01 とある客
鼻の頭までぶくぶくと湯船に沈みまぶたを閉じた。ふいに思い出したのは唇を噛み締めたくなる昔の記憶だ。文乃は物心ついた頃、両親の借金と引き換えに宿場町の女給として奉公するため「鈴屋」に売られてきた。
表向きは女給だが、要は宿場女郎である。飯の世話、風呂の世話、加えて男性客から追加のハクを支払われれば体を差し出すが、その時初めて、鬼が闊歩しない世が存在するのだと文乃を買った客から聞かされた。
何でもこの世には文乃たちの住まう時勢と並行したもう一つの世が存在し、そこでは徳川某という将軍が日ノ本を平らかに治め、泰平の世が数百年と続いているのだそうだ。里が壊滅するような鬼に寄る襲撃等も無く、物騒な争いごとといえば、せいぜい人同士のいざこざと近隣諸国の謀で、鬼の姿形を見た人間も、またその存在に恐怖する人間も居ないのだという。つまり、鬼とは全く無縁の生活を送っている人間がこの世にいるのだ。
当時の文乃は驚いたと同時に、得体の知れない魑魅魍魎と、加えて己が背負う理不尽な借金返済の身の上を酷く恨んでいた。幾度と無く逃げ出したいと思いながらも、身寄りもなく留まるほか無い。どうしてこのような時と場所に生まれてしまったのかと嘆いてばかりいた。
しかし、慣れとは恐ろしいもので啾啾と袖を濡らす頃はあっという間に過ぎ去った。
ある意味諦めとも取れるが、置かれた境遇を受け入れる分別がつく年頃になった。借金を返し終えるまでは牢に繋がれているのと殆ど変わらないが、衣食住も賄え人らしい生活が十分できている。今では客のあしらいも上手くなり、すっかり店主や女将にもずけずけとモノ言うまでに神経も図太くなった。
文乃たちの職業は表の世にもあるそうで、古くは湯女とか飯盛女とか呼ばれていたらしい。彼女たちはどんな思いで日々過ごしていたのだろうか、いい人の一人や二人居たのだろうか…。そう思いを馳せるも、湯船を出た文乃は後ろ手にピシャリと戸を締め着物に着替えた。
厨房へ行くと、早速文乃を見つけた調理人からお櫃としゃもじを手渡された。竈からぐらぐらと湯の沸き立つ大釜に菜が投入され、鮮やかな青は忌々しいくらいに眩く映る。重いお櫃に眉間を寄せると、調理人はほらいったいったと、尻を叩き大広間へと向かわせた。
宿泊客の多くは、このだだっ広い座敷でいっぺんに朝食を済ますが、今朝の広間に女給たちの姿は少なかった。
昨晩は金払いの良い客が多かったのだろう。夜に女郎を呼ぶ客は、部屋で朝食を取るので彼女たちは付きっきりだ。大広間の配膳は、少ない女給で手配りするほかない。
白飯にございますと文乃は声を張り、大勢の客人を縫うようにして飯をよそい始めた。
客との会話も仕事のうちだが、一歩も宿から出れない文乃にとって旅人からの話は貴重な情報源だ。会話が弾むとうっかり後ろ暗い事を話す客も少なくはなく、猫なで声を出し更に聞き出した話で小銭稼ぎをする悪賢い女給も多い。
恰幅のよい商人の男におかわりをよそう時、その雇い人と思しき若商人が口をへの字にして苦言を言っていた。
「旦那、本当に霊山まで帰るんですか。もう少し時間はありますでしょうに…」
「なに言ってやがる。早く帰らねえとそれこそあっぶねえだろうが」
「とは言っても、ホオズキで宿が取れないんじゃ最悪野宿ってことになりませんか。僕は最後が旦那の隣なんて正直嫌ですよ」
旦那と呼ばれた商人は、立派な腹を叩きながらかっかっかと声を上げて笑った。
「そんだけ憎まれ口を叩いてりゃてめえはしにゃしねえよ!多少遠回りだが迂回して宿はちゃんと屋根ついて巫女さんも居るとこにすっから、そう心配するな。ったくおめえは肝が小せえったらねえや」
「屋根結界付きなら、まあ…文句はないんですけど」
若い商人は、渋々頷いた。何故ホオズキで宿が取れないのだろうか。側に置いてあった急須を旦那に傾けた。
「旦那、ホオズキってあのホオズキの里のこと?人出がそんなにあるの?」
「いやあ、ね…。その逆だよ」
そう言って、旦那は、口元を手で覆い文乃に耳打ちした。
「何でもホオズキは里ごと鬼に食われちまったらしくてよ…気の毒な事だよな。里のもんは皆お陀仏らしいぜ…」
「里ごと…?巫女さんが居らっしゃるんじゃないの?結界も張られてたでしょうに」
「それがその巫女さんもえんらい、幼かったらしくってなあ。鬼も新手だったようで鬼ノ府連中も打つ手無しだったんだと。可哀想にな…」
「そう…、ここも気が気じゃないわね…」
「なあに、おめえさんがそう心配する事もねえさ。なにせここは端っこではあるがウタカタの里内だ。あのオウマガドキの英雄の里だぜ。その巫女さんも凄い能力の持ち主ときてる。そう簡単に鬼の歯牙にかかることもねえよ」
ずずと茶をすすった旦那は若商人の肩をぽんと叩き、行くぞと急かした。若商人は残っていた汁を慌ててがぶりとひと飲みした。ごっそさんと笠を小脇に抱えると、次来た時は晩もよろしくなどと爽やかに言い放って出て行った。適当にあしらった文乃は、人は見かけによらぬものだと思いつつ、二人分の食器を下げ座布団を整えた。
その後も配膳と食器洗いを続け、大量の洗濯を済まし午前は矢の様に過ぎていった。
忙殺から開放された文乃は、縁側で翻る手ぬぐいをぼんやりと眺めていた。朝はあんなにもさんさんと陽が降り注いでいたが、いつの間にやら雲が覆い被さっている。洗濯竿を移動させるべく腰を上げると、早くもぽつぽつと地面が斑に変わり始めた。宿の従業員も戸を締めたり、干していた大根やしいたけをとり込んだりと慌ただしい。
庭の目隠しとなる生垣を挟んだ玄関先では、行き交う通りから雨宿りをしにやって来た通行人も多く立ち往生している様子だ。雨音にたむろする会話は厚みが増すばかりである。洗濯物は避難させたが、このまま縁側で油を売っていても雨はいつ上がるか分からない。針仕事を思い出した文乃は重い腰を上げた。ところが、今の今まで五月蝿かった人の声が突然ぴたりと止んだのである。雨音に遮られたのではなく、辺りは水を打ったようにしんと静まり返っていた。
どうしたのだろうと、背丈はある垣根の方にじっと目を凝らしてみる。葉の隙間からはよく見えないが、濡れた地面に重たそうに擦れる草履の音がしていた。その度に生垣の向こう側では、ひぃっ、とかきゃ、とか、うっとか鼻を摘んだような声が聞こえてくる。不穏に思った文乃は、廊下をぐるりと回り急いで宿の玄関に向かった。
店の軒先は人垣が割れていた。その隙間をぬっと通り鈴屋の暖簾に手を掛けている客人があった。しかし潜った途端、そのあまりの身なりに従業員らは「いらっしゃいませ」の声が出なかった。
現れた男がずぶ濡れだったからと言うわけではない。その濡れ方が問題だったのだ。全身泥だらけな上に、どす黒く変色してはいるが間違いなく客人は人の血を被っている。
これは厄介な客だと瞬時に判断した店主は、お引き取り願うべく従業員の前に出ていった。
「お客さま、大変申し訳ございませんが…、生憎本日は満室でして…他のお宿をあたっていただきたいのですが…」
男性にしては甲高い、加えて迷惑が表に出てしまった店主の声が癇に障ったのか、血まみれの客人はぎろりと店主を睨み返した。射殺されそうな視線に、文乃はぶるりと背筋が震え息すら忘れそうだ。
男は大変体格も良く殆ど上半身半裸で、腰には大きな武具を携えていた。後ろに控えていた従業員が、あれは手甲ってやつじゃあないか。と同僚にひそひそと話しをしている。
背中や太い腕のあちこちには傷も負っていた。真っ赤に垂れている血は、恐らく自身のものだろう。鬼や賊にでも襲われなければこうも酷い有様になる筈もないが、自ら作り出した返り血であるならば狂人か殺人犯でしかない。
店主の断りに暫し黙っていた男だったが、腰の辺りをまさぐると薄汚く膨らんだ巾着を取り出した。すると女将の方へ投げた。じゃりっと鈍く重たい音に一番敏感なのは女将だ。すぐに中身を確かめたいと手を揉んでいるのを察してか、男はようやく第一声を発した。
「八百万ハクある…飯と風呂、寝床を用意しちゃくれねえか…」
見かけによらず切実な声だった。女将はすぐさま巾着に飛びついた。中から出てきたのは間違いなくハクだったらしく、辺鄙な土地故にこんな大金は滅多にお目にかかれない。女将は腰を抜かし、店主の袖を引っ張った。
「あんた、泊めてやんな」
「お、おい…」
「いつまでも玄関先で失礼じゃないの!ささ、お客様、一番いいお部屋をご案内致しますので…どうぞお履物を脱いで、お上がり下さいまし」
結局、欲に目が眩んだ女将の判断で、得体のしれない血まみれの男を宿へ上げることになってしまった。男はのっそりと敷石から廊下に上がるも、その良い部屋とやらは勿論わかる筈もない。女給らもてっきり女将が案内するかと思いきや、巾着だけはしっかりと握りしめたまま、にこにこと笑うばかりである。
その様子に呆れた文乃はこんな茶番に付き合ってられないと人だかりに背を向けた。ところが運悪く女将の目に止まってしまった。
「ちょいと文乃。あんた、お客様を案内して差し上げなさい」
文乃は冗談じゃないと反論したかったが、周りの従業員は知らん顔をしていつの間にやら玄関から立ち去っていた。残っていたのは店主と女将、そしていまだに雨宿りをしている軒先の通行人(野次馬)である。
女将に反論はできても、到底文乃に拒否権などなかった。文乃は笑みを引きつらせ「こちらでございます」と渋々男の前を歩いた。
女将の言う、一番良い部屋というのは、南向きの角部屋で一般の部屋より広く眺めもいい。上客用であるので小さいが専用の風呂もついている。里の森から心地よい風もよく通るので文乃はよく仕事を抜け出し、昼寝をしている場所だった。
長い廊下を歩き、後ろから何かされはしないかと内心恐ろしくもあったが客人は押し黙ったまま、文乃の後ろをついてくる。怖いのはその相貌だけなのか、果たして爪を隠しているのか…。
大抵の宿泊客は、一番初めに応対した女給が預かる。女将もとんでもない厄介事を押し付けてくれたものだ。
部屋へ案内すると、文乃はてきぱきと着替えや手ぬぐいを用意した。男は文乃に背を向け、少ない荷物を部屋の隅におろしている。しかし、見れば見るほど酷いなりだった。
寝不足なのだろうか、横顔からでも分かる濃いくまは益々眼窩のくぼみを際立たせ、体中あちこちにある傷も大層痛々しい。よくもこんな状態で気を保っていられるものだと感心するほどだ。とはいえまずは風呂に入るのが先決だ。傷は医者に診て貰うのが良いだろう。
壁際にもたれた男は気が抜けて今にも寝てしまいそうな按配だった。
「お客さん、お風呂に入ってくださいな。そこの扉からこの部屋のお風呂なんですよ」
男は文乃の言葉を受け意外にも素直に腰の武具を外していた。文乃のそばまで来ると無言で着替えを受け取った。
「…富嶽だ」
突然呟いた言葉が彼の名だと気づいた時には既にぱたりと戸は閉められた。
こんなに無口で、無愛想なのは余程の人間嫌いなのだろうか。であるならば、自分から名乗ったりするだろうか。血まみれでやって来た事といい、理由は色々とありそうだが、到着早々の客に根掘り葉掘りと聞くわけにもいかない。しかし文乃はどうも放っては置けず、富嶽が風呂に入っている間、女将に医者を呼べないかと相談した。しかし近所の診療所まではかなり遠く、到着するのは五日も先だと言われた。仕方ないので、文乃は宿にある薬箱に使えそうな薬を片っ端から詰め込んで戻った。
部屋の戸を開けると、既に富嶽は風呂を上がっていた。湯気を立たせ、手ぬぐいを頭からかぶり背を向けている。浴衣は着ていたが、上は袖を通さずに帯に挟んでいた。大きな背中にはうっすらと血が滲んでいた。
「あの富嶽さま…、余計なお世話かとは思いましたけど傷の手当をされませんか。薬箱を持ってまいりました」
風呂を終え、小奇麗になった富嶽は精悍な顔つきだった。凛々しい眉に、鋭い眼光。しかし、どこかやつれてもいる。文乃と薬箱とを交互に見遣ると「すまねえ」と手繰り寄せ、自ら手当てを始めた。しかしなんとも不器用な客だった。清潔になった傷口に軟膏を塗るにも、入れ物の蓋を開けるのに難儀している。見かねた文乃はそのごつごつした手から軟膏を取った。
「お客人が遠慮なんかしないでください」
「…」
「さらしもありますから、背中の傷も消毒したら巻いて差し上げます」
「おう、」
富嶽の重い腕に手を添え、細かい傷の一つ一つに薬を塗っていった。どんなことをしたら、飛び散った石を浴びたように無数の傷ができるのか理解しかねる。疑問は喉元まで出かかったが飲み込んで、文乃は富嶽の背中に回った。
二言三言言葉を交わしただけだというのに不思議と店にやって来た時の恐怖はすっかり取り除かれていた。泥だらけで血まみれでも、人は人である。
「あんた…」
「はい?」
「名は」
「文乃ともうします。女将からあなた様のお世話をするよう仰せつかりました」
「店のもんから、あんたが何か言われたりしねえのか」
「何をおっしゃいますか。お客様なんですから。ご入用でしたら遠慮無く文乃にお申し付け下さいませ」
「…恩に着る」