第一章
小話:其の二「目的」

 はぁ、と溜息をついた旭陽は、目に掛かる伸びた前髪を無意識にいじった。燻ぶった囲炉裏の火はぱんと音を立て、宙へ舞い消える。晩夏も過ぎた里では朝夕の冷え込みが肌に感じる程になり、火に当たれば心地よいまどろみに襲われることもしばしばだ。非番の日は特に、食事後の満腹感も相まって船を漕いでいる。
 途切れる意識の断片には、いつぞやの橘花の悲しい様子が差しこまれていた。
 今日日里が平穏無事であるのは、橘花が自身の命を削っている事は言うまでもない。閉じ込められた空間で祝詞を上げ、民の平穏を祈り続けることが橘花の宿命だと分かってはいても、その孤独と課せられた重責を旭陽を始めとしたモノノフたちが分かち合うことは不可能に近い。だからこそ、鬼ノ府が異界へ出向き鬼を滅する必要がある。
 しかし、秋水と橘花の提案にはいよいよ里の総力にも限界があるのだと突き付けられたも同然だった。
 里には、息吹、速鳥、富嶽、那木、初穂、桜花と精鋭の鬼ノ府が揃っている。彼らの強さは旭陽も身を持って知っている。周辺警護も掃討も、結界の境界に鬼の指一本触れさせないのは彼らの労あってだ。だが、異界を取り巻く現状は旭陽の想像以上に深刻さを増しているのだった。増える鬼、広がり続ける異界の領域、それらは必然的に巫女たちに負担を強いる。新人モノノフが一人増えたところで、現状がすぐに改善するはずもない。逼迫する状況に文字通り一石を投じることが急務なのだ。
 橘花の決断は、一見桜花の負傷による感情的なものであるようにも思われたが、現状を冷静に判断し理解していた。秋水に言い含められた感じも否めないが…。
 本部から橘花が去った後、桜花は「妹は一度こうと決めたら頑固なんだ…」とこぼし、すぐに吊り上げた目を戻したのが旭陽には印象的だった。仲間や自分の灯火が吹き消されそうな事態に直面し、背筋の凍る思いをしてきた旭陽だが、その度に帰りたい気持ちが先行する。親類に迫る命の危機を真っ向から受け止める桜花の態度は、胸に迫る思いと旭陽の覚悟の弱さをも浮き彫りにしたようだった。

「もっと…いい方法ないのかな…」

 膝を立て、旭陽は額を押し付けた。自分に何ができるのか考えても思いつかない。例えひらめきがあっても、以前のように提案を軽々しく口にすることが躊躇われる。行動に移したくとも、今の旭陽に力が足りないのは明らかだ。
 すると俯く脳裏に、うっすらと声が入り込んでいた。

「主殿、そう俯いていてはならぬぞ」
「与一さん…」
「一朝一夕で、力は身につくものでもない。焦る気持ちもわからなくも無いが」
「はい、頭では分かってはいるんですけど…。橘花さんが心配で…」

 今度はもう一人の声が届いた。安倍晴明だ。

「私個人の意見としては、研究員の策は効果はあると思います。巫女殿も結界子を伝う己の力、その感覚が増すのは手に取るように分かる筈です。何も間違っては居ない。彼女も自身で出した答えです。それを汲みモノノフは鬼を打つのみ、ですよ。旭陽殿」
「はい…」

 会話が途切れたところで旭陽は顔を上げた。ふと玄関を見ると影が映っている。直ぐに「御免」と声が掛けられた。速鳥だ。彼も本日は非番なのだろうが、旭陽の家に訪れるのは珍しい。速鳥は休みであっても武具の整備や、お頭の命である情報収集に時間を割いているのだ。
 何事かと立ち上がり、戸を引くと相変わらずな無表情で突っ立っていた。

「お疲れ様です。…どうぞ?」
「かたじけない」

 座布団を差し出すと速鳥は腰を下ろした。旭陽が茶の用意を始めると速鳥は部屋をぐるりと見渡している。少し肩を落とした様子で再び正面に向き直り火をじっと見つめていた。
 先程まで感じていた御霊たちの気配は、いつの間にか消えていた。湯のみを手元へ置き、何も言わない速鳥に旭陽はたずねた。

「速鳥さん。どうか、したんですか…」
「先日の橘花殿の件。先に話を聞いていた貴殿は、気を落としてはいないかと思い参った次第。桜花殿にも何やら謝罪したと聞いている」

 節分祭での出来事だ。人通りの多い露店が立ち並ぶ場所で、急に頭を下げる人間は大層目立つ。

「…すみません。速鳥さんのおっしゃる様に、あの時飛び出して行ったら、こんな無理なこと橘花さんがしなくても良かったかもしれないと、実は少し考えてました」

 速鳥の口布の下が僅かに弧を描いた。

「恐らく、秋水殿は事前にお頭に話していたに違いない。それを受け、橘花殿へ説得にまわったのだろう。良くも悪くも自分にとって危ない橋は渡らない男だ」

 用意周到、根回しや事前準備は完璧。それから実行するのが秋水なのだと速鳥は言っている。

「橘花さんも色々考えた結果だというのは十分分かっているつもりです。里のことを考えれば “やめて下さい” なんて言える資格は無いです。それでも橘花さんの負担を軽くできたら…とは思ってるんですけど…あはは」
「それだけ分かっているのなら話は早い。稽古の相手なら自分がいつでも請け合おう」
「はい、ありがとうございます」

 速鳥の言う通りだ。橘花の覚悟に応えるにはモノノフとしての職務を全うする他ない。「うん、頑張ろう…」と旭陽は気を取り直し小さく呟いた。
 湯気の上がる湯呑みを口元まで持っていく。一口飲み、そこで旭陽は気づいた。茶を出したは良いものの、速鳥は未だそれに手をつけていなかった。実はこれまで彼の素顔を一度も見た事がない。食堂で一緒になっても必ず壁に向かって端の席に座るし、どんなに暑い日でも黒い布が顎まで下がることはなかった。何らかの事情で、人前に顔を晒せない理由があるかもしれない。何も考えず茶を入れたことにしまったと頭を抱えたくなったが、速鳥は構わず人差し指を掛け、ためらいなくずいと下ろした。
 布ごしでは分からなかった速鳥の素顔は、色白で端正な顔立ちをしていた。旭陽は速鳥が湯のみに口をつける様子をぼけっと見つめた。旭陽の視線を感じた速鳥は顔を上げた。

「自分の顔に何か?」
「あ、い、いえ…!ナンデモナイです。不躾にごめんなさい…!」

 旭陽は無意識にまた前髪を弄った。速鳥は一口飲んだだけで、口布をまた鼻の上まで戻していた。

「少し…」
「え?」
「少しばかり、貴殿は髪が伸びたのでは」
「自分で前髪切りたいんですけど、鏡持ってないしこのままでもいいかなあ…なんて」

 速鳥は僅かに腰を上げると、腕を後ろに伸ばした。戻した手に握られていたのは小刀だ。

「自分でよければ、お手伝いさし上げるが」

 初穂に鏡を借りようと思っていたが、思わぬ申し出に旭陽は驚いた。

「え…?っと。ありがとうございます!じゃあ、お言葉に甘えて…!」

 速鳥は、旭陽の正面に座ると鞘を引き抜いた。直刃の綺麗な細い小刀は、果物を切るに丁度良さそうな大きさだ。居すまいを正し、若干緊張の面持ちでじっとしていると、速鳥は「失礼」と断り、人差し指と中指で旭陽の前髪を挟んで削ぐように刃を入れていく。伸びた分は囲炉裏の脇へはらりと落ちた。
 いつも孤高を貫いている速鳥が、自ら他人に世話を焼くことが旭陽には意外も意外だ。真剣な視線で旭陽の前髪は切り揃えられていく。あと少しで終わりに近づく時、速鳥は口を開いた。

「ところで旭陽殿」
「はい?」
「その…、貴殿は天狐を飼っていると息吹殿から聞き及んだのだが」
「ええ、今は散歩に行ってます。もうすぐ帰ってくると思いますよ」
「…天狐が戻るまで、こちらで待たせては貰えぬだろうか」

 最後の一束を切り終え旭陽の視界が開けた。見上げた速鳥の視線は、一身に旭陽へ注いがれている。寡黙な速鳥はそこには無く、まるで心を奪われている眼差しに旭陽は納得した。

「速鳥さん、もしかしなくとも天狐好きですか」

 質問にはっとした速鳥は前のめりの姿勢を正し、一度ごほんと咳をした。膝の上で手を揃え短い返答とともに硬く頷く。

「忍びたる者、やはり…可笑しいだろうか…」
「おかしいだなんて思いませんよ。私も天狐大好きです。あ、噂をすれば」

 玄関に取り付けられた天狐用の扉から、赤い靴下を履いたような毛むくじゃらの前足が覗いたかと思えば天狐が顔を出した。キュイとひと鳴きすると旭陽の元へと駆け寄ってくる。見知らぬ人間に警戒しないのは、旭陽が親しげに速鳥と話しているからだろう。天狐は速鳥に近づくと鼻を近づけていた。

「なでても大丈夫ですよ」

 布の下の表情は分からなかったが、速鳥は恐らく相好を崩しているに違いなかった。
 暫く天狐と戯れていた速鳥だったが、本部からのお呼び出しが掛かったと隊員が迎えに来た。何でも、採石した銅鉱石の運搬護衛を頼まれたとのことだ。速鳥は後ろ髪を引かれつつも旭陽の家を後にしたのだった。