃は胸が痛んだが、富嶽にとっては一番の選択肢だ。文乃は良かったですと笑って見せた。

「あんたは、仕事のつもりだったかもしれねえが、ぼろっぼろの汚ねえ男の面倒見てくれて感謝してる。だから、よ…」

 なかなか富嶽の言葉が続かない。視線を逸らした富嶽は大きく息を吸った。

「これから俺は、ウタカタの人間になる。その…側に居ちゃくれねえか」

 富嶽は照れ臭そうに笑った。文乃は堪えられそうにもなかった。我慢していた感情がぶわりと溢れてくる。

「あんたが、背負ってるもんがあるのは十分分かってる。俺が今すぐ肩代わりできりゃいいんだがよ…、生憎…」
「お気持ちだけで、十分嬉しゅうございます。身内の拵えたものは私がきちんとけじめをつけねばなりません、ですから」

 ── 少しだけお待ちいただけますか

 文乃が全て言い終わらぬうちに、富嶽は腕を伸ばしていた。文乃も大きな体にしがみ付くようにして応えた。

「おう、迎えに来る。必ずだ。それまでそのあれだ…。女給を、頑張れ…。俺もこの里の為に働いてやらあ」

 縁側から差し込んだ朝の陽は抱き合う二人にそっと届き、文乃は富嶽とその時まで互いを想い共に過ごそうと、堅く約束を交わした。

 その後、富嶽は数日のうちに鈴屋を発ち、息吹、速鳥と共に本部へ向かった。それからしばらく月日が流れ文乃は全ての返済を終え、富嶽も目的の大きな鳥の鬼を無事に討伐した。

 ある日鈴屋に訪れたモノノフが、女給を攫ってしまったという少々変な噂が立った事は二人は知る由も無い。
 ─ 幕間 ─


 無事に富嶽から良い返事を聞いた速鳥は、自室へ戻る廊下で息吹に尋ねた。

「息吹殿、貴殿はよくああいう嘘を吐かれるのか…」

 ああいうと速鳥が云うのは、鈴屋の女将に女郎を一人頼んだ事についてだ。彼はもっぱら足腰をいたわって貰うつもりで呼びつけたらしい。女郎を按摩師の変わりに呼びつけるとは、なかなかのものである。

「なんだ、速鳥。結局良い返事貰えたんだから許してくれよ。筋肉野郎にはさっさと決めて貰わなきゃならなかったら、お膳立てしてやったんだ。人聞きの悪いこと言わないでくれ。感謝すらしてほしいくらいだ」
「自分には分かりかねる…」
「そうか、速鳥にも早くいい人が見つかるといいな。命短し恋せよモノノフ、ってな」

 あー、もうあの二人のやりとり見てたらじれったいのなんのって。見ててむず痒くなっちまった。なあ速鳥、ウタカタに戻ったらあの野郎に酒奢らせようぜ。