02 過ぎし日

 八百万ハクを前払いし、おぞましい身なりの客として鈴屋に迎え入れられた富嶽が噂にならない訳が無かった。
 非番だった従業員も客も、居合わせた者から当時の悲惨さを聞かされていたので、渦中の客は文字通り血なまぐさい賊だとか、悪の化身であるかのような想像を膨らませ、皆絶対に角部屋には近寄らなかった。
 だが文乃は奇異の目など気にせず淡々と仕事をしていた。周囲はなにかと心配をする一方で、退屈凌ぎに富嶽についてあれこれと聞きたがった。飯は普通に食うのか、乱暴を働くのではないか、あの手甲とやらには生首が入っていると聞いた…。などと酷い言われ様である。
 文乃はその度に「三食飯も食うし、傷の手当をすれば礼も言う、ましてやあの武具に生首なぞ入っては居ない」と、返答を繰り返した。次第に従業員の興味は薄れ単なる長期滞在の客となっていった。

 しかし文乃は、ひとつだけ心の内に留めていた事があった。それは富嶽がモノノフではないか、という疑念である。何故そのように思うのか。それは、富嶽が鈴屋に来た明朝、彼の洗濯物を干していた際とある事に気づいたのだ。酷い汚れ方をした袴や脚絆を洗い、綺麗になった布地を竿に広げれば見慣れた金眼四つ目が現れたのである。この世でその紋様を知らぬ人間は居ない間違いなく鬼ノ府の紋だった。
 認めた瞬間、文乃は様々な想像が頭の中に駆け巡っていた。
 モノノフとは鬼を討つ鬼との異名を取る過酷な職業だが、モノノフになれば食いっぱぐれる事も無く、人々にとっては憧れの的となり、希望となる。ばったばったと鬼をなぎ倒し人の世を守る戦士像は大変華やかに映るのだ。しかし、一人前となるには厳しい訓練や試験があるとも聞いていた。中には脱落し、訓練中に脱走したり、モノノフの路を諦める者も居る。
 富嶽が宿の暖簾を潜ったあの日、誰が見ても訳ありなのはひと目で分かった。理由は何にせよ言えないひとつやふたつがあるのだろう。そう思い、文乃は深く問うこともせず、また周囲に疑念を口にすることもしなかった。

 そうして、富嶽が鈴屋で過ごし幾日も過ぎ去った。
 文乃は富嶽の世話を任されたとはいえ、彼ばかりの女給ではない。勿論普段の仕事もこなしていく。朝、昼そして晩も大きなお櫃を抱え、愛想を振りまき飯を盛っていた。鈴屋はウタカタの里の端、云わば玄関口である。絶えず賑わう客の噂が吹き溜まる所だ。
 夕刻、鈴屋に到着した客の話題といえば、もっぱらホオズキの里だった。
 以前、ちらと商人から耳にした噂は事実だったようで、あの時既に十日以上も経過していたらしい。噂に具体的な日数が混じり始めたのは、いよいよ鬼ノ府本拠である霊山が調査に乗り出し、被害が公になったとの事である。
 大広間の一角では、燭台をわざと顎の下まで近づけた客が、輪の中心となってホオズキの惨状を陰気に話している。隣の客は焼き魚をつつく箸が止まっていた。文乃も話の凄惨さを想像するだけで気が滅入り、身震いする思いだった。結界子が配置され、巫女とモノノフが居る里ですら、もはや安心安全とは言えないのである。
 初老の男性は文乃から茶碗を受け取ると、人の生き死にを出目の如く話す客に「まったく気が休まらねえことだなあ」と間延びした声で呟いていた。

 その後夕時の忙しい波を超えた文乃は、富嶽に夕餉の膳を持っていくことにした。
 富嶽は大広間で共に食事を取れば気味悪く思う者もいるだろうと、自室で食事を取っている。客の入れ替わりも早く、血まみれでやって来た事を知る客は今は少ないと言っても、彼は従業員にも気を使っているらしかった。人の噂など全く外れていると思うのは、富嶽のこういう気遣いである。
 調理場で小鉢やら汁ものを用意していた文乃は、干物が焼けるのを待っていると「ちょいと文乃」と声が掛けられた。女将だった。少々苦々しい顔をして文乃のたすきを引っ掴み、土間の隅につれてきた。

「文乃、あのいかついお客さん、風呂は部屋のを使ってんだろ。あんたが風呂焚きやら風呂の世話してんだろ」
「はい…?そうですけど…なにか」
「いやあね、あたしゃ店の暖簾下ろした後、戸締まりするために毎晩角部屋あたりの廊下を行き来するじゃないか。だけど、夜半過ぎにかけ湯の音に混じって呻き声みたいな男の声が聞こえるのだけはよしとくれよ。そりゃね、ちゃんとお金も頂いてるし、客がいつ風呂に入ろうが、女郎のあんたと部屋で何しようが、店んもん壊されなければいいんだよ。だけど…」

 昨晩お泊りになったお客様からもちょいと煩いって言われてんの。そう声を落とした強い口調に、文乃ははて何のことだと首を傾げた。全く思い当たる節がなく、女将の言うことは身に覚えがない。文乃は風呂焚きはすれども一度たりとも富嶽に湯女まがいを働いたことは無い。
 文乃は毎日夕餉の膳を角部屋へ持って行くが、富嶽は食事を終えるとすぐに風呂に入るのだ。この時点で女将の言っている事は客違い、はたまた部屋違いではないかと思った。富嶽が風呂に入っている間は、新しい浴衣や手ぬぐいを用意したり、膳を片付けたり風呂焚きの番などしているし、風呂を上がれば着替えや傷の手当もするので、富嶽が夜中風呂に入っている筈がない。
 これまでに夜中に風呂に入りたいとか、そういう要望も一度もない。文乃は疑問に思うも、そんな声は女将の聞き間違いだと考え適当に返事をした。焼き上がった干物を皿に盛り付けると角部屋に向かった。

 声を掛けると、中から僅かな返答がある。すっとふすまを引くと富嶽は縁側からぼんやりと庭を眺めていた。

「お夕食をお持ちいたしました」
「おう」

 いつもの定位置に膳を置いた。床の間を背にし、富嶽は座布団に腰を下ろすと手を合わせる。文乃は急須を傾け茶を注ぎ湯のみを膳に乗せた。椀に伸ばされた太い腕が浴衣の袖口より覗いている。先日軟膏を塗った擦り傷は大分治っているようだった。

「腕の治りは早かったですね。背中の傷の具合はいかがですか」
「まあ…、多少はいい」
「お医者様は明日の朝到着されるそうです。もう少しご辛抱下さいな」

 てきぱきと夕餉を差し出した後、文乃はすぐ風呂の支度を始めた。着替えを用意し、まきを焚べ、湯加減を見ていると食事を終えたらしい富嶽が脱衣所から顔を覗かせた。よろしいですよ。と答えれば、さっさと風呂に入る。
 風呂場の木戸を引き、再び部屋へ戻った文乃は、膳の片付けや寝床の用意などをした。やはり女将の言っていた事は空耳か、人違いだと納得するように心のなかで頷いて、文乃は「おやすみなさいませ」と富嶽の部屋を後にした。

 一日はあっという間に過ぎ、仕事を終えた文乃は襷を解いて自室へ戻った。女給たちは、宿の裏手にある従業員の宿舎で寝泊まりをしている。食事や風呂は、客が少ない時や引いた頃を見計らい共同で使っていた。本日の客入りは満室だったせいか、昼は猫の手も借りたいほどの忙しさで、他の従業員は早々と床についている。着替えを持った文乃は、皆を起こさぬようにそっと部屋を抜け出ると大浴場に向かった。入浴時間外の誰も居ない風呂を独り占めできるのは従業員の報労、至福である。
 廊下をひたひた歩き、庇から空を覗いた。雲ひとつなくまんじゅうを思わせる丸い月が眩しかった。文乃は湯上がりにひとつくすねる小悪事を思いつた。調理場の戸棚には今日の客の残りがいくつかある。女将が先に手を出していないことを祈り、一日の疲れを癒やしにかかった。
 風呂を上がった頃は既に月も大分傾き、草木も眠る丑三つ時だった。まんじゅうまんじゅうとお経のように唱えながら調理場に忍び込み、無事に見つけた文乃は誰にも見つからぬうちにさっさと勝手口より出た。ところが、渡り廊下に出た途端、カランと何かが転がる音が響いたのである。はっとして思わず立ち止まり、左右を確かめた。廊下には足元を照らす行燈が数間おきに配されている。暗がりには誰も居る気配はない。ぞわっと毛が逆立つ思いがして、文乃は足早に宿舎を目指した。ところが今度は、先程のカランよりもガタンと重たい音が響いたと同時に、男の呻きに似た声が聞こえたのである。まんじゅうの包みをしっかり懐に収めた文乃は、音の出処を確かめたかった。これはきっと、女将が話していた怪奇な物音に違いない。
 今一度カランと最初に聞いた軽い音が響き、文乃は板張りを軋ませぬよう音のする方へそっと進んだ。女将が言っていた通り、音は角部屋の辺りから聞こえる。一体何の音なのかよく分からない。だが、次に男の呻き声のようなものが聞こえた時、明らかにざばーっと水をかけ流す音が聞こえた。
 今文乃のいる場所は、角部屋の目前、富嶽の部屋だ。辺りの部屋は火が消えた中、この部屋だけは襖の隙間より僅かな灯りが漏れ出ていた。

「夜分遅くに失礼します。富嶽様…。まだ起きていらっしゃいますか」

 声を落として呼びかけるも返事はない。だが、確かに女将の言っていた音はこの部屋から聞こえる。女将の言っていたのは事実だったのか、それとも他の女給でも連れ込んでいるのかと一瞬過ぎった。訳が分からなくなって混乱した文乃は、無礼を承知で襖を開けた。
 部屋に入ると敷かれた布団に富嶽は横たわって居なかった。しかし掛け布団は捲れたまま、今しがたまで寝ていた痕跡はある。こんな夜中にどこへ行ったのかと部屋を見渡すも、荷物も武具もそのまま残っている。すると、またガタンと音が響き、呻き声が聞こえた。文乃は慌てて風呂場の木戸を引いた。中には寝巻きを脱いだ富嶽が、湯船の縁に上半身をもたれさせ桶に冷めたであろう残り湯をすくっていた。顔は青く、額には汗をびっしょりとかいている。いや、体じゅうが濡れていた。

「富嶽様…!一体、何をなさっているのですか」

 朦朧としていた富嶽は、文乃が居ることに驚いた様子で、何か言おうとしたが顔をしかめて踞ってしまった。駆け寄った文乃は、富嶽の体を支える。半裸の背中をみると、傷が真っ赤に腫れていた。恐らく富嶽は、激痛を紛らわすために水を被っていたのだろう。傷口に触れた痛みに耐えかね、呻いていたのだ。

「我慢なさらず、おっしゃってくだされば…。夕刻までは薬売りの行商もおりましたのに…」
「あんまし迷惑掛けてもいられねえと、思ってよ…」
「遠慮をするなと申しましたのは、これで二度目です」

 文乃は富嶽に肩をかし、風呂場から寝床まで運んだ。横になるのは辛そうなので、上体を起こしたまま濡れた体を拭いた。だが、額の汗が止まらない。手のひらをあててみると酷い熱だった。文乃は、富嶽の顔を覗き込んだ。

「いつから、このような…」
「昨日から、だ…、夜中になると妙に疼きやがる」

 風呂を上がった時の背中はそう深い傷には見受けられなかったが、背中の傷口はどうも化膿し始めているらしい。晒を巻き直してやりたいが、この状態では傷に布地が触れて大層痛いだろう。
 夜明けまではあと一刻強。医者が来るまでの辛抱だが、富嶽はあまりの激痛なのか意識を持って行かれそうである。正面に座った文乃は手を取り俯き呼吸の荒い富嶽を励ます事しかできなかった。

「日が昇れば、お医者様も到着しますから、それまで私もここに居ります。気をしっかり保ってください」
「…っは、そんな、軟じゃねえ…ぞ」
「喋るのも精一杯なくせに、良くおっしゃいます。寒くはないですか。何か温かい飲み物でもお持ちしましょうか…」

 富嶽は首を横にふると、おもむろに額を文乃の肩口にもたれさせた。すがるように文乃の手を握り返した。込められた力の強弱で痛みの度合いが判別がついた。強い力の時は強い痛み、弱い時は痛みが落ち着いた時。痛みにも波があるようだ。
 本当にどうして富嶽がこんな傷を負ってしまったのか、文乃はいまだに聞けず分からない。だが文乃は陽の上るまで富嶽に付き添った。
 朝になると、宿舎にも居ない、仕事にも顔を出さない文乃に、女将はお冠だった。富嶽の部屋を嗅ぎつけた女将に文乃は事情を説明すると、意外にも訳をすんなりと信じてくれ、更には宿の使用人に医者を途中まで迎えに行くように頼んでくれた。
 予定より早く到着した医者に早速富嶽の怪我を見せると、医者は手慣れた様子で診察していた。富嶽がこんなにも苦しんでいるのは、傷口に瘴気が触れてしまい、中毒症状を起こしていたそうだ。それ故に赤く腫れたり高熱を出したりするのだという。瘴気の毒に効くのは結界子でろ過した清い水であるらしい。医者はその水を酒瓶に何本も作ってくれた。朝晩二回、この水で傷口を洗うこと。そして処方する薬を服用すること。幸い、縫うほどの傷では無く無事に診て貰い文乃もほっと息を吐いた。
 落ち着いたらしい富嶽は、うつ伏せになって寝息を立てていた。薬が効いているのだろう。濡れた手ぬぐいを取り替えた時、富嶽は瞼をゆっくり上げた。

「お目覚めになられました?お医者様いらっしゃったの覚えてます?」

 富嶽は、ああ…と呟いて再び目を閉じた。大きく深呼吸をすると、顔の横に置いていた手を握ったり広げたりして己が存在を確認している。文乃がそれを躊躇なく握ったことに驚き、富嶽は痛みに顔をしかめた。

「申し訳ありません…」
「い、いや…。昨晩は、済まなかった。とんだ醜態見せちまった」

 文乃はいいえと答え、手を離した。昨晩富嶽は十分に寝ていないはずだ。他人が居てはゆっくり眠ることも出来ないだろう。文乃が立ち上がろうとすると、富嶽は手を取った。

「いい。あんたには、ここまでして貰ったんだ。話さねえとな…」

 いつもの客であったなら大事な話でも右から左に受け流すし、覚えておいてもすぐに忘れる。だから話を聞くまでも無いと適当にあしらっている。文乃は断ることもできたが今回はそうしなかった。
 握られた手に少し力が掛かる。今一度深呼吸した富嶽は、布団の皺を見つめたままどこか虚ろげに言った。

「俺は、ホオズキの生き残りだ」

 文乃は取る手が震え、無意識のうちに涙が頬を伝っていた。何でてめえが泣いてんだと苦笑いする富嶽はそれから堰を切ったように、ホオズキで起こった全てを文乃に聞かせた。事柄は決して同情を誘うものではなかった。殆ど行商人や旅人の噂と違わず、どこか他人事のようにも話すのだ。強いて言えば、富嶽が生きていたという事実である。
 残されて身寄りもなく、文乃は勝手に売られて真っ暗闇に放り込まれたのを思い出した。そんな思いをするのは二度と御免である。だから富嶽が話を終えた時、富嶽様がご無事でよかったと、その一言が素直に口から出てこなかった。