ヤトノヌシは、砂煙が舞う古の領域だと秋水が言うと、隣で速鳥も深く頷いた。異界の深部に近い領域は古代域で、瘴気が濃い場所が多く存在する。旭陽は、鬼の図鑑と橘花から預かった小さな結界子を大切に巾着にしまうと、大和や橘花たちに見送られ、本部を出発した。
異界へ続く道を速鳥の案内で進むと、次第に里から続いていた青々とした草木は無くなり、茶色い岩肌と荒野が現れた。岩の表面は風化の影響か、鬼による時の歪みのせいなのか、長い時を経て威厳を損なった大岩が砂山に埋もれ、縄文や弥生の竪穴や高床の建屋に使われていた梁柱が藁葺き屋根の下敷きになっている。また人の顔ほどはある、二枚貝の殻が散らばり朽ちた土器を掬い上げていた。土偶や銅鏡は時の乱れによって劣化の度合いまでもが歪で、古いのか新しい物なのかが良くわからない様子を呈している。
異界のどの場所に赴いても、時の経過とその場所に存在する物は不相応で、足元がふらつきそうになった。異界に飲み込まれないように、己の存在を常に確かめていなければたちまち意識ごとどこかへ持っていかれそうな感覚に陥ってしまう。更に濃い瘴気をまとえば手練の桜花でも難儀するに違いない。
桜花が最後、旭陽へ見せた無理矢理に作った笑みが脳裏によぎった。朦朧としていた感覚の中に、痛くて熱い、心臓を掴まれた様な苦しさが蘇ってくる。次第に顔まで熱くなり振り払うようにぎゅっと目をつむった。
逸る気持ちを抑えつつ、しばらく速鳥のあとを追いかけていると、息吹が「おい、旭陽ちゃんっ!あれ!」と立ち止まった。
息吹の指し示す方を見ると、一層砂塵が巻き上がる場所がある。まるでそこだけが隔離されたような瘴気の渦のようなものが立ち昇っていた。真っ昼間なのにその箇所だけが曇天だ。不気味な光景に旭陽はつばを飲み込んだ。
「隊長、自分たちも急ごう」
目的地が近づくにつれ、鬼の咆哮が雷鳴の如く鳴り響いている。びりびりとした緊張と畏れを肌に感じつつ旭陽は、一人化け物に立向う桜花を視界に入れた。ただただ魂を喰らわんとする眼前の鬼とは正反対に、桜花は可憐に、しかし力強く白鉄で濃い瘴気を幾度も切り裂いていく。だがそれ以上にヤトノヌシは尾の先端や体中から霧状の瘴気をふりまいていく。旭陽は渾身の力でめいいっぱい叫んだ。
「桜花さんっ!!!」
信じられないといった様子で桜花は太刀を構えたまま旭陽をじっと見遣った。するとヤトノヌシの右上腕が隙きを逃さず彼女へ襲いかかる。反応が遅れた桜花だったが、瞬時に息吹が駆け寄り桜花の間合いに入り、自身の槍を真一文字に構えて受けた。反動でよろけた桜花は速鳥に支えられ、またしても苦渋の表情を浮かべている。息吹が雄叫びをあげ、ヤトノヌシを弾きかえすと、桜花は我に返った様子で「何で、どうして…」と呟いた。旭陽がこの場にいるのが余計にバツが悪そうだ。旭陽は桜花の正面まで来ると、巾着の中から結界子を取り出し、桜花の手をぐいと引っ張って結界子を掌に押し付けた。
( 姉さま…、姉さま! )
わけも分からず、されるがままの桜花は突然聞こえた橘花の声に驚き、顔を歪ませた。決して旭陽たちの前では見せない彼女の心の内は、姉として大切な妹を守り続け、このウタカタの里を大切に思っている証だ。疲弊する里を思い、上官として皆に命じることもなく、たった一人でこの場所までやってきた。太刀を握ればいつも凛としている彼女の表情が、こんなにも儚げに写るのは、余程思いつめていたのだと判る。
うつむいて、なぜだと、問う桜花の手を旭陽は握った。
「桜花さんが橘花さんを大切に思うように、私たちだって桜花さんのことが大切なんです。いつだって、一緒に戦ってきたじゃないですか!」
「そうだぜ、水臭いぞ上官」
「隊長の心、自分も同じ思いだ」
息吹から渾身の打撃をもらったヤトノヌシは暫く動きが鈍くなり、少し距離を置いて轟轟と呻いているがそれも時間の問題だろう。息吹は速鳥に目配せをした。周囲には鬼の気配はない。仲間を呼び寄せている様子は見受けられないが、悠長にしている場合ではなかった。
桜花は速鳥から離れ、しっかりと立ち上がり旭陽をじっと見つめた。
「桜花さん、色々考えるのは里に帰ってからにしましょう。帰ったら旭陽隊長からのお説教が待っていますので覚悟しておいてくださいよ?」
「…ああ。存分に君からのお小言を受ける。あの化け物を締め上げよう」
「そうこなくっちゃな、さぁて、伊達男の本気見せてあげましょうかね」
「自分も、里のために舞おう」
桜花の手の中で再び結界子が呟いた。
( 姉さま。皆、里で待ってますから。だから、、 )
掌で淡く翡翠色に光ったそれを桜花は固く握りしめ、帯へ押し込むと、抜身の刀を迷いなく納刀しゆっくりと呼吸を整えた。詰まるような息の吐き方に、瘴気を耐えているのが見て取れる。旭陽たちよりも長くこの場にいる桜花は、行動限界が迫っていた。
「ああ、必ず、鬼を討ち、里へ帰る。里の皆を頼むぞ、橘花」
ヤトノヌシを鋭い目つきで捉え、桜花はいくぞと号令をかけ、立ち向かった。息吹が旭陽に目で合図を送った。桜花の援護を頼むとの事だろう。遠距離から、桜花の動きがヤトノヌシに遮られないよう、旭陽はヤトノヌシの気をそらしに掛かった。速鳥も縦横無尽に空中を飛び回り撹乱する。それに釣られ、四本の豪腕は的を絞れぬままでヤトノヌシも気を散らしていた。
「いいぞ速鳥!」
息吹も、毒を出す尾をひたすら狙い千切ろうとしている。すると、結界子から秋水の声が届いた。
( 旭陽さん、桜花さん、聞こえますか。ヤトノヌシは空気の渦のようなものを作り出します。十分に注意して下さい )
空気の渦?と疑問符が浮かんだが、その報せの直後、動きの鈍くなったヤトノヌシの正面になにやら黒い物体が現れた。
「なんだありゃ?!」
「息吹さん!さっき秋水さんが空気の渦が何とかって!あれじゃないですか?!」
「おいおい、冗談じゃないぞ。どんどん大きくなってる」
「旭陽殿、桜花殿を!」
桜花は今に、ヤトノヌシの胴体に斬りかからんとしていた。空気の渦は丁度ヤトノヌシの正面で気づきにくい。旭陽は叫んだ。
「桜花さん!!離れてください!!早く!!」
身軽な速鳥が、桜花に駆け寄り抱きかかえヤトノヌシから遠ざけようとしたが、旭陽に振り向いた桜花の頭から、桜の髪飾りがその渦の暴風に巻き上げられてしまった。「あぁ!」と桜花は手をのばすも届かない。速鳥は逆らう桜花の体をがっしりと掴んで跳躍した。桜花の視線はその桜の髪飾りに一心に向けられていた。
旭陽は、背負っていた矢筒を放り、体を乗り出していた。後先考えず突っ込むのは悪い癖だと分かってはいても、ただただ吸い寄せられるままの髪飾りを見つめる桜花の、酷く寂しそうな顔を見ては居ても立っても居られない。幸いにも、舞った髪飾りは一度地面へすとんと落ちた。すかさず頭からつっこんで、腕を限界まで伸ばすと頬を地面に擦り付けながらも何とか髪飾りが指に触れしっかりと掴むことができた。しかしほっとしたのもつかの間、黒い球体の渦にはどんどん周囲の空気が吸い寄せられ、瓦礫や木々の枝や、小石やらが次々に飲み込まれていく。このままでは旭陽も二の舞だ。髪飾りを握りしめ、ほふく前進するかのように、なるべく低姿勢で風の抵抗を受けずに地面を這って息吹を目指す。ただ、凄まじい空気の流れにはどうしても逆らえない。これではまるで台風の風と同じだ。
「旭陽ちゃん!その横に生えてる低木に掴まるんだ!耐えろ!!」
「って言われても…っ!もう、しんどい…!」
歯を食いしばって、息吹の指差す低木へ手をのばすが、片方に髪飾りを握っているせいか、腹ばいになっている体は思うように力が入らずなかなか掴まることができない。あと少し、あと少しの距離がどうしても届かないのだ。速鳥に留められている桜花は今にも泣き出しそうである。
「旭陽っ!!もういい!両手を伸ばして木に掴まれ!!」
旭陽は聞こえないふりをした。誰がどう見たって、桜花の後ろ髪惹かれるような様子に、この髪飾りは大切なものに決まっているのだ。
ヤトノヌシは今だ渦巻く球体を保持し風は弱まることはない。
すると息吹は、槍を構えヤトノヌシ本体を狙い始めた。どう見ても距離がある。ましてやこんな吸い寄せられる風の中、的が定まるわけがなかった。だがそんな考えは瞬時にひっくり返った。息吹は、その吸い込みを利用し、槍を投げたのだ。槍は、黒い球体めがけて物凄い勢いをつけて吸い込まれていく。何しろそれが、ヤトノヌシの背後からであれば胴体を貫くことは容易だった。放った瞬間、息吹は余程手応えを感じたのか、余裕の表情で「そのままほふく前進続けてろよ!」と旭陽に冗談まで言う始末である。見事、息吹の槍はミタマの力も相まってか、ヤトノヌシを貫き、暴風も止んだ。だが、ヤトノヌシも往生際が悪い。バタバタと暴れ、尾から毒を噴射し始めた。すると桜花が瞬時に抜刀し、真一文字にその尾を断ち切り、止めを刺した。弧を描き、尾は鈍い音を立てて地面に叩きつけられる。毒の水たまりは旭陽に当たることなく、明後日の方向へと落ちていった。
周囲の瘴気は少し薄らいだが、長いことこの場にいたおかげで、旭陽は大分体が重くなっていた。他の三人も流石にこの瘴気量は体が持たないだろう。一行は、安全な場所まですぐさま退避した。
緑の生い茂る場所は、里の近くで里に注がれる小川が近くを流れている。川べりに陣取って、旭陽は水をすくって一気に飲み干した。大きく深呼吸をするとようやく生きた心地がする。ごろんとそのまま砂利の上に大の字になった。見上げる空は、先程の異界よりは随分と高く、青い。雲も穏やかに流れ、まるで別世界のようだ。
ふと頭上が陰り、桜花が旭陽を覗き込んでいた。
「桜花さん、体の具合どうですか?私達よりも長くあの場に居たから…」
「私は、多少は耐性もあるから、少しくらいは平気だ」
「もう、こんな無茶、しないで下さいね。一人で任務には出歩かない事。これ今後の隊長権限に於いて規則にしておきます」
そう言うと、覗き込む桜花は「ああ、頼む」と言ってふふと笑った。少し疲れのある笑みだったが、それでも旭陽の自宅で別れたときの悲しそうで苦しそうな笑みよりはずっといい。
桜花が一人で異界へ出てしまった時、旭陽は自分自身が頼りないからだろうか、とか、力不足が原因だから頼れなかったのではないかなどと、そればかりを考えていた。そして自分が桜花に甘えてしまっていたのだと…。だが、それに気づいた時に、立ち止まってはいけない、前に進まねばとも思えたし、今後自身で少しずつ鍛錬をより積もうとも思えた。それは桜花の背中を見てきたからだ。
彼女は優秀なモノノフで、武術も、戦術も、そして人一倍仲間思いな所も…尊敬しているし、目標にしたい。そんな桜花だから、皆が付いてきてくれるし、大和だって信頼を置いている。今の隊長は旭陽かもしれないが、紛れもなく桜花はウタカタのモノノフ皆の道標だ。
旭陽は、懐にしまっていた桜の髪飾りを取り出し、桜花へ掲げた。
「橘花さんもいつもかわいい橘の髪飾りつけてますし、桜花さんにもこの桜の髪飾りはいつもお揃いでつけていてほしいです。だから、もういいなんて言わないで下さい」
「…旭陽、ありがとう。右近橘、左近桜。そう言って霊山を出る時に冗談ながらに市で買ったんだ…。共に務めを、立派に果たそう、と」
ぽつりと、旭陽の頬にしずくが落ちた。
桜花の胸元から、橘花の声がする。結界子からの呼びかけに桜花はただいまと告げた。