頬に何か擦り寄っている。恐らく天狐だろう。
まだ、夜も明けきらないというのに、同居人は早起きだ。旭陽が寝返りを打つと、賢い天狐は起きるまで大人しく待っていてくれるが、今朝はやけにしつこかった。何度も何度も、頬に擦り寄っている。旭陽は瞼を閉じたままうんと唸り、伸びをした。すると背中は大層凝っているようで痛い。そう、昨晩は酔っぱらいの伊達男こと息吹を仕方なく自宅まで運び寝室に寝かせたせいで、旭陽は居間の座布団を並べてごろ寝をしたのだ。
酒が残っているのか、少々頭も痛い。水でも飲もうかと、瞼をゆっくり開いた。
ところが眼前の状況を把握するまでに凡そ五秒、そして、昨晩の気掛かりはやはり気のせいだったと、少しでも気を許した後悔を認識するのに二秒、そして──
「おはよっ、旭陽ちゃん。旭陽ちゃんのほっぺた柔らかいな」
「ぎゃあああ!!」
絶叫に要したのが三秒だ。その計十秒間に旭陽は息吹への警戒心が格段に跳ね上がった。がばりと起き上がった旭陽は、即座に息吹と距離を取り、部屋の階段箪笥に背を付ける。勢いが付き過ぎたのか、ガタンと箪笥の上で何かが転がったが気にする余裕も無かった。息吹は旭陽の驚きように腹を抱えて笑っている。
今しがたまで天狐だと思っていた頬の感触はずっと息吹が触っていたのだ…。旭陽は手を頬に添えながら、顔が真っ赤になっていた。
「ちょ、ちょ、ちょ!!なんなんですか!!驚かすのも大概にしてくださいよ!!」
「そんな反応するとは思わなくてさ…、あっはっはっは!!!」
「わ、笑い事じゃないです!本当、昨晩どれ程重かったか、ああもう、何か色々心配しちゃって損しました!思案撤回です!撤回っ!!」
息を荒げる旭陽に、落ち着けと言わんばかりに、今度こそは天狐が体を寄せてきた。ふわふわと先だけの真っ赤な二股の白い尻尾は前後に揺れている。キュイとひと鳴きすると、天狐は膝の上にちょんと座った。
「悪かったって、本当ごめん。それにしても、その天狐とやらは人に懐くんだな。あまり飼ってる人間を俺は見たこと無くて少し驚いた」
「可愛いですよ。おりこうさんですし。お行儀もいいものねー、天狐」
「キュイっ」
「行儀がいいところは俺に似てるな」
のたまう息吹へ、じとっと睨みを利かせると、手を出さなかったことを褒めてくれと笑っている。呆れた旭陽は、膝の上の天狐を味方に付けた。
「それいけっ、天狐!あの伊達男は私の敵だ!」
キュイ!と鳴き声を上げ、天狐は息吹へ一目散に走り、飛びかかった。天狐は頭がいいので戯れる程度は分かっている。前足で息吹の顔をぺちぺちと叩き、可愛い相棒は旭陽の仇を取ってくれた。
二人と一匹がそうこう騒がしくしている間に、丸い明かり取りの障子越しは白んでいた。薄暗かった夜は山の後ろへと徐々に押し上げられている。次第に、外は人々の草履の音が響き始め、かんかんと鍛冶屋から鍛錬の音もし始めた。今日もまた里の一日が始まったのだ。
旭陽はぷりぷりと憤慨しつつ身支度を整えると、息吹と共に鬼ノ府の食堂へと赴いた。
食堂ではいつも勝手方の女性が朝昼晩と隊員たちの為に食事を用意してくれるのだ。食堂内に入ると、既に早番の隊員たちは食事を終え席を立っていた。今から各々の任地へと向かうのである。
一応、息吹はこのウタカタの里で隊員たちの隊長を勤める程の腕を持つ精鋭だ。隊員たちは息吹に気がつくと恭しく礼をする。息吹も、上官らしく彼らを鼓舞し励まし見送った。旭陽の家に居た時とは大違いである。
食堂は朝食と昼食だけは、自分で小鉢を取りにいく形式だ。現代風に言えばセルフサービスである。積み上げられた盆を取り、味噌汁に白飯、厚焼き玉子、納豆…などなど、用意された品を好きな分だけ盆に乗せ、席についた。すると、三つある長机の一番奥に那木が一人で朝食を取っているのに気がついた。彼女の隣へ移動しようと再度席を立つも、既に那木は食事を終えたようだ。空になった食器類を片付ける那木へ旭陽は駆け寄った。
「那木さん!おはようございます!」
「旭陽様、おはようございます。今朝は息吹様と来られたご様子ですね」
「ええ…、まあそれは不本意なんですけど…。そうだ、那木さん今日の任務は?」
「私は通常勤務でございます。もう暫くしましたら、周辺警護に…」
「そうですか、私遅番なんですけど帰ってきたら、今晩甘味屋さんでお茶でもどうですか」
いつもなら旭陽の誘いに、それは名案ですねとすぐに返してくれる那木だが、やはり元気が無い。少々物憂げな顔になったかと思うと、取り繕うかのように笑みを作った。
「わたくし、今里にある学術書の一覧を整理している所なのです。ですから、今はどうしても時間が取れなくて…申し訳ございません…」
「い、いいえ!気になさらないで下さい。じゃあ、また別の機会に行きましょう」
那木は小さくはいと答えると、食器を下げ、さっさと食堂を出て行った。縦格子の窓を横切る彼女の表情は上手く読み取れない。
息吹が昨日話したこと、自身の執刀で友人を亡くしてしまったことが尾を引き、間違いなく手早く処置に付けなかったことを気にしている。心優しい那木のことだ、桜花や他の隊員たちの負傷をまるで自分のことのようにして心を痛めているに違いない。旭陽や他の鬼ノ府たちと距離を保つ彼女を見ていると、旭陽は辛かった。
「那木さんは何も悪くないのに…、それに…元はといえば…」
そうぽつりと旭陽が呟けば、側にはいつの間にか富嶽が席につき、飯をかっくらっていた。最後の一粒まで綺麗に平らげると、茶を豪快に飲み干した。音を立てて湯のみを置くと、旭陽はぎろりと富嶽に睨まれた。
「てめえ、旭陽」
「富嶽さん…お、はようございます」
「あのな、この自称伊達男が何を吹き込んだか知らねえが、あんまりそう他人の詮索をするな。過去だなんだと構ってたら切りがねえ!」
その伊達男は、現在富嶽の斜め前に座り、まるで富嶽など見えないとでもいうかのように悠揚と味噌汁を啜っていた。息吹を一瞥した旭陽は、ため息をついた。
「それは…冷たいですよ。富嶽さん…」
「じゃあよ、てめえは他里でもねえどっかから急にふらっとこのウタカタに現れたわけだろうが。それを俺らが可哀想可哀想っつっていつまでも同情されてみろ。どうだ」
「それはそれで…申し訳なくなります…」
「だろ。つまりはそういうことだ。本人がどうにかしなけりゃなんねえ問題だってこった。わかったんならさっさと飯食え。女給に叱られんぞ」
「はい…」
席につき、旭陽も手を合わせた。
富嶽の言うことは勿論理解できる。那木の代わりになることは出来ない。励ましても余計に彼女を傷つけるだけだ。何か切掛けでもあれば── そう思い、旭陽は味噌汁の椀を手に取った。
富嶽が旭陽を睨んでいた。
「てめえも、作戦実行をえらく気にしてるようだが?」
むせた旭陽は咳込んだ。味噌汁が向かいの息吹へ飛ばなかったのは幸いだ。慌てる旭陽の様子を見た富嶽は「図星か」と吐き捨て、新聞をバサリを広げた。文字を追いながら、「自惚れんじゃねえ」とか「そんなん考える暇があるなら鍛錬しろ」などと、少々イライラしながら旭陽には耳が痛い独り言を言っていた。
ふと新聞の広告欄が目に入った。天狐の飼い主募集と書いてある。一体この新聞はどこが発行しているのだろうかと息吹に問えば、新聞は霊山新聞社といって鬼ノ府の総本山である霊山が発行している本営新聞だという。日々鬼の情報や、他里の外交状況、また交易のための安全な陸路、天気等など、様々な情報を提供しているのだ。
富嶽は毎朝よろず屋で購入しているらしい。また見開きを一頁捲るのを見計らって旭陽は尋ねた。
「そういえば、今日速鳥さんと初穂ちゃん…まだ見えませんね…」
すると、富嶽では無く息吹が茶を啜り答えた。
「速鳥のやつ、確か昨日は宿直だったんじゃないか。それにしては、戻りが遅いな…。初穂は今日は普通だと思うが…」
「あのちびっころ、まだ寝てんじゃねえのか」
そう言って富嶽は新聞を畳んだ。が、すっと手元から引きぬかれ、文字は遡っていく。新聞から抜け出た視界の先には初穂がむすっと頬を膨らませていた。
「だ・れ・が!ちびっころよ!私あなたたちよりお姉さんなのよ!失礼しちゃうわ!もうとっくに食べて武具の手入れをしてたのよ」
富嶽は苦虫を噛み潰したような顔をして、新聞を初穂から奪い返した。初穂は武具の整備が一段落したとのことで、お茶を飲みに来たらしい。
「おはよう初穂ちゃん」
「おはよう、旭陽。最近気候がいいからかしらねー…なんかお手入れしてる途中眠くって眠くって」
「寝る子は育つ、お子様ここに、かな」
「ちょっとお!俳句みたいにして言わないで!」
盆を持った息吹は、初穂から逃げるように食器を下げ「俺は非番だからお先に」と言い脱兎のごとく食堂を出て行った。まるで嵐が去ったかのように静かになる。富嶽も、指南所へ鍛錬に行くと言い席を立った。
旭陽の今日の任務は遅番なので、昼頃から戌亥の刻、大体夜の九時頃までの任務だ。本日初穂は普通勤務らしいが、この時間まで食堂にいても良いのかと尋ねると、彼女は休憩しに来たのは勿論だが、実は武器弾薬の補給隊を待っているのだと言った。
鬼を討伐するにも、当然色々と物資は必要だ。初穂は今日一日武器庫の整理に回されたらしい。本人は討伐や調査へ赴きたかった様子だが、大和に止められたと不貞腐れていた。
「初穂ちゃん、私も手伝おうか?今日遅番だし」
「ううん。ありがと。気持ちだけ貰っておくわ。任務前はゆっくり休んで、ちゃんと体調整えて行かなきゃだめよ」
「わかった。ありがとう。備品整理頑張ってね」
「まっかせなさーい!」
旭陽は初穂と別れ、ようやく食堂を出た。里は良い天気だ。空は高く、青空が延々と続いている。頭上には鳶が悠々と日輪に添って円を描き、鳴き声が細く響き渡ると一層里の風景を長閑にした。こうしてゆったりと流れる時に身を任せていれば、一歩外に出た途端おぞましい化け物が踏ん反り返る世界とは到底思えない。視界に入る範囲だけに限れば、本当にただの農村だ。
竹柵に手を掛け、暫く里の景色を見渡した。里は門へ向かい勾配が下るので、入口付近へ掛けて畑や田んぼが段々に続いている。今日は収穫日なのだろうか、頭巾を被り、背に大きな籠を背負った里の人が幾人も農作業に勤しんでいた。土の中から出てくる橙色に近い、赤い野菜は…人参だろう。手際よく抜き、籠を見ずに放るのは熟練の業である。その時、旭陽は橙色の人参を見てふと思い出した。
橙色、実…そう。あの石の隧道を潜り抜けた社のご神木、そして、パズルの絵と同じ吹き抜けの場所だ。
旭陽はウタカタの里へやってきてすぐの夜以来、あのご神木を訪れていなかった。那木曰く、旭陽はあの社から飛び出てきたとのことだが、これまでは生活に慣れることに必死で、ついつい手がかり探しを疎かにしていたのである。鬼を討伐し御霊を解き放つことで、時の歪みを正すことも勿論だが、周辺探索でも何か分かるかもしれない。
丁度よい機会だと思い、旭陽は社へ行ってみることにした。
旭陽は一旦自宅へ戻り、任務の準備をしてから家を出ると、以前来た時と同じく隧道の入口までやってきた。
あの時は夜で、辺りの景色を見遣る余裕さえも無かったが、よくよく観察してみるとどうもこの空間は神木の根の窪地を思わせる。
綺麗に実が色づいた大木は、天を突き破る高さにそびえ、立派過ぎるごつごつとした太い根は社を囲うように地を張っているのだ。根の直径は恐らく旭陽の身長よりもある。
旭陽は、転がる大きめの石の上に立ち、根の向こう側を覗いてみた。遠くには建物の黒い屋根が見える。ふと下へ視線をやれば、なんと断崖絶壁だ。切り立つ岩肌が露出していた。その谷を挟んだ向かい側には、鬼ノ府の立派な建屋が櫓のように連なり、本部から伸びている吊橋がそちらへ伸びている。里全体は、どうやらまるごと城郭のような構造であるらしい。
石から下りて後方を見ると、石垣が積み重なっていた。首を真上に上げてようやくわかった。社は恐らく本部建物の横だ。中でいうと、大体木綿の居る受付辺りの位置になるのだろうか…。だが外からは屋根の庇と壁だけでいまいち場所はよくわからない。雨樋がぶら下がっているのだけは分かる。
そこから少し左側へ視線を移すと、本部をぐるりと一周する廊下から石垣を伝い、石段が繋がっているのが目に入った。この場所は本部の中と行き来できる様だった。
「ああ、ここ繋がってるのか…。あとで本部から降りてみよう」
その後、旭陽は地面に何か落ちていないかと生い茂る色濃い夏草をかき分けた。雑草は旭陽の胸の辺りまで伸びている。地面を見てみても、社の周りを調べても特に何も変わったところはない。神木も普通の木だった。
何も無いので手持ち無沙汰になり、帰ろうと踵を返したその時、本部から続く石段より話声が聞こえた。聡明そうな若い男性の声、断定的な話し方…。これはもしかしなくとも秋水だ。丁度伸びすぎた雑草のお陰で死角にいる旭陽は、まだ秋水に気づかれていないらしい。
石段を下りた秋水は、社の辺りまで来るのかと思ったが、そのまま石垣に背をつけ寄り掛かり、石段に座っている誰かと話をしている様子だ。盗み聞きは悪いと思いながらも、人間の性或いは好奇心からか、旭陽は留まり茂みにじっと身を潜めた。
── …僕はそう、考えます。日に日に増加する大型の鬼を考えれば、結界が破られるのも時間の問題でしょう。
── ですが…、私にできるかどうか…。
── 大丈夫です。橘花さんなら、きっとできると信じています。貴方は里の希望です。
── 里の為に…。その提案、承りました。
── ありがとうございます。貴方ならきっとそう、言ってくれると思ってました。
詳しいことは追ってご連絡します。そう言って秋水は石垣から背を離し、橘花と共に本堂の廊下へと戻っていった。
旭陽には話の内容がいまいち理解出来なかったが、兎に角「大型鬼」「結界」の単語だけで解釈すれば、橘花の結界に何か関連しているものだろう。秋水は何らかの策を橘花に話したのだ。一体それがどういったものなのかは詳しくはわからない。「私にできるかどうか」とは恐らく橘花の命を削るようなことだ。秋水は彼女を悩ますようなことを告げているのかもしれない…。
この事を誰かに知らせるべきか、旭陽は考えこんだ。一番は大和だが、旭陽が里の人間を疑うような素振りを見せれば困らせてしまうだろう。それに、秋水の言っている提案とやらが悪いことである確証もないのだ。だが、橘花の思いつめたような声は耳にこびり付いた。
「提案って何なんだろう…」
「確かに、少々気にはなるが」
明らかに旭陽の心の中を代弁するような物静かな声が後ろから聞こえた。肩を震わせ、ブリキ人形のようにゆっくりと首を回せば、そこには速鳥が息を潜め旭陽と同じように雑草の合間にしゃがみ込んでいたのだ。
声を上げようとする旭陽の口元を塞いだ速鳥は「今任より帰還した次第」と声を落として言った。秋水と橘花はもう本部へ入っていたが、旭陽もつられて声が小さくなる。
「夜勤明けるの遅かったんですね」
「独自に調査をしていた」
「調査、ですか?」
こくりと頷いた速鳥は続けた。
昨晩宿直だった速鳥は、里への帰還中に三体の深渊と遭遇し、それらの進行方向がウタカタだったので、たった一人で伸してきたらしい。一時に三体とは、さすが速鳥と言うべきか、それにしても無理をし過ぎでもある。派手に暴れましたねと眉を下げながら言うと、速鳥は表情を変えずに答えた。
「鬼の指揮系統の糸をどうにか辿れないかと、今まで探っていた」
「そうだったんですか」
「お頭にも、なるべく討伐後は検分を綿密にするようにと自分は命じられている」
「なるほど…」
速鳥は一度周りを見渡すと、立ち上がった。よく見ると、速鳥は土埃まみれで、装束にも裂けたり糸の解れている場所が何箇所もある。相手は深渊だったと言っていたから、あの大きな鎌や爪が一辺に襲い掛かり紙一重な攻撃を幾度も避けたのだろう。想像すれば、旭陽は肝が冷えた。
俊敏で身軽な速鳥だからこそなせる技なのだろうが、それでも無茶をし過ぎだ。速鳥は普段から右目だけしか顔が露出していない。それ故、弾いた石にでも当たってしまったのだろう。丁度頬の上に、赤い切り傷が一筋走っていた。
手ぬぐいを取り出した旭陽は、速鳥に差し出した。
「速鳥さん、目の下のところ、血出ちゃってますよ。これ使って下さい」
速鳥は受け取るのを一瞬躊躇したが、旭陽が手を引っ込めないのを見て受け取った。すると、里の広場の辺りから、旭陽を呼ぶ隊員の声がする。そろそろ遅番の隊員たちが出立する時刻だった。
「わ、いつの間にかこんな時間。お弁当貰って早く行かなきゃ!速鳥さん、この件はまた後程お話させて下さい」
頭を下げ、駆け出そうとする旭陽の腕を速鳥は咄嗟に掴んだ。急に引っ張られ後ろに倒れそうになるも、踏ん張って振り返る。速鳥はいつかの時のように旭陽に呼吸の楽になる薬を分けてくれた。
「貴殿には、効いただろうか」
「はいっ、とても!」
ありがとうございます!と手を振って旭陽は遅番の任へと着いた。
速鳥は、本堂へ続く石段を眺めた。旭陽と同じように、やはり秋水と橘花の会話は気になる。大型鬼の増加は速鳥も身を持って感じているからだ。旭陽の手ぬぐいを懐に締まうと、速鳥は大和へ報告に向かった。