第一章
16.記憶の鋲

 騒ぎを聞きつけた医療隊は即座に旭陽の元へ駆けつけ処置を始めた。
 旭陽の失血量はかなりのもので、一刻を争う状況だ。血だまりから移動させ、止血を試みるもどの血管が切れているのかすら正確な判断はできず、医療隊員が二人がかりで傷口を抑えていた。この場の応急処置では間に合わない。早急に里へ戻らねばならなかった。
 普段は冷静な桜花も、横たわった青白い旭陽の顔を見て動揺していた。先程まで共に戦線に立っていたのが信じられない様子だ。何度も旭陽の名前を呼ぶも、浅く僅かな呼吸だけの反応ばかりである。任務完了の喜びも束の間、息吹、富嶽、速鳥の三人も為す術なく悪状況を見守る事しか出来ない。
 桜花は唇を噛み締め堅く瞼を閉じた。再び目を開けた時、彼女が纏う雰囲気は瞬時に切り替わっていた。たった今、ここでは討伐完了したばかりだ。鬼の追撃などがあっては元も子もない。桜花は背後で不安な様子の隊員たちにくるりと向き直った。

「皆、この場は医療隊に任せよう。各自迅速に処理検分を行ったら撤退の準備に取り掛かってくれ」

 桜花の指示に隊員たちは頷くと、気を引き締め作業に戻った。
 搬送準備は迅速に進んでいた。那木は物言わぬ旭陽の枕元で呆然と座り込んだままだ。俯く那木に桜花は声を掛けた。一度目は届かず、強く張った二度目の声に那木は顔を上げた。近くに居ながら防げなかった事態を悔やむのは皆が思っていることだったが、那木は誰よりも溢れそうなものをこらえていた。

「那木、状況を話してくれないか…」

 優しく声を掛けられ、一瞬でも気が緩んでしまった那木は手の甲で頬を拭っていた。

「わたくしが振り返った時には、既に旭陽様は倒れておりました…。外傷を見る限り岩は胸に直撃していますが、幸いにも心の臓は外れているものと思います。ですが直ぐに、手術が必要です…」
「所見でそれだけわかるのは、流石だな。那木、医療隊の準備が整ったら旭陽についていてやってくれ。できることなら…、人手の少ない隊を手伝ってやってほしい」
「ですが…」

 那木は、手が震えているのか左手は右手首をしっかりと掴んだままだった。旭陽の状況に、過去自らの手で友人を亡くしてしまった記憶が重なったのだろう。眉を寄せた表情には自身が手を出して良いのか否かと葛藤している様子だった。先般亡くなった隊員の事もようやく向き合い、前へ進もうとしていた矢先にまたこれだ。困惑するのも無理は無い。
 戸板を運んできた医療隊が、那木に断りを入れ二人の間を遮り旭陽の体をそっと抱えた。旭陽の腕が血で滑り板の端からだらりと垂れた。隊員は四苦八苦している。見かねた富嶽が「おい」と那木を呼んだ。

「こいつがこんなんでくたばるタマか!てめえがしっかり診てやれば、大丈夫に決まってるだろ」
「富嶽様…」
「旭陽ちゃん、自分のことみたいに那木を心配してたぜ。介抱してくれたって知ったら寧ろ喜ぶさ」

 後押しする息吹の言葉に、見守っていた速鳥もゆっくりと首を縦に振った。

「那木、現場は私たちに任せて、医療隊の護衛も兼ねて旭陽を頼む」
「…はい、桜花様」

 旭陽を乗せた戸板が荷車に固定されると、那木もしゃんと立ち上がりその傍らについた。桜花への返事は弱々しいものだったが、那木は意識の無い旭陽へ懸命に呼びかけている。医療隊は、他の負傷者も連れ一足先に里への帰路についた。
 戦闘地点から里までの距離はそう長くはないが、道中巫女の結界は届かない。故に餓鬼や鵺といった小型の鬼との遭遇は頻繁にあった。
 医療隊員も一応モノノフではあるが、その名の通り所属する者はどちらかといえば武術よりも医術に抜きん出ている。なかなかに戦闘要員としての訓練は十分ではない者も多い。鵺の咆哮が聞こえる度に、那木はその歯牙が届かぬよう先陣切って危険を屠る役を買って出た。そうして一行は無事に里の門を潜った。
 先だって早馬をやっていたお陰で、里に着くなり本部には既に報告が届き、診療所では手術の準備が整っているらしかった。
 旭陽を医療隊に任せた那木は本部に駆け込んだ。本部では大和と木綿、そして初穂が心配そうな面持ちで待っていた。那木の姿が見えるなりいち早く駆け寄ったのは初穂だ。旭陽の負傷は、一番にここに居る三人の耳に入ったことだろう。初穂は目を真っ赤に腫らしていた。

「那木っ!!旭陽は!?旭陽は大丈夫なの?!」
「初穂様…。旭陽様は今意識がありません…。診療所の先生方が直ちに手術に取り掛かるところです。それで、大和様…」

 那木は初穂の後ろに佇む大和をしっかりと見遣った。

「わたくしにもその許可を頂きたく」

 これまで長く傷歎を含んでいた那木の瞳には僅かながらに、凛々しさが蘇っていた。この結論を出すのにどれだけの葛藤と勇気が必要だったか、大和は信じていない訳ではなかったが、那木の持ち合わせていた気概に安堵した。
 正直を言えば、長年里のお頭として彼女を見ていた分、モノノフとしての働きを鑑みれば無理に那木が辛い過去と向き合い、思い悩むことはさせたくはなかったというのも、親心ならぬお頭心だった。甘い考えと言われればそれまでだが、或いは里の現状からすれば、一人でも鬼と対等に戦える戦力を失うわけには行かなかったというのも本音である。
 ふいに木綿が視界に入った。愛娘は心配と嬉しさとが入り混じった表情で顔はぐしゃぐしゃになり「那木さん…」と、呟いていた。

「俺に問うまでもない。皆心強いことだろう。旭陽を頼んだぞ」
「ありがとうございます…。追ってご報告いたします」

 那木は頭を下げると、弓矢を初穂に預け本部から急ぎ診療所へと駆けていった。後ろ姿を見送った三人は、手術の成功を祈りつつ桜花たちの帰りを待った。
 一刻ほどの後、桜花たちも帰還した。
 今回、桜花たちの目的は橘花の薬となる「キツネソウ」を持ち帰ることだった。桜花の手には、ギザギザした淡い緑色の葉が無事に握られていた。秋水の情報を頼りに虱潰しに探し、ようやく手に入れたものだった。大和は早速橘花に煎じるよう近衛に頼み、桜花と初穂は旭陽を気にしながらも岩屋戸へと向かった。
 帰還したばかりの息吹、富嶽、速鳥も普段なら任務を終えると即時解散しているが、今日ばかりは流石に留まっていた。
 息吹は柱により掛かっては背を離す…を繰り返し、富嶽は己が獲物に体を預け床にあぐらをかき何も無い天井をぼうっと見上げている。速鳥は軒下の廊下へ出ると口布を下げ、診療所と結界子の巨石を交互に眺めていた。誰も何も話さなかった。
 旭陽の手術はもう一刻は掛かるだろうと診療所からの伝言に、本部は更に重い沈黙が伸し掛かり、大和の眉間は益々皺が寄った。
 一度目ならず二度までも犠牲者、負傷者を出してしまった今回の遠征には厳しい判断を迫られ、戦力不足と己が采配の至らなさを心中悔いた。それでも、お頭として里を守ることが再優先事項である。部下を矢面に立たすことを極力避けたいと思うも、彼ら無しでは里が機能しないのもまた事実だ。平静を保ち、大和は三人に声を掛けた。

「お前たちも心配なのは分かるが帰還したばかりで疲れも溜まっているだろう。一度帰って休め。時に息吹」

 一人呼び止められ、息吹は振り返った。苦笑いをしながら、後頭部をがしがしとかいている。ハの字に眉を下げる様子は少なからず責任を感じているのを大和は目ざとく気づいていた。

「お前は、きちんと皆を連れ帰った。あまり己を責めるなよ」
「はは、お頭にそう言ってもらえると、救われる気がするな…。それじゃ、また後で」

 息吹、富嶽、速鳥の三人は大和に促されるまま本部を後にした。

 太陽が真上を過ぎた頃、緊張の糸が伸びきったかのような那木が医師と共に本部に戻って来た。
 本部で待機していた者は、固唾を呑んで那木の言葉を待った。「無事に、終わりました…」そう告げると那木は膝から崩れ声を上げてしまった。止めどなく流れる涙に、駆け寄った木綿も抱き合い泣いていた。
 那木が助手として手伝った甲斐があり、旭陽は一命を取り留めたと執刀医から伝えられた。大和はしゃがみ込む二人の側まで来ると、那木を労い肩を叩いた。

「ご苦労だった。よくやった、那木」

 那木は頬を拭うと何度も頷いた。旭陽のことばかりでなく、橘花を案じる言葉も次いで出ていた。橘花には桜花と初穂がついている。酷かった発作はキツネソウのお陰で大分緩和されたと先ほど近衛が知らせに来た。那木は少しだけ自信と余裕を取り戻した様子だ。周りを気遣うことが何よりの証拠だろう。
 一旦自宅に戻っていた三人もその報せを聞きつけ本部にやってきた。皆ようやく安堵した心地だった。こうして長い長い夜が明け、暫くは療養する旭陽の穴を埋めつつ任務をこなした。

 橘花が祈祷を再開できるにまで体調が回復したお陰で、里は昼夜問わず鬼の襲撃に怯えることのない日常を取り戻していた。
 旭陽といえば、傷はほぼ塞がったものの、主治医からの任務復帰の許可が下りずいまだ病床にあった。ツチカヅキの岩を受ければ全治一ヶ月との診断だ。だが、術後十日経った頃から食欲も戻り、段々と療養生活にも慣れ飽きが来ていた。暇で暇でしょうがないのである。そんな旭陽を鑑みてか、那木はたくさんの書物を差し入れに持って来てくれた。難しい学術書ばかりで鬼ノ府文字も今だたどたどしい旭陽にはちんぷんかんぷんだったが、その中でも唯一「鬼ノ府史」なる霊山の成り立ちや歴史に関する本だけは、何故だか魅入るように読みふけった。
 内容冒頭はこうだ。

 ── 千年もの昔から鬼が闊歩する中、その脅威を薙ぐ事のできる人物(現鬼ノ府の始祖)が現れた。人の世を守るべく、密やかに鬼を退治していたが、異能を恐れた人々は始祖を追いやってしまった。始祖はそれでも諦めること無く、この中つ国に身を隠し鬼ノ府を創設した ──

 鬼ノ府の創設者たる人物は、その力があまりにも異質故に普通の人間には恐れられ、忌み嫌われてしまったのだ。この一文を読む度に旭陽は切なく心が傷んだ。更に鬼ノ府史を読み進め、ふと手元に視線を落とした時、とある小さな文字の注釈に視線が釘付けになっていた。

── 注 歴史には謎も多く、重要な時代の節目には鬼ノ府紋を携えた翡翠色の瞳の少女が過去の文献に幾度も散見される。 ──

 この一文だけを切り取れば、初見の人は何を言っているのかさっぱりだろう。だが旭陽にとっては近頃見る変な夢への懐疑が益々の物となり、また確信にも変わった瞬間だった。
 旭陽は大怪我を負った日から二日間眠ったままだったが、その時を境に奇妙な夢を見続けている。
 夢の中での旭陽は断崖絶壁に佇み、情景は、自分がその場に居るかのような錯覚に見舞われる程鮮明で、風や陽光は肌に触れているかの様な感覚に襲われていた。
 眼下に広がる平野には、甲冑を身につけた大勢の人が隊列を組み、家紋や漢字の書かれた幟を背から生やしていた。まるで時代劇の合戦場の様な光景だった。騎馬隊、槍兵、弓兵…、その睨み合いは長く続き風の音と静寂を繰り返す一線を挟んだまままんじりとも動かない。
 ところが旭陽が瞬きをしたその瞬間、向き合う両軍の中心にいつの間にか人がぽつんと現れた。突っ立ったままの人物は白い着物をまとい、薄青の涼し気な髪と、翡翠色の瞳、そして背中には身長程はある大きな銃を携えていたのである。

 既視感は十分にあった。旭陽がこのウタカタに来る前ファミレスのガラス窓から見た人物、必死に追いかけた友人ホロウに違いなかった。
 旭陽は長いこと案じていたホロウが目の前に現れ、興奮のあまり肺に命一杯息を吸った。ところが名前を叫ぼうとしたその時、何もない宙に突如として黒い穴が渦を巻き、いつしか神社で遭遇したひとつ目のバケモノが長い腕をくねらせぬっと現れたのである。
 その場の兵士たちは散り散りに逃げ、矢を雨のように降らす者もいたが、ホロウだけは動じず果敢にバケモノに立ち向かっていた。銃弾を何十発も浴びせると、目を覆いながらバケモノは後退し、ホロウはさらに押し返すようにして自身も穴の中に飛び込んだ。穴はホロウとバケモノを飲み込むと、瞬間虹色の光を放出し綺麗さっぱりと消えてしまった。
 ホロウとバケモノが穴とともに雲散霧消すると、驚くべきことに先ほどまで逃げ惑っていた兵士らは、いつの間にか睨み合っていた場所へと戻っていた。まるで何事も無かったかの様に、バケモノが現れる以前と変わらず待機を続ける様は不気味さが増すばかりだった。
 そこで辺りの風景が白み、旭陽は目を覚ましたのである。このような不思議すぎる夢は、以降病床の中度々見る様になっていた。ある時は合戦場、ある時はどこかの洋館での会合の場等々…。だが何処に行ってもホロウと接触する前に彼女は穴に戻っていってしまう。
 その時旭陽は、鬼ノ府史の注釈と始祖が頭を過ぎったのだ。ホロウは人知れずあのバケモノと一人で戦っている始祖なのだろうか…そう考えると益々友人が心配になった。

「今頃どうしてるんだろう…、また一緒にご飯食べたり遊びに行ったりしたいのに…。私戻れるのかな…」

 ぼんやり窓の外を眺めていると、ふいに「旭陽ちゃん」と呼ばれた気がした。振り向くと、息吹が那木と共に見舞いにやって来た所だった。
 悩み顔の旭陽とは対照的に二人とも大分吹っ切れた様子が見受けられた。息吹は大和とも大いに話をしたことが功を奏したのだろう、いつもの軽過ぎる爽やかな笑顔が戻っていた。那木も、ずっと過去の苦しみに囚われていたが大怪我を負った旭陽を助けてくれた。以前より那木の説明が幾分長くなった気もするが、それもいつもの調子を取り戻したということだ。
 二人は見舞いだと花を持って来てくれた。黄色と白の綺麗な百合の花だ。生けて参りますと那木は再び病室から出て行った。息吹と二人になった旭陽はチラリと彼を見遣った。どうも見透かされた様な視線が返ってくる。先ほどの独り言が聞こえてはいなかったか…、旭陽はそれが気になり落ち着かない。息吹は寝台横の椅子に腰を下ろした。

「旭陽ちゃんは、やっぱ戻りたいよな」
「聞こえてましたか…。すみません…」
「当然のことさ。あれから何か手がかりは見つかったのか」
「いいえ。神木の周りも色々見て回りましたけど全然わかりません。でも…」

 手がかりは無いにしろ、旭陽は以前那須与一に言われた。鬼に食われた魂を解き放つこと、即ち鬼を倒すことで時の歪みを正すことができ元の場所へ帰れるかもしれないということだ。その途方も無い可能性を話すと息吹は真剣に聞いてくれた。

「そうか…。まあ旭陽ちゃんのミタマが言ってる事は間違いじゃないと思うぜ。鬼は時を歪めるってのは俺も聞いたことがある。食われちまった魂が元に戻ることで、本来の時を取り戻すのかもしれないってこともな。先は長いだろうがあまり根を詰めずにさ。必ず出口は見つかるさ」
「そう、ですよね。ありがとうございます。諦めずに頑張ろうと思います」
「そうそう。早く良くなってまた一緒に任務に行こう。最近やたらとあの筋肉馬鹿と組むことが多くて、花が無くて寂しいんだぜ?」
「あはは…はは…」

 旭陽は顔をひきつらせながら笑うことしか出来なかった。何を隠そう、息吹の後ろには富嶽が仁王立ちしていたのである。彼もまた旭陽の見舞いに訪れたのだが、逞しい腕を胸の前で組んだ富嶽はぎろりと腰掛ける息吹を見下ろしていた。

「誰が筋肉馬鹿だ。もういっぺん言ってみろ」
「じょ、冗談冗談!!いやあ、いつも熱心に鍛えてて惚れ惚れするなって話してたところだ。な?旭陽ちゃん!」
「旭陽、この野郎にそそのかされるなよ」
「あははは…重々心得ております…」
「そりゃ酷いぜ、旭陽ちゃんっ!」

 息吹の言葉も構わず、富嶽は「ほらよ」と紙袋を旭陽に差し出した。里の甘味屋からまんじゅうを買ってきてくれたらしい。皆、何かと心配をしてくれるのが旭陽は嬉しかった。

「わあ…美味しそう。ありがとうございます。富嶽さんは今日非番ですか?」

 問う旭陽に生返事をした富嶽は「夜から任務になった」と答えた。冗談を言っていた息吹も、不穏を察したのか眉をひそめた。

「何かあったのか」
「最近妙な病があちこちで出ているらしい」
「妙な病、ですか…?」
「眠り続ける奇病なんだそうだ。何やっても目覚める気配もなし。医者の手立てもねえときた。巫女の嬢ちゃん曰く鬼の仕業かもしれねえんだと」
「でも結界があるのに…」

 不安げな旭陽に息吹が答えた。

「稀にいるんだよ。鬼でも巫女みたいに思念を使う奴がさ。人の弱い心につけ込むんだ」
「俺は夜、その鬼の調査に駆りだされた。鬼の仕業だって言うんなら早いとこぶっ飛ばさねえとこれ以上里の連中に何かあったら事だからな。何も無けりゃそれでいいんだが」
「そうですね…。夜の任務はどうかお気をつけて」
「おう」

 暫く雑談していると、那木が花器に生けた花を抱え戻ってきた。だが、廊下から部屋へ入ろうとする那木は、来た方向をじっと見遣りしばし留まっている。どうも院内の職員を伺っている様子だ。不思議に思った息吹が「どうしたんだ」と問えば、那木は不安そうに答えた。

「申し訳ありません。何やら院内が騒がしいので、余程の急患なのかと思い少し気になりまして」
「気になるなら行ってくりゃいい」
「はい、富嶽様。旭陽様すみません。せっかく伺いましたのに」
「気になさらないで下さい。嬉しかったです。ありがとうございました」

 那木は微笑むと、寝台の傍らの小さな机に花器を置いた。大ぶりの花はどの角度からも良い格好に見える。生け方の賜物だ。那木は「それでは」と軽く頭を下げ病室から出ていこうとした。その時だった。診療所の職員が旭陽の病室にもうひとつ寝台を運び入れ、次いで慌ただしく患者を抱え入ってきたのだ。突然のことに驚きつつも、部屋には一気に緊張が走った。息吹も富嶽も、固唾を呑んで職員を見守っている。那木は手伝いを申し出たが、患者を見るなり目を丸くしていた。

「初穂様…っ!」

 その名に皆顔を見合わせた。寝台に横たわるのは間違いなく初穂だった。白い寝間着に着替えさせられた彼女は、目を閉じたまま人形のように微動だにしない。まるで眠り続けているかの様だ。
 すると、主治医と共に病室に大和が現れた。今しがたまで奇病の話をしていたのもあり、旭陽はまさかの可能性を否定したかった。主治医は初穂の脈を測り終えると「今は安定しています。様子を見ましょう」と大和に頭を下げ病室から出て行った。眠り続ける初穂を大和は我が子のようにして見つめていた。
 那木は初穂の掛け布団を整えると重苦しく口を開いた。

「大和様…。まさか初穂様は…」
「ああ、間違いない。“夢煩い”だそうだ」

 ── 夢煩い。それが、先ほど富嶽が話していた奇病の名前であるらしい。原因は鬼による人の思念への介入と誘惑だ。息吹の言っていた人の弱みにつけ込むとは、その人間の忘れられない又は忘れたくない過去や、或いは人の欲望に巣食い延々と夢を見せ続けることである。挙句、眠り続けて衰弱した人の魂を食らうらしい。
 夢煩いにかかる人が目覚めるには、病の根源である鬼を討伐し、人を惑わす鬼の思念を断ち切る必要があるのだと大和は言った。
 しかし、思念が介入しただけで初穂を眠り続けさせる事ができるのか、旭陽にはそれが分からなかった。だが一つだけ、いつも賑やかで明るい初穂にも抱えた秘密があるのを思い出した。いつか旭陽に話してくれた「浦島太郎」だ。家族も友達も居ない四十年後の里は、初穂にとっては孤独そのものだ。旭陽と同じく「帰りたい、戻りたい」という気持ちは少なからず鬼に付け入る隙となっているのだ。
 寝台から抜けだした旭陽は、眠り続ける初穂の枕元へやってきた。大和は初穂が鬼の標的になってしまったであろう経緯を、三人に話している。
 初穂は四十年前、近所に住む自分の姉のような存在だった。ある日突然行方不明になり、神隠しにでも遭ったのかと思っていたが、気づけば歳を取らず今の時に現れた。彼女の欲するもの、件の鬼に惑わされる理由は、過去の居場所そのものであると。
 勿論、初穂の秘密を三人は突飛な話をどこから信じれば良いのか分からないだろう。ただ、現に違う時と場所からひょっこり現れた旭陽が居る事実は否定出来ない。
 大和の話が終わると、富嶽は旭陽に言った。

「旭陽、てめえはまだ動けねえからな。その分、毎日こいつに話しかけてやれ。何もしねえよかマシだろ。起きるかもしれねえ」
「そうですね。旭陽様、初穂様のことを宜しく頼みます」
「鬼は俺達に任せてくれ。旭陽ちゃんも体治すことの方が先だからな」

 旭陽は大和と目が合った。一番に彼女を元に戻し、両親や友人らと同じ時を歩ませたいのは大和かもしれない。ただこのまま初穂が鬼の夢に蝕まれることは同じく病に倒れる里の民の命にも関わる。結果鬼に屈してしまう事になる。初穂が眠り続ける事実を鑑みれば本心は戻りたいのかもしれない。ただ、今の時にも大和を始め、彼女との日常を再び願う人が居る。
 旭陽は堅く頷いた。

「初穂ちゃんきっと目を覚ましてくれると信じてます。それに、甘味屋さんの品書き、初穂ちゃんと制覇する約束してますので!」

 旭陽の間の抜けた返事に、富嶽と息吹はやれやれと呆れ、那木はくすりを頬に笑みを溜めた。三人は、大和の指示ですぐに周辺調査に駆りだされ、病室を後にした。大和は病室を出る間際、背を向けたまま旭陽に言った。

「旭陽、お前が居てくれて良かった。来るべき時に備えお前もしっかり療養することだ。皆必要としている。それだけは忘れるな」
「…はい、ありがとうございます」

 少しでも気を許してしまえば自身も夢煩いにかかってしまうのではという不安は取り除かれていた。きっと、大和の言葉はそういう意味だったのだろう。
 皆の無事を祈りつつ、旭陽は大和を見送った。