第一章
15.蒼天の彼方

 開け放たれた窓から、雨に冷えた風が入り込んでいた。臨く夜空を佗しい秋虫の声が満たしている。
 神木の社から本部に戻った旭陽は談話室で速鳥に手当を受けていた。かすり傷程度だったが神木の幹で擦った手首を消毒してくれ、軟膏を塗ってくれた。傷によく効くらしいそれは、忍の常備薬であるらしい。
 綺麗な包帯を巻き終えた速鳥は、先ほどの話だが…と口を開いた。何故息吹が酒に溺れていたのか、その訳を旭陽に教えてくれた。

 息吹には昔、大切な恋人が居たらしい。当時は彼女も息吹と同じく新米のモノノフで、将来は一緒になろうと誓いを立て日々同僚としても良い関係であったという。ところが彼女の所属していた隊は、八年前のオオマガドキでタケイクサに遭遇し窮地に陥った。息吹は急報を受けるも時既に遅く、恋人の隊は全滅、現場には物言わぬ彼女の亡骸が無残にも横たわっていた。息吹の恋人はタケイクサに命を奪われたのだ。
 隊の全滅も彼女が亡くなったのも、決して息吹のせいではなく無論鬼が悪い。だが息吹は間に合わなかった、力が無かったと、長いこと己を責めに責めた。以後、息吹はその出来事を己の中に封じ込めようと努めていた様子だが、今回キツネソウの調査で再びタケイクサと相まみえ、隊員が命を落としてしまい、更には亡くなった隊員の恋人に己が重なり辛い記憶が蘇ったのだろう。その結果、自棄になり酒に走ってしまったのだ。
 速鳥は、口布を下げると僅かながらにため息をついた。

「息吹殿が普段から飄々として居たのはそのためだろう。無理に己を保っていたのだと、自分はそう考える」

 旭陽は黙って速鳥の話に頷いていた。
 いつぞや、柘植の櫛に触れた際、冗談めかして女性の髪を梳く為に首から下げていると言っていたが、きっとあれは恋人の形見だったのだろう。肌身離さず持ち歩くほど、かけがえのない恋人だったのだ。それほど思い詰めていたとは普段の息吹からは微塵も想像もできなかった。

「しかし、だからと言って任務放棄や、旭陽殿にしたことが許されるわけではない」

 速鳥はぴしゃりと救急箱の蓋を閉じた。その後旭陽に軟膏の使用頻度や消毒の仕方など教えてくれ、薬を分けてくれた。処置を終えた旭陽はすぐ自宅に帰っても良かったが、どうにも目が冴え眠れずしばらく談話室に留まっていた。
 部屋には本部待機を命じられたらしい速鳥が黙って椅子に座っている。会話は無く、彼の書物をめくる音だけが不規則にあるばかりだった。
 暫くすると木綿が談話室へ入ってきた。速鳥と旭陽が談話室にいると聞き茶を入れて来てくれたらしい。

「旭陽さんご気分いかがですが。温かいお茶お持ちしました」
「木綿さん…、ありがとうございます」
「かたじけない」

 机の上に、三つ湯のみが置かれた。湯気が上がり珍しい香りが漂っている。薬効のあるお茶らしい。一口飲むと緊張が和らぐように思えた。
 木綿は、普段なら家へ帰り夕飯の支度や家事をしている時間だが、騒動があったことで本部に残り夜間巡回の手配りをしてくれた。包帯が巻かれた旭陽の手を見て一層心配そうな様子だ。盆を机に置いた木綿は旭陽の隣に腰掛けた。

「息吹さん、先ほど意識が戻ったみたいで、お父さん、…お頭と今話をしています。お頭とても怒ってました…。もしかしたら、暫く謹慎になるかもしれません」
「謹慎で済むなら良い方だ」

 速鳥は厳しく言ってのけた。モノノフの資格が無くならないだけでも良いのだという。しかし息吹が戦力外となってしまえば今後の任務にも影響が出てくるのは間違いない。

「木綿さん、謹慎って期間は…」
「お頭は、二日三日頭を冷やせって言ってましたから、そのくらいかと思います」
「そうですか…」
「大丈夫ですよ旭陽さん。息吹さんを信じましょう。きっとまた以前のように元気になって下さるはずですから」

 笑みを浮かべて励ます木綿に、速鳥も旭陽も静かに頷いた。木綿と速鳥と他愛ない話をしたお陰か、全くもたげなかった睡魔が一気に押し寄せ、眠りについた頃の記憶はすっかり無かった。

 翌朝旭陽は、談話室の机に突っ伏した状態で目を覚ました。肩には毛布が掛けられ、既に部屋には速鳥と木綿は居無かった。目をこすりながら部屋を見渡していると談話室の戸が開いた。入ってきたのは盆を携えた速鳥だった。どうやら朝食を持ってきてくれたらしい。入ってきた途端、焼き魚の匂いが漂った。

「目が覚めて居られたか旭陽殿。気分はいかがか」
「おはようございます。全然大丈夫です」
「そうか、朝食はここで食べるといい」

 速鳥は旭陽の前に盆を差し出した。どうも昨晩の騒動が噂になっている様子で、他の隊員の目があれば気まずいだろうと速鳥は談話室での食事を計らってくれたらしい。

「お気遣いありがとうございます。でも、お昼はちゃんと食堂で食べます…」
「…それがいいだろう。自分はお頭から貴殿を見ていてくれと頼まれている。何かあったら遠慮なく言うといい」
「すみません、本当、ありがとうございます」

 息吹は今朝方、正式に謹慎処分を受け三日間の勤務停止となった。その間息吹の代わりは他の隊員たちが協力して勤めることと決まったようだ。
 医務室から診療所に移された息吹は、昼夜問わず泥のように眠っているらしい。大和の話ではかなりの疲労もあったと言い、また木綿に寄ると息吹は思いの丈をつらつらと大和に話し尽くしたようだと言っていた。何年もの間耐えてきた苦しみを、今の今まで誰にも吐露せずに居た辛さを、大和は思う存分吐き出させ上司として受け止めていた。息吹も親のように大和を慕うからこそ、普段の格好の良い伊達男をかなぐり捨て話ができたのだろう。誰かに聞いて貰えば気持ちが軽くなることもある。
 旭陽はそんな息吹の様子を聞き、見舞いに行こうかと思案していた。言い方は悪いが、半ば手篭めにされそうになった恐ろしさはまだ多少残っている。とはいえ、このまま息吹との間に気まずさを残す事だけは避けたかった。旭陽も大した怪我ではなかったその上、致し方ない理由も速鳥が話してくれた。
 ウタカタに来たばかりの頃、旭陽が唐突な鍛錬を終え散々な結果で挫けていた時、息吹には随分と助けられた恩があった。見知らぬ土地に放り出され、右も左も分からぬ旭陽を見回りに連れ出してくれたばかりではなく、役に立たなかった旭陽が里に居ても良い一番初めのきっかけを作ってくれたのは息吹だ。渋い顔をする隊員もいた中、今こうして旭陽に居場所があるのは彼の気遣いが初めにあったからでもある。
 どうも本部モノノフの間では、職務放棄に加え、未遂だがあまつさえ旭陽に手を出したので、普段の女好きも相まって色情魔に成り下がった等と噂が立っていた。尾ひれがついて肥大化し、息吹はなかなかの汚名っぷりを着せられていた。
 息吹はウタカタのモノノフでは桜花に次ぐかそれ同等の猛者だ。隊員たちの疑念を解くには、旭陽が以前のように息吹と接する他ない。

 息吹の謹慎、もとい入院最終日となった本日、旭陽の任務は深夜帯の見回りだった。この三日間、時間があれば見舞おうと考えていた旭陽だったが、診療所へ向かうもすぐに引き返すという事を何度も繰り返していた。付き添いを貰うのは簡単だが、旭陽の変な意地っぱりが出たお陰で誰も誘えずに居る。
 深夜任務のため、陽のあるうちに診療所へ行く時間は十分にあった。しかし、朝早くに目覚めたにもかかわらず、小心者の旭陽は昼を過ぎ、夕方を過ぎても診療所へ見舞う勇気がなく、結局面会時間を終えてしまい任務の時間を迎えていた。
 項垂れ家を出る間際、旭陽はすがるように天狐に話しかけた。

「天狐…。お見舞いとうとう行けなかったどうしよう…。退院してからじゃなかなかきっかけ作るの難しいよね…」

 今晩の天狐は、なかなかつれない。鼻先をツンと側方に向け「そんなことを天狐に聞くな」とでも言うかのようだった。

「ですよね…。すみません、お仕事行ってきます…」

 夜の纏わりつく厭な暑さは、日に日に緩んでいた。旭陽は弓を担ぎ本部へ向かった。木綿と少しの世間話をした後、門を出て決められた見回りの順路を辿る。深夜は主に結界子の巨石周辺を重点的に調べて回るのが決まりだ。わずかな異常が原因で、橘花が十分に力を振るえない事もあるからだ。ひとつ、ふたつと青い光の輝きを確認する。今夜もその光は鈍ることなく里を覆っている。特に異常は見られなかった。橘花の容態は今は少し良いようだが、病を押しながらの祈祷はかなりの負担があるだろう。
 那木たちが再びキツネソウを探しに出かけてから、良い知らせはまだ届かない。一刻も早く見つけ、旭陽は橘花の具合がよくなるようにと浮かぶ月に祈った。そうして二刻の見回りを終え、旭陽は本部へ帰還し任を終えた。
 本部の明かりは柱の松明を一つ残し、他は全て消えている。木綿も既に帰宅し、秋水も資料室には居ない。しんと静まり返った薄暗い中、結界子の青い光は本部にまで差し込み床に写ってしまいそうなほどだ。後光のように光るそれに見とれていると頭の中で「主どの」と、那須与一が旭陽を呼んだ。注意深いその声色に旭陽はあたりを見渡した。左右に首を振ると渡り廊下に誰かいた。手すりにもたれ、ぼんやり夜空を見上げている。身につけている白い浴衣の背には同じく白い糸でモノノフの紋が刺繍されてあった。以前桜花を見舞った際、旭陽にはその着物に記憶があった。診療所の寝間着である。
 旭陽が声をかけようか、掛けまいかしていると、背を向けていた人物は振り返った。息吹だった。

「よ、旭陽ちゃん。お帰り」
「……息吹さん。その、体調は大丈夫なんですか…?」

 息吹は自ら話しかけたにもかかわらずきょとんとしていた。旭陽の受け答えが意外だった様子だ。息吹は乾いた笑いを浮かべ頭の後ろを掻き、旭陽から顔を逸らした。

「はは、あんなことしちまったってのに、俺の心配までしてくれてんのか。俺は大丈夫だ。旭陽ちゃんはその…手首に怪我負わせちまったみたいで、悪かった」
「いいえ、軽い擦り傷でしたし平気です」
「あの時かなり酔ってて、正直記憶が曖昧だ。いい年してお頭にこっぴどく叱られちまった。本当、ごめんな」

 しばし間があった。普段なら、どういった受け答えをしていたのか旭陽は頭の中を掻き回した。今みたいに神妙に謝ったり、覇気なく哀愁漂う姿は息吹には不釣合いだ。いつもどこか自信あり気で、飄々とした様子の息吹にちょっかいを出されないとどうにも調子が狂う。
 息吹は片方の肘を手すりにかけ、本部建物の奥を眺めていた。そちらの高台には診療所がある。医師や医療班は患者の為に昼夜問わず交代で詰めているので、窓や廊下の明かりは煌々としていた。そこで旭陽はふと気づいた。息吹は診療所から外出許可を貰ったのだろうか── そう思ったところで旭陽はようやく踏ん切りがついた。息吹は同僚の勤務形態をよく把握している。

「えっと…、ええっと……。そ、そうですよっ!私、危うくお嫁に行けなくなりそうだったんですから!本当迷惑しちゃいますっ!」
「その傷のせいで貰い手がなかったら、俺が嫁にもらってやるからさ」
「なんかこう…“飯行こう?”みたいなノリで言うのやめて下さい」
「あはは、悪い」
「…もう、あの晩本当びっくりしたんですから…」

 息吹は今一度、本当ごめん。とつぶやき旭陽に背を向けた。旭陽は渡り廊下に出ると、大人三人分ほどの間を取って息吹の隣に並んだ。さすがに、息吹も苦笑いをしているのがわかったが、構わないでおいた。

「旭陽ちゃん、速鳥に聞いただろ。俺には忘れられない女が居て、いつまでも思ってる…ってさ。惨めだと思うか」

 陣羽織を脱いだ息吹は旭陽には別人のように映った。一人の女性を一途に思う男性、その何ものでもない。息吹の言うように惨めだとは決して思わなかった。

「思いませんよ。無理に忘れようとか、気持ちに蓋しておこうとか…。そういう事しなくても良いんじゃないかって逆に思います…」

 想像通りの回答が返ってきた事に息吹は眉を下げ自嘲していた。旭陽は続けた。

「あの、仮に、仮にですよ!私が彼女さんの立場だったらずっとその時のことは覚えていて欲しいかなと思います。好きな人には、全部覚えてて欲しい派?的な…。すみません、訳わかんないですよね。無神経な事言いました」
「いいさ気にしなくて。お頭にも色々話したけど、俺もいい加減背筋伸ばさなきゃ、歳食った時あいつに会わす顔ないなってさ…」

 旭陽は息吹の言葉にほっとしていた。先の任務ではよもや死に急ぎやしないかと気が気ではなかったのだ。大和に吐き出し、さらには散々と諭されたのだろう。ちらりと息吹の表情を覗き見た。憑き物が落ちたよう…とまではいかないが妙にすっきりとした様子に見受けられる。旭陽も息吹とまた以前のように接することができると確認できただけでも、胸のつかえが取れた気がした。

「とにかく明日からは復帰する。またよろしくな。旭陽ちゃん」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 旭陽はぺこりと頭を下げると、一歩息吹の方に歩みを進め手すりにもたれかかった。二人分の隙間に縮まり、それを見た息吹はぷっと笑いをこらえている。

「あと二人分な、わかった。ところで旭陽ちゃんはさ、故郷に想う人とかいなかったわけ?」
「いきなりですね」
「旭陽ちゃんくらいの年頃なら、月よ星よって感じだろ。それに一番多感だ」
「想う人はいませんでした」

 旭陽がきっぱりと言い切ったのが息吹は随分つまらなそうだった。

「へえ、そう。じゃやっぱ俺にしとく?」
「あ、いつもの息吹さんだ。異性にそういう人はいませんでしたけど、とても仲の良い大切な友人はいました。でも今どこにいるか全くわからなくて」
「離れ離れにでもなったのか」

 自然と眉間に力が入っていた。旭陽の言う大切な友人とは、何を隠そうホロウである。
 彼女は人の背丈はある大きな銃を持ち、変わった白い羽織を纏い夜の境内で一つ目の怪物とともに消えてしまった。旭陽もそれを追いかけ虹色の渦に触れた途端意識を失い、気づけばこのウタカタに居たのだ。ホロウとウタカタとの唯一の共通点は、金眼四つ目の鬼ノ府の紋である。

「息吹さん、このモノノフの紋って誰でも自由に入れられるものではないですよね…?」
「なんだ今更。そうだな、この紋は鬼ノ府の職員とか隊員とか、関係したものに限られると思うぜ」

 良い機会だった。旭陽はホロウのことを息吹に聞いてみることにした。鬼ノ府も広しといえど、女性隊員に敏感な息吹なら或いは容姿の良いホロウを知っているかもしれない。

「息吹さん」
「ん?」

 ── 私の友人、ホロウっていうんです。モノノフの人たちの間で名前聞いたことありませんか

 そう続けようとしたが、ドスっと床を転げる音に全て言葉を奪われてしまった。静かな帳を切り裂いたのは、本部に転がるようにして駆け込んできた隊員だ。誰かいるか!と急いている。二人は慌てて隊員に駆け寄った。彼は那木たちとキツネソウの探索に出ている隊員の一人だ。里に戻ってきたのがこの隊員一人であることに旭陽も息吹も焦燥した。

「おい、何があった」

 隊員は息吹の形に一瞬驚いていたが、その腕にしがみついた。

「息吹さん!助けてください。調査隊は無事にキツネソウを見つけて帰還の途についていたのですが大型鬼に出くわしてしまいました。先日のタケイクサと、もう一体はツチカヅキと言う鬼です」

 手にしたキツネソウを一刻も早く里へ持ち帰ろうと、隊は帰路を急いでいたらしい。しかし闇夜に鬼の目はよく光る。先日はタケイクサ一体でも苦戦を強いられたにも関わらず、もう一体現れたとあっては轍鮒の急だ。

「わかったすぐお頭に知らせよう。旭陽ちゃん」
「はい!知らせてきます」
「頼んだ。あんたも、よく知らせてくれたな。すぐに応援を出すから、他の連中が本部に集まったら皆に状況を話してくれ。案内も頼むから今のうちに少しでも体休めとけよ」
「はい、承りました…」

 隊員は己が大役を果たせたとあってほっとした様子だったが、床にへたり込むと頭を抱えていた。一人現場を抜け出してきたのは後ろ髪引かれる思いだったに違いない。息吹は、隊員の肩をぽんと叩いて励ますと診療所の方ではなく、本部の入り口、その石段へと歩みを進めた。
 大和に状況を知らせると、早急に隊を編成するというので旭陽もそれに加わった。隊は息吹、速鳥、旭陽、そして隊員が十数名ほどの一隊と医療班だ。
 タケイクサは既に旭陽も戦っているが、ツチカヅキという鬼の名は初めて聞いた。隊員の説明によると、ツチカヅキは団扇のように肥大した腕を持ちそれを使い地表面を滑って移動するらしい。手の形は毛を毟り取った鶏の手羽にも似ているという。想像しただけでも鳥肌ものの鬼だ。旭陽は青い顔をしながら話を聞いていた。ただそんなツチカヅキにも勿論弱点はある。
 秋水が、黒い巾着を抱え大和の隣にやってきた。眼鏡をくいと持ち上げると得意げに話した。

「これには火薬が入っています。ツチカヅキはあまり火に耐性がありません。火薬を撒いたところへツチカヅキを誘い込み、松明を投げ入れれば一時でも動きを封じることができるでしょう。どうぞお持ちになってください」

 半円を描いた隊員たちに火薬を持たせ、大和は作戦行動を指揮した。各々役割を確認し合い、本部を後にする。出立間際、大和は息吹を呼びつけた。息吹は診療所の白い寝間着を脱ぎ、いつもと同じ若草色の陣羽織を身につけしっかりと愛槍を背にしている。振り返ると大和へ一歩近づいた。

「息吹、日付は変わった。わかっているな、無茶はするなよ」
「はい、お頭」

 息吹の締まった表情に、大和はふっと笑みを浮かべると気合を入れるように掌を背に押し付けた。

「よし、行って来い。必ず皆を連れ帰れ」
「了解」

 まだ星の残る淡い空の中、一行は夜の明けきらない方角へと急いだ。門をくぐり抜けると里周辺にしては瘴気がいつもより濃い印象を受ける。鬼が多かったり、強力な邪気を放つ大型鬼が闊歩していると異界の範囲も広がってしまうのだ。その影響か道端に生えた雑草の多くもくたりと萎れている。
 先頭を行くのは、知らせてきた隊員と速鳥だ。そのあとを息吹と旭陽、隊員たちが続いている。進むと徐々に遠くの方から鬼の呻きが轟き、隊に緊張が走った。刃のぶつかり合う音が苦しげに明けの空を叩いている。絶え間なく続く甲高い金属音を受け、先頭の速鳥は居てもたっても居られなかったのか息吹に目配せをすると一足先に隊を離れ戦塵の中へと突っ込んでいった。すぐさま盛大な爆発音と共に砂の雨がぱらぱらと降ってくる。息吹の背を追う旭陽は煙と砂塵に目を細めた。

「ったく、速鳥のやつ、派手にやりやがって。俺の一張羅が台無しだ」
「か、火薬の量適量だったんですかね…?!那木さんたち大丈夫でしょうか…」

 そう旭陽が話していると、砂埃と煙の中から富嶽の怒号が聞こえた。咳き込みながらどこにいるかも分からぬ速鳥に向かって叫んでいる。

「こんな芸当しでかすのはてめえしかいねえな、速鳥っ!仲間を殺す気か!」
「申し訳ない。うっかり手を滑らせて、中身を全てこぼしてしまった。気づいたときには松明を投げた後だった。すまぬ」

 富嶽の傍らにはいつの間にか速鳥が静かに降り立ち、涼しい顔をして黒い巾着を握りしめていた。やはり誤った量であったらしい。

「うっかりどころじゃねえ!ったくよ、しっかしお陰で助かったぜ。おい、那木、桜花無事か」

 富嶽はその重厚な手甲で壁を作り身を守ったのだろう。彼の後ろには、桜花と那木がうずくまってしゃがんでいた。げほげほと咳き込んでいる二人は、頭や肩についた砂を払い落とし、富嶽の後ろから顔を覗かせた。
 応援が現場に到着したことに胸をなでおろしている様子だ。やはり、大型鬼を二体も相手に戦い或いは逃げ切るのはそうそう容易なことではない。桜花は旭陽に気づくとにこりと微笑んだ。

「ものすごい…爆発だったな…。まあ何にせよ、ツチカヅキは怯ませられたか…、しかし里の助けが来てくれて助かった。伝令にやった者が無事でよかった」
「富嶽様が強引に引っ張って下さらなければ、わたくしは今頃砂になっていたかもしれません。ありがとうございます」
「よし、ほかの奴らも全員無事だな。しっかしあの地滑り野郎どこ行きやがった…」

 辺りの煙が晴れるまで身動きが取れないのは鬼も一緒だ。息吹は今のうちにと富嶽に戦況を尋ねた。
 鬼は伝令の言った通り、タケイクサとツチカヅキの二体。タケイクサの方は、以前の戦術も踏まえ縄で縛りなるべく動きを封じた上で攻撃を仕掛けているという。だが、問題はツチカヅキの方だ。やたらめったら動き回るので、タケイクサを縛っている縄まで持って行かれる始末らしい。
 富嶽たちの連れていた隊員はその暴乱な動きに翻弄され、鬼を追いかけるがあまり、まともに矢太刀を浴びせられず徒労に終わっているという。顎に手を添えていた息吹はしばし考えた。こうなれば、それぞれの鬼を引き離し、二手に分かれ集中して戦うのが賢明だ。険しい顔をする息吹に、旭陽は声を掛けた。

「息吹さん、何かいい方法ありますか?」
「あ、いや…。また二手に分かれるしかないのかと思ってさ」
「…そうしましょう。ツチカヅキを離さないと、タケイクサを磔にしている隊員さんまで巻き込んでしまいます」
「おう、旭陽の言う通りだ。さっさと蹴りつけるぞ」

 速鳥もゆっくりと首を縦に振った。
 煙が風に流され、次第に視界が開けていく。山の端から金色に光る陽が昇り始めた。夜が明けていく。闇夜に比べれば多少鬼の動きも鈍くはなるだろう。黙って話を聞いていた桜花は、己が獲物を確りと腰に下がっているのを確認すると、唾を親指で押し上げ、戻し一歩を踏み出した。

「行こう。あまり長いするべきでもない。息吹と速鳥、私がタケイクサを、富嶽と那木、旭陽はツチカヅキを遠ざけて各々討伐するよう頼む」
「承知致しました。桜花様」
「それでいいな、息吹」
「ああ、上官殿のご命令だからな」

 作戦を確認していると隊員の一人が「来るぞ!」と声を上げていた。煙の間から図太い腕と、平べったく鱗のついた腕が伸び、地響きを立てて近づいてくる。桜花は先陣切って走り出し、隊員たちに檄を飛ばした。

「怯むな!開けた場所まで今一度タケイクサを引き寄せるんだ!富嶽、そちらは頼んだ!」
「おう、任せな」

 富嶽は、ツチカヅキと対峙すると手甲で地面を何度も叩き挑発していた。それに呼応するかの如く、ツチカヅキは地面を硬そうな口で喰むと、砕いた岩を大小問わず富嶽に向かって投げとばす。富嶽は造作無く拳ではじき返した。鬼にしてみれば一発も当たらぬので益々気が立ってしまった様子だ。那木は周囲を扇状に見渡し、戦闘に向いていそうな場所に目星をつけた。

「富嶽様、あちらまで参りましょう。旭陽様、わたくしについてきてください」

 速鳥の誤った火薬の量が余程効いているらしく、旭陽たちを追いかけてくるツチカヅキの動きは、大分鈍くなっていると那木は言った。おかげで富嶽は今までの借りを返さんとばかりに「ほらほらさっきの威勢はどうした!」と隙ができれば殴りかかっている。それに続けとばかりに、他の隊員も精一杯白銀を振るった。那木と旭陽は少し離れた場所から矢を放てるだけ放ち援護に回った。
 頭の中では那須与一が「あれではまるで良い的だな」と軽口を叩いている。その時、ツチカヅキが軋むような雄叫びを上げ体を大きく反らした。弧を描き宙に平べったい手が弾け飛んでいる。富嶽と隊員が両方の腕をもぎ取っていた。ツチカヅキは反らしたまま仰向けに転がり、動きはぴたりと止まった。隊員が、確認の為に目の瞳孔をみている。虹彩にも動きが見られず隊員は両腕を振って那木と旭陽に答えた。

「やりましたっ!旭陽様!」
「はい!あっちは…」

 息吹たちの奮迅している方角を見ると、そちらもどすんと巨体が倒れるところだった。縄が絡まったタケイクサはぴくりとも動かず、胴の上によじ登った隊員は那木に向かって両腕を振っている。旭陽は胸を撫で下ろした。幸い大怪我を負う者も居らず、戦術と連携の甲斐あって各個撃破が上手くいった。すぐに旭陽と那木は倒れたツチカヅキの検分を始めた。ツチカヅキも部位を持ち帰る必要がある。背の棘の部分を富嶽が力任せにへし折り旭陽に投げてよこした。

「ほらよ。しっかりもっとけ」
「う、うわあ!はい!」

 見れば見るほど気持ちが悪い。魚の背びれというよりは、ワニやトカゲといった爬虫類の背びれが巨大化したような代物だった。表面は瓦のような厚い鱗で覆われ、死んだばかりであるからか切断面からは体液が流れてくる。気持ち悪さにげんなりする旭陽に那木が気を利かせて木の板切れを持ってきてくれた。

「旭陽様、これに」
「すみません…。全然慣れなくて」
「致し方ありません。わたくしも医者の立場でなければ卒倒してしまいますから」

 那木は旭陽から背の棘を受け取ると、丁度良い大きさの箱があると言って荷物をごそごそと探り始めた。
 淡々と職務をこなす那木も、多少は過去の辛い思いを振り切れたかのように見えた。先般亡くなった隊員の事は尾をひくことなく、彼女は今目前の任務を粛々と遂行していた。胸突き八丁は超えた様子だ。今、彼女を甘味屋に誘ったらならば、喜んで受けてくれるだろうか──。
 旭陽は「里に帰ったらお団子食べに行きましょう」と、那木に声を掛けようとした。が、妙な影が旭陽の足元に写っていた。振り返ってみると、討伐した筈のツチカヅキが鋼のような顎を以って岩を噛み砕き、最後の足掻きとばかりに岩を投げつけていたのだ。人の頭ほどのそれは、鋭く砕かれ旭陽の脇を通り抜け那木の方へと向かっている。背を向けている那木はいまだに気づいていない。このままでは直撃してしまう。旭陽は那木の名を咄嗟に叫び、体を投げ出していた。受け止めきれるか分からなかったがそれでも体は反応していた。尖った岩は容赦なく迫っている。あ、と気づいた時には胸に激痛が走っていた。後方では那木の悲鳴が聞こえる。
 息の根を止めた筈のツチカヅキが身じろぎしたのを隊員たちが騒いでいた。息吹たちの様子を見に行っていた富嶽が、急いで掛け戻って来るのがうっすらと見えた。「くそがあ!」と怒声を発しツチカヅキに渾身の一撃を食らわせると、今度こそツチカヅキは動かなくなった。
 旭陽は受け止めた岩を胸に抱いたまま、地面に倒れた。息をするのが辛く、空気を吸っても吸っても苦しくなるばかりだった。頭上には皆が集まり懸命に旭陽に呼びかけ慌てふためいている。
 きっと悪い夢を見ているのだと思い旭陽は瞼を閉じた。