任務まで時間があると、普段なら買い物に出かけたり、装備品を繕ったり、初穂たちと甘味処へ出かけたり…と呑気に過ごしているが今は真剣に机と向かい合っている。大判の地図を広げ、ヤトノヌシが潜伏しているであろう箇所に黒い碁石を置き、その周囲にはモノノフ紋の記章を配しどの様に攻めるべきかを考えていた。
大和をはじめ、桜花や息吹たちと幾度となく議論してきたが、煮詰まった打開策に一石を投じるような案は無く、瘴気はより濃く目の前に立ちはだかっている。こうして悩んでいる間も、依り代の塔は鬼によって作りあげられていた。
物見の報告によれば、塔からは赤々とした光が一層強く放たれているようで帰還した隊員たちは日に日に青ざめた様子が見受けられる。鬼門の開門という際涯は目前に迫っていた。
秋水の言うように、先陣が特攻しその隙きを数で畳み掛けるしか無いのだろうか。いいや、それでは先鋒の隊員たちは危険を伴う、ほぼ捨て身と変わらない。なにか、なにか…。きっと方法はあると信じたい。
頭を抱えていると、傍らに居た天狐がキュイと鳴いて玄関をじっと見つめていた。間もなく、縦格子に区切られた曇りガラスに人影が写り「旭陽、いるか」と桜花の声が届いた。
草履を突っかけ戸を開けると「邪魔するぞ」と笑んで桜花は玄関に入った。手には甘味屋の小さな箱を持っていた。
「一緒に食べようと思って買ってきたんだ。あそこのよもぎ団子、旭陽は好きだろう?」
「わぁ、嬉しいです。ありがとうございます。でも桜花さんもうすぐ任務の時間なんじゃ…」
「いいや、今日は早朝任務の者と変わってもらったんだ。明日の明け方までは暇を持て余していたから、旭陽と一緒に食べようと思ってな」
少し根を詰めすぎだぞ、と言った桜花はすり寄ってきた天狐の頭を優しく撫でた。
「良い考えが浮かばなくて…。どう考えても、秋水さんの策が妥当のように思うんです。でもそれじゃ──」
「モノノフ皆の命が、だろう」
「はい。後詰めで畳み掛けても焼け石に水なのではと…。いいえ!決して皆さんの力を疑ってるとかそういうわけでは無いんですが…」
旭陽の慌てた物言いに、桜花はふふと肩を震わせて頬を緩めた。持参した包を解き囲炉裏の脇にそれを広げる。中には、三色団子とよもぎ団子、酒まんじゅうが入っていた。あたりに甘い香りが漂うと、天狐が物欲しそうにキュイと鳴いて桜花に甘えている。
「分かっているさ。旭陽が隊員や私たち皆のことを一番に考えてくれていることくらい」
桜花は三色団子を小さくちぎって、天狐に一欠け差し出した。嬉しそうに尻尾を揺らした天狐は勢いよく食んでいる。
「旭陽も立派になったな。会ったのはつい昨日のことだと思っていたが、里の皆をこんなにも大切に思っていてくれて嬉しいよ」
凛としたモノノフの模範である、桜花の口から褒め言葉を聞くのは嬉しい気持ちもあるがどこかくすぐったかった。優しくて強い桜花はいつでも旭陽の憧れだ。本当は、モノノフとして未熟な自分よりも桜花が隊長として適任なのではと常々思っていたし、ウタカタの隊長が自分で良いのだろうかと自問自答していた。
初めて見る異形はその存在だけでも恐ろしいのに、更には鬼の四足をもぎ、武具を誂えることに抵抗があった旭陽を、何も苦言を呈する事なく信じて見守っていてくれたのは他でもない桜花だ。それだけに、桜花の言葉は殊更嬉しい。
桜花はさあ旭陽も食べようと言って団子を勧めてくれた。久々に食べたよもぎ団子は随分優しい味がした。
「私もしばらく色々と考えてみたんだ。悔しいが、秋水の策が一番現実的なように思うよ」
「桜花さん…」
少し間があって桜花は「旭陽、少しだけ、私の昔話を聞いてくれないか」と呟いた。桜花が自分のことを聞いて欲しいというのも珍しいことだった。何故今なのか、とも思ったが旭陽は頷いた。
桜花は、ぽつりぽつりと彼女の昔歳を話し始めた。
桜花と橘花がウタカタの里にやってきたのは、オウマガドキが収束した翌年だった。
二人は霊山で生まれ育ち、当時桜花は橘花と同様、実は神垣の巫女候補として霊山君のもとで鍛錬を積んでいたのだそうだ。しかし適正訓練を受けるうちに桜花は、巫女候補から外れその後はモノノフの訓練生として霊山で鍛錬を積みモノノフとなった。一方の橘花は巫女としての立ち居振る舞いや心得、術式を学び一里を担える一人前の巫女となった。
「当時は、家から巫女候補が同時に二人も出る家系はそうそうなかったんだ。周りからは随分な期待を掛けられたよ。だが私は橘花より霊力が劣っていたのもあって巫女にはなれなかった。だからモノノフになったんだ。神垣の巫女としての適正が無いと分かったときは悔しい気持ちもあったが、鬼丿府に入れたことは素直に嬉しかったし、この手で大切な人を守ることができることには代わりないからな。初めて金眼四ツ目の着物に袖を通した時は随分と誇らしかったよ。けれど、私に巫女の適正が無いと知った時の橘花の顔は…、今でも時折思い出すんだ」
橘花の表情は少しの羨望と安堵と寂しさが混じった様子だったという。
神垣の巫女は、自らの命を削って広大な範囲に結界を張り、人々を守ることが霊山君より託された使命だ。巫女の霊力や体力にもよるが、彼女たちの命は一様に普通の人よりは遥かに短命である。それ故に、当たり前に歳を重ねられない橘花は桜花と過ごす刻も限られるのは必然だった。もし桜花も神垣の巫女としてそのまま訓練を続けていれば二人は別々の里へ配属されていただろう。だが、モノノフであるならば、同じ里への配属希望もできる。
霊山に住まう当時はいつも橘花の側にいた桜花だったが、巫女修行を修了した橘花の赴任地が決まる頃、桜花はモノノフとして橘花と同じ里への配属を頼み込んだのだった。当時の上官には酷く面倒を掛けたと面白おかしく話してはいるが、旭陽はモノノフとなった今、橘花の側に居たい桜花の気持ちがよく分かる。
大切な人が離れた地で命を削りながら過ごす、その事実を知り得ながら遠い地で一人暮らすのは胸が引き裂かれるだろうと思った。巫女候補として共に橘花と学んだ桜花は、自分だけがまともに歳を取り生きていくことが心苦しかったのだ。神垣の巫女にとっては人間八十年ではない。その半分、いや、三分の一かもしれない。だからこそせめて橘花の支えになろうと、共にウタカタへ赴任してきたのである。
「正直、日に日に強い結界を張らねばならない今のあの子を思うと、変わってやりたいと毎日思う。神垣の巫女はその生命を異界に、鬼にさらけ出しているのも同然なんだ。橘花は命を張って今も結界を維持してくれているというのに、私はなにもできない、してやれない。瘴気を前に手をこまねいているだけだ。私が命を張らないのは姉として、一人のモノノフとして情けないんだ。だから、」
顔を上げた桜花は意を決したかのように、旭陽を真っ直ぐに見つめていた。誰かが活路を見出さなければならないのは旭陽だって分かっている。だからこそ、こうして碁石を机上で転がしてああでもない、こうでもないと無い頭を捻っているのだ。
桜花の意思を無碍にしたくはないが、その先に続く言葉を想像して旭陽は耳を塞ぎたくなった。
「私は犠牲の連鎖を、私の手で断ち切りたい。皆の為、橘花の為にも…」
「あ、あの!桜花さんの気持ちはとてもよく分かります。でも、だからと言って桜花さんが一人で気負うことないと思うんです。桜花さんも毎日多くのお役目をこなしているじゃないですか。毎日鬼と戦ってる」
「私は、これ以上我慢ならないんだ。非情な世界の矢面に橘花ばかりに無理をさせ続けるのが。もう他の隊員や里の者にも辛い思いはさせたくはない。これ迄に何人も犠牲になっている。私は刺し違えてでも鬼を倒す」
慈しむように昔話をしていた桜花は既になかった。囲炉裏にくすぶる火をじっと睨んだまま鋭い空気を放っている。
旭陽は焦りが募った。このままでは、いつかの速鳥しかり、富嶽しかり単騎で乗り込み二の舞になってしまう。隊長としての責務を今果たさねばと旭陽は心を鬼にして、桜花に啖呵を切ろうとした、その時だった。
力みすぎていたのか、興奮してしまったのか、急に体中の力が抜け途端に睡魔が襲ってきたのである。あれよという間に視界は傾き、板の間に頬を付いた。意識はふわふわと浮遊し、朦朧とする旭陽を覗き込んだ桜花からはすっかり荒々しい様子は消え、いつもの優しい彼女が頭上に微笑んでいた。少し寂しそうな眼で旭陽を見下ろしている。
「旭陽、団子が土産だなどと騙すような真似をして本当にすまない。今日は君にお礼と、それからお別れを言いに来たんだ。少しの間、私が里を出るまではゆっくり眠っていてほしい。君に引き止められるとどうしても決心が鈍ってしまうんだ。旭陽が里に来てくれて本当によかった。橘花を、ウタカタを、そして皆を頼んだぞ。本当にありがとう」
桜花は、頬に掛かった旭陽の髪を手の甲で避けてやると、腰を上げた。旭陽は手を伸ばそうとするも、指先が僅かに動くだけで桜花の腕を掴むことはできなかった。引き留めたくとも引き止められない。まぶたが次第に重くなっていく。最後に写ったのは桜花の背中だった。
旭陽の家をあとにして、桜花は里の中をぐるりと歩いた。
霊山から幾十里も離れたウタカタの里は、栄えた本山に比べれば商店も娯楽も人も少なく本当にこの地でモノノフとしての勤めを果たすことができるだろうか、と来たばかりの頃は思っていた。だが、大和を始め、息吹、速鳥、当時ウタカタのモノノフたちは皆、桜花橘花の幼い姉妹を快く迎え入れてくれた。異界と最前線の里は皆が温かかった。
幹の太い御神木はその頃から寸分違わず今も里の者の拠り所だ。木の根の隧道を潜り、社の前に佇んでいた桜花は空を見上げると、まるで里を包むように悠然と枝葉をめいいっぱいに広げている。あまりにも眩しいほどの緑に瞼は熱を帯びていた。大きく深呼吸をした桜花は一人静かに里を発った。
・
頬を撫でられる感覚に、旭陽はぱちりと目が覚めた。
傍らには天狐が前足を上下に動かし、時折着物の袖を咥えて引っ張っている。ようやく意識がまともに戻ってきた旭陽は、がばりと起き上がった。
「桜花さんっ!!」
部屋を見渡しても桜花は居ない。やはり一人異界へ発ってしまったのだ。
旭陽を見下ろしていた桜花は、酷く思いつめた様子だった。それでも最後まで優しく笑って旭陽に別れを告げた。あれが今生の別れであってたまるかと、旭陽は急いで戦支度をした。装束を身に着け、武器を手にし急いで本部へ駆けた。
里の真ん中をひどい慌てぶりで突っ走る旭陽に、何事かと暖簾から覗き出る店主もあったが構わず進んだ。石段を全速力で上りきり一目散に木綿を目に止め、受付台にばんっと手をつくと肩で大きく息をする旭陽に木綿は目を見開いていた。
「旭陽さん、そんなに慌ててどうしたんですか?」
「お、桜花さん見てないですか??」
「いいえ、今日はまだ見てませんよ?」
「そう、ですか…。ありがとうございます」
「どうかしたんですか?顔色良くないですけど…」
顔面蒼白だったらしい。旭陽の頬に手を伸ばしかけた木綿に「全然!全然っ、大丈夫!」と空元気を貼り付けた旭陽は、彼女を振り切って本部を出た。
旭陽は握りつぶされたかの様に心臓が痛かった。桜花に単騎先鋒という選択をさせてしまったことに、どうして早く彼女の思い詰めた様子を気づいてあげられなかったのだろうと悔いた。
隊長格のモノノフは皆強い。だが彼らとて人間だ。心身万能な人などどこにもいない。
「皆強くて、私…、きっとその強さにずっとどこかで甘えてたんだ…。桜花さんも強いから大丈夫だって…、」
旭陽は淡く光った跳界石の横にひと目を避けるようにしてしゃがみ込んだ。途端に我慢していたものが一気に溢れ出た。悔しさ、不甲斐なさ、すべての感情が一緒くたにせり上がりわっと頬を伝った。引き止められなかった事、桜花が思い詰めていたことに気づけなかったこと、何よりは目の前で別れを告げられ阻めなかったことが一番に歯がゆい思いだった。
だが、いつまでも悔やんでこの場で佇んでいるわけには行かない。今一番にすべきことは、桜花を助けることだ。
「何が何でも行かなきゃ…」
手の甲で涙を拭った旭陽は、すっくと立ち上がった。そっと跳界石から表へ出ようとすると「旭陽様!」と、弓取り師匠の那木が珍しく怒りを顔に貼り付けている。その隣には、富嶽と息吹、そして速鳥も並んでいた。
腕を組んで仁王立ちしていた富嶽は、呆れた様子で口を開いた。
「ったく、石の後ろからめそめそ聞こえると思ったらてめえか、旭陽。んな所で何してる。桜花がなんだって?」
「独り言筒抜けだよ、旭陽ちゃん」
「なにか困っているなら、自分たちに話して頂きたい…」
「旭陽様、わたくしは怒っております!木綿様が、様子がおかしいと心配なさっていましたよ。わたくしたちではそんなに頼りないですか?」
旭陽の目線に合わせ、かがんだ那木は胸元から手ぬぐいを取り出すと、困った様子で笑んでまだまだ情けなさが流れる頬を拭ってくれた。
「那木さん…。私、眼の前で桜花さんを、一人で異界に行かせてしまいました…。桜花さんずっとこの状況を我慢していたんだと思います。気づいてあげられなくて、私隊長なのに」
自宅での桜花との出来事を一部始終話し終えると、那木は一瞬だけ険しい表情を浮かべたが、すぐにいつものようにふわりと微笑んだ。
「旭陽様が、お一人で責任を感じることはありません。皆が居るではないですか。早速桜花様をお迎えにあがりましょう」
「ったく、どいつもこいつも馬鹿野郎ばっかりだな。一人で異界に行くなんざ阿呆のするこった」
「それをお前が言うのか?富嶽」
「そっくりそのままてめえに返してやるよ伊達男。おし、さっさと戦の準備するぞ」
「承知」
再び本部へ入ると、木綿、大和、初穂そして橘花と秋水も居る。どうやら既に事態は知らされているらしい。木綿の機転で、出陣名簿に無い桜花の不在が騒ぎになっていた。名簿に名前の記載も無し、里にも居ないとなれば誰もが心配するのは当然だ。
旭陽の姿を見るなり、橘花は駆け寄ってきた。
「旭陽さん。姉さまのこと聞きました…。一人で出ていってしまうなんて」
「橘花さん…、止められなくてごめんなさい」
「いいえ、旭陽さんのせいではありません。でも姉さまには命を投げ出すようなことはして欲しくない…」
すると、大和が口を開いた。
「俺にも決断を渋っていた責任はある。だから旭陽、行って来い。お前たち全員ならば勝機は必ずある。そして桜花を連れ帰れ」
大和の言葉は力強かった。臨戦態勢の今、主要モノノフの半数を桜花の救出作戦と、ヤトノヌシ討伐に充てるのは賭けだった。想像もできないほどの濃い瘴気の中へと突入する覚悟を旭陽が決めねばならない。
今一度橘花を見た。桜花が橘花のために刀を振るうように、橘花もまた桜花や里の為に命を張っている。やはり、橘花のそばに桜花は居なければならないのだ。これから先もずっと、姉妹にはウタカタで笑っていて欲しい。
「旭陽さん。姉さまをどうかよろしくお願いします。私にはたった一人の姉です。これを持っていって下さい…」
橘花から渡されたのは、小さな結界子だった。手の平くらいの大きさの石は、跳界石と同じ様に薄緑の線が走り光っている。これを持っていれば、離れた場所であっても巫女の力で橘花の声を伝達できるらしい。要は無線機みたいなものだった。
「必ず届けて、鬼も倒して、桜花さんを連れ帰ります」
ぽんと肩に手を置かれ、傍らには息吹が立っていた。
「それでこそ俺らの隊長だ。そう力むなよ。背中は任せな」
片目を瞑って不敵に笑ういつもの息吹に旭陽はどこかほっとしていた。
それから、速鳥も同行することが決まり、三人は里を出立した。