里に帰還して数日が経った。桜花を始め、負傷した隊員たちは医療隊の迅速な処置の甲斐あり経過は順調だ。旭陽も、今回の任の報告を終え暫くはまた近辺の警護にあたっている。
討伐した鬼三体は結局、どれも「鬼の頭」では無かった。ただ、下級の鬼つまりは餓鬼などを統率する知能がある可能性はあるらしい。が、それも詳しいことは分からず仕舞いである。現在、隊員からの報告を受けた秋水が、大和の指示を受け調査を進めているようだ。
早朝の見回り当番だった旭陽は、隊員たちと分かれた後桜花の見舞いへ向かうことにした。
桜花は本堂の裏手にある診療所で暫く療養している。運び込まれた時は、誰もが固唾を呑んで桜花の無事を祈っていた。
一命を取り留めたと医者が伝えた時、旭陽はこの作戦を提案したことを悔いた。常に死とは隣り合わせであることは分かっていたはずだが、それは隊員全員に及ぶ。甘い考えを持っていたことが悔しくもあり、恥ずかしくもあり、御霊を複数宿せるというこに多少特別な存在であるとの奢りがあった。無神経だったと、ここ最近提言した時の会議を思い返しては落ち込んでいる。
そんな事を考えつつ、本堂に入ると、受付に居た木綿が気づき手を振ってくれた。
「お疲れ様です。見回り終わりましたか?」
「うん。私は今日は終わりです。いつもより早く上がれたし、桜花さんのお見舞いに行こうかなって」
旭陽は、帰りに市場で買った西瓜を持ち上げ木綿に見せた。木綿はにっこりと笑って、それは喜びますね。と言うと、引き出しから本を数冊、旭陽に差し出した。どれもかなりの厚さだ。
「これ、桜花さんへ渡して頂きたいんです」
桜花が病室で退屈そうにしているのを旭陽も知っていた。どうやら全て物語のようだ。少しでも気が紛れるように木綿の気遣いだろう。旭陽は快諾し本を預かると、診療所へ足を向けた。その時、本堂の入口からいつか旭陽に天狐を預けていった少女が血相変えて入ってきたのだ。彼女は一目散に受付を目指すと、台に手をついた。何か告げたい様子だが息が上がっている。
木綿も面食らいながらも、彼女の肩を支えた。
「橘花さん!こんなに慌てて…!」
「姉さま…は…。近衛の方が話しているのを耳にしました…大怪我を負ったのだと」
「お医者様は大事ないですと言っていました。順調に回復していますよ。安心して下さい」
「そう、ですか…、よかった…」
旭陽は少女に声を掛けると、彼女ははっと目を見開いた。
「貴方は、あの時の…。半ば押し付けたようでごめんなさい。天狐は元気にしていますか」
「はい。とっても人懐こくて、今日も家で留守番して貰ってます」
木綿は、二人が面識があることに驚いていたが、旭陽が経緯を説明すると納得したようだった。木綿は彼女を紹介してくれた。名は橘花といい、なんとこのウタカタの里を守る神垣の巫女だという。
旭陽は、以前桜花が話してくれた妹の話を思い返した。巫女は、岩屋戸からそうそう出られることが許されないと聞いていた。規則を犯してまで橘花は本堂まで姉の真偽を確かめに来たのだ。旭陽はまた胸が傷んだ。
更に、いつぞやの富嶽の話が頭を過ぎった。命を削り、結界を張って里を守るのが生まれながらの巫女の宿命。こんなにも若くして、彼女は自らを犠牲にし皆を守っている。旭陽は戦場で殆ど何も出来なかった。矢で鬼に切り傷を付けてやったくらいだ。
「橘花さんは巫女様だったんですね…。無礼なことしていたら、すみません」
「そんなに畏まらないで下さい。この里では、あまり身分は関係ありません。お頭のご意向ですので」
橘花は少し眉を下げ微笑むと、物憂げに俯いた。
聞けば橘花は、岩屋戸の近衛が任務中重症を負った桜花の話をしていたのを聞いてしまい、居てもたっても居られず隙をついて飛び出してきてしまったとの事だ。今頃、彼女の近衛は里中を探し回っているだろう。だが、自らの意志で叱られるのも構わずやってきたのだ。このまま返すのも心苦しい。
「橘花さんは、桜花さんの妹さんだと伺っています。私、今から桜花さんのお見舞いに行くんです。よかったら一緒に行きませんか」
「よろしい、んですか…」
「勿論ですよ。桜花さんもきっと元気出ますよ!」
旭陽は、帰りは自分が責任を持って岩屋戸へ送り届けると、木綿に近衛への言伝を頼み、二人は診療所へ向かった。
本堂にはぐるりと一周する廊下があるが、それは診療所にも続いている。この本堂も里の居住区よりは高台に位置しているが、診療所は更にその裏手の高台にあった。岩の切り立つ斜面に埋め込まれるように建物がそびえ立っている。周囲は木々の生い茂る空気の澄んだ閑静な場所だ。本堂から続く廊下は、診療所の門まで伸びていて、その下には川が流れている。
入口が近くなると、訪れた患者や、白衣を来た医師、医療隊員らとすれ違った。皆、旭陽とともに歩く橘花が大層気になるらしい。滅多に陽の下に出ない彼女は珍しいのだ。橘花は、旭陽の後ろに隠れるようにしてくっついて歩いた。
桜花の病室は、二階の角部屋だった。木の扉を軽く叩くと、中から桜花が返事をした。
扉を開けると桜花は寝台に体を起こし、本を読んでいた。いつも一つに結っている髪は、思いのまま彼女の肩に散らばり、窓からの風を受けなびいている。旭陽の顔を見るなり彼女は笑顔をほころばせたが、後ろから遠慮がちに橘花が顔を出すと、豆鉄砲を食らったような表情になった。すぐさま、橘花を叱りつけようとするも慌てて旭陽が仲裁に入った。
「桜花さん、落ち着いて下さい…!私が連れてきたんです。一応近衛の方にも、ちゃんと伝言してますから、橘花さんを叱らないでやって下さい」
「そ、そうだったのか…。それはすまない」
罰が悪そうに、桜花は本を閉じると棚に戻した。橘花は涙ぐみながら桜花に駆け寄った。
「姉さま…っ!」
「橘花、あまり旭陽に迷惑を掛けるな。彼女も雑事に忙しいのだから」
「ごめんなさい。でも、近衛の方が話してるのを聞いてしまって…本当に、本当にご無事で良かった…」
桜花にすがる橘花は声を上げ嗚咽した。落ち着くまで暫くは掛かるだろう。旭陽は、持ってきた西瓜を炊事場へ切りに行くことにし。桜花に目配せをすると、ため息をつきつつ病室を出た。
ところが、病棟の廊下を歩き、一階の共同の炊事場へ階段を折りていると、踊り場で男性が一人、医療隊員を口説いているのが目に入った。見慣れた金髪である。何を隠そう自称里一番の伊達男、息吹だ。どうやら夕食に誘っているらしいが、息吹と壁に挟まれた医療隊員は大層迷惑がっている。旭陽は遠慮無く声を掛けた。
「ちょっとお、息吹さん。何やってんですか」
息吹は呆けた返事をし、振り向いた。医療隊員の女性は書類をしっかりと抱え、逃げるように階段を駆け上がって行く。惜しいことをした、といった様子で息吹は旭陽に抗議の視線を浴びせた。
「あと、もうひと押しだったってのに。旭陽ちゃんが邪魔するから」
「明らかに隊員さん、迷惑被ってるって感じでしたよ。というか、息吹さんも桜花さんのお見舞いですか?」
「そうそう、って、旭陽ちゃんもその西瓜…お見舞い?」
「はい。今から炊事場で切り分けようと思って。ああ、でも今桜花さんは橘花さんとお話してますから邪魔しちゃ悪いですよ。息吹さんも一緒に炊事場行きましょう」
「へ?橘花ちゃん来てんの。よく来られたもんだ。そんじゃ俺らはおじゃま虫だな」
息吹と二人、炊事場までやってきた旭陽は西瓜を切りに掛かった。大分大きめの西瓜だ。人数を考えると半分で十分だったかもしれない。そう思いながらも、手際よく包丁を入れる。
共同の炊事場は半屋外で、伸びた庇の下には石造りの机と椅子があった。息吹はそこに座り、ぼんやりと切り立つ崖を見上げている。崖肌には山水が染み出で、見慣れない植物が群生していた。葉が四方八方伸びその先から雫が滴っている。
切り分けたものを盆に乗せ、旭陽は息吹に差し出した。
「お、美味そうだ。いただきます」
旭陽も息吹の向かいに座った。旭陽がため息ばかりついて俯くので、息吹はどうした?と種を吐き出しながらくぐもった声を出した。
「あーっと…」
「桜花が怪我しちまってこと、気にしてんのか」
「…そうです…。とっても短慮だったと思いました…、私瘴気にあてられて、実際の所鬼一匹倒せてません」
「そう気にすんな。皆、別に旭陽ちゃんを責めたりなんかしないさ」
「皆さん、優しいから…。なおのこと申し訳なかったと思って…それから…」
「それから?」
ここ最近、少し考えていたことを話してみることにした。
「息吹さん、那木さんってお医者様なんですよね…?」
西瓜にかぶりついていた息吹は、ぴたりと動きを止め顔を上げた。外へ向かって種を吐くと「そうだ」と首を縦に振った。
「私の…気のせいなのでしょうか…」
「悩み事か」
「悩み事…、少々気掛かりというか…」
旭陽は、那木について思うことを息吹に話した。
桜花の処置の手際が酷く鈍かったこと、手が少々震えて居るように見えたこと、決して失望して居るわけでは無いが、救護や治療はお茶の子さいさいだと勝手に思い込んでいた。外科内科もある。その違いなのかも知れない。しかし一番目に焼き付いているのは、現地から撤収する際の那木の酷く悲しげな様子なのだ。
黙って頷いていた息吹は頬杖をつき、答えた。
「那木は、確かに医者だが…今も昔を引きずっていると聞いたことがある。友人を死なせちまった辛い過去、まあ、よくある話だ」
「よく…?ですか…」
「俺もあまり詳しくは知らないし、俺が話すことでもないのかもしれないが…」
そう言って息吹は続けた。
那木は過去、学者の友人が居たのだそうだが、彼女は病を患っていたらしい。しかし、それを治すには心臓の手術が必要だったようで、那木は自ら執刀を担当したのだそうだ。しかし、手術は失敗しその友人は帰らぬ人となったらしい。
以来、那木は酷い外傷を見ると辛い過去を思い出し、うまい具合に医者としての判断にも自信が持てないのだという。
旭陽は思い当たるふしがあった。瘴気にあてられた時、具合を診た速鳥の言葉に那木は必要以上に胸を撫で下ろしていた表情だった。或いはそれも一因しているのかもしれない。
何も知らなかったとはいえ、旭陽は無神経にも那木に「指示を下さい」などと追い討ちを掛けてしまったことが悔やまれた。咄嗟の事でも那木を傷つけてしまったかもしれない。息吹に打ち明けると、珍しく息吹ははぐらかすこと無くはっきり答えた。
「それは、気にすることはない。こればかりは那木自身の問題だ。あいつが乗り越えるしかない過去さ」
「そう…ですか…。私、那木さんには色々とお世話になってますし、何か力になってあげられるといいんですけど…」
俯き呟くと、正面からの視線が痛かった。恐る恐る顔を上げれば息吹は色素の薄い瞳でまじまじと旭陽を見つめている。相変わらず、目鼻立ちの整った顔をしている。黙っていれば、ちょっとはかっこいいのに…。と思うもその言葉は飲み込んだ。
「な、何ですか…」
「いーや。旭陽ちゃんはぼうっとしてそうで、意外に他人を見てんのなーと思って」
「何か息吹さんに褒められるのはちょっと悪寒がします…。明日雪かな」
「そりゃ酷いぜ、俺こんなに励ましてやってんのに」
そう言って笑った息吹は、無意識に胸元に下がっている柘植の櫛を触っていた。水仙に似た白い花が掘られた装飾は、目を引く美しさだ。息吹は男性にしては割りと髪が長いので、自分用なのだろうかとも思うが、今までに使っているところを見たことがない。とはいえ、唯の首飾りにしては少々変わっている。
切れ端の西瓜を頬張りながら、旭陽は尋ねてみた。
「息吹さんが首から下げてる櫛ってとても変わってますよね。ご自分用なんですか?」
息吹は、きょとんとしていた。自分の話題に振れられるのが予想外だったと見受けられる。少しの間があって、彼はいつものおちゃらけた調子に戻った。櫛を旭陽の眼前掲げ、ニヤリと笑みを浮かべた。
「目の付け所が素晴らしい旭陽ちゃんには、特別に教えてあげよう。これは…」
「ふむふむ…、これは…」
「朝、隣に寝てる女の子の髪を梳くための櫛、ってね」
「…すみません、聞いた私がばかでした」
旭陽は切った西瓜を持ち、息吹とともに再び桜花の病室へと引き返した。戻ってみると、橘花は泣き疲れたらしく、桜花の膝の上で寝息を立てていた。
「すまないな、旭陽。西瓜はありがたくいただこう」
「いいえ。桜花さんも調子が良くなってるみたいで安心しました」
「で、息吹も見舞いに来てくれたのか」
「勿論、敬愛する上官殿ですので」
「ほう…先程、検診に来た医療隊員が世間話をしていったんだが…」
桜花の訝しげな視線に、息吹は肩を震わせた。思わず旭陽もぷっと笑いが込み上げる。人の話し声に、眠っていた橘花が身じろいだ。
外は既に昼も終わりに近づいている。青々としていた空は、次第に夕空の様相を呈し、早々と灯った病室の燭台には開け放たれた窓から小さな羽虫が寄ってきていた。旭陽は、窓の扉を僅かの隙間を開け閉じた。
流石に橘花をこのまま病室に泊まらせる訳にもいかず、息吹が橘花を背負い、旭陽とともに岩屋戸まで送り届けることにした。桜花に別れを告げ、旭陽と息吹は廊下を辿った。軒下に吊るされた提灯が夕闇迫る中幻想的に頭上に浮かんでいる。橘花はよく眠っていた。
「神垣の巫女は、千里眼っていうのを使うと聞いたことがある。巫女の力は思念を読むことが出来るらしい。姉妹なんだ。きっと姉貴の危機的状況をずっと察しながら、岩屋戸で気が張ってたんだろうな」
橘花がどの程度思念を読むのか、旭陽にはわからなかったが、親類が危機の只中にあるのを手をこまねいているのはさぞ歯がゆい思いだろう。何も出来ない辛さは、少し前の旭陽自身を思い返せば他人事のようには思えなかった。
三人が本堂までやってきた時、そこには既に近衛が二人待機していた。橘花の帰りを待っていたのだろう。息吹に背負われていると分かると、近衛は「橘花様!」と慌てて駆け寄った。
「大丈夫だよ、寝てるだけだ。起こしちゃまずいから、どちらさんか俺と変わってくれ」
一人の近衛が橘花を預かると、旭陽と息吹は橘花を見送った。丁度その時、受付の裏から荷物を抱えて木綿が出てきた。今しがた帰る準備をしていたらしい。
「旭陽さん、おかえりなさい。橘花さんは…?」
「うん、近衛の人が今」
「そうですか。ありがとうございました」
「木綿ちゃん、今日もかわいいねえ」
「息吹さん、それ、この間団子屋の娘さんにも同じこと言ってましたよ」
「あれ、そうだっけ」
「っもう!」
冗談をやりとりした後、木綿はお頭の夕食を作らねばならないからと言い、急いで出て行った。本堂に残ったのは、息吹と旭陽だけだ。外はすっかり陽も落ちている。本堂から山の方を眺めれば、結界子の大岩が濃紺に映えばえしく淡い浅葱色を輝かせている。橘花は今晩も里を鬼から守るため祈りを捧げてくれるのだろう。
欄干に手をついた息吹も大岩の方角を眺めた。夏草の匂いを伴った生ぬるい風がわっと地表から吹き上がった。
「まあ、あれが巫女の仕事だからな。俺らは俺らでモノノフとしてしっかり仕事こなすだけさ」
「そうですね…」
「お、さっきの落ち込み具合に比べりゃ、随分と凛々しい顔つきになったじゃないの。どうだい、お嬢さん。今晩一緒に夕食でも?」
「そういえば、お腹すきました」
「あー、旭陽ちゃん、もう少しこう…。まあ、いいや。じゃあ飯と行きますか」
里には、市場もあれば小さいながらも飲み屋街、宿場、色街もある。専ら付近は夜半過ぎでも店の灯りは煌々と灯り、博打好きや飲兵衛で溢れかえる。空腹だったので、どこか適当な食事処に入るのかと思っていたが、息吹は明日非番だから飲み屋に行こうと言い出した。
「あのー、私明日仕事ですよ…」
「そう、細かいことは気にしない気にしない。今日早番だったんだろ?じゃあ、明日は遅番。あったりー」
こういう時に相手が同職であると、上手く立ち回りができない。完全に、仕事の輪番を把握されているからだ。仮にも息吹は旭陽の先輩である。断ることも出来ず、結局引っ張られる形で居酒屋まで連れて来られた。
日没後そう時は経っていないはずだが、暖簾をくぐると店内は出来上がった客で大盛り上がりだ。丁度里の外から行商人御一行様が訪れているらしく、着物の裾を帯に引っ掛け、手ぬぐいを頭に被り手を叩き踊っていた。
「おうおう、盛り上がってるねえ」
いらっしゃい!と大将の野太い声が喧騒に埋もれる。息吹は空いている席を見つけそそくさと腰を下ろした。品書きにざっと目を通すと、何かに気づいたのか旭陽に視線を戻した。
「そういや、旭陽ちゃんとこうして差しで飲んだこと無かったな…。うし、今晩は俺の奢りだ!好きなだけ頼んでいいぞ」
息吹は普段から調子がいいが、今夜は特に饒舌な上気前が良い。一銭も払わずに命一杯食べられるとなれば、この機を逃すわけにもいかなかった。
「ほ、本当ですか…!」
「勿論、男に二言はない。さ、どんどんいっていって」
── と言った手前だ。この状況をどう説明すれば良いのか旭陽は頭を抱えていた。確かに店に入った時、息吹は好きなだけ頼めと言ったが、かく言う自身も浴びるように酒を飲み、旭陽の前には既に酔っぱらいの成人男性が一人仕上がっている状態である。
机の上には、二人で食べた品々の皿が大小たんまりと積み上がり、空の徳利は丸盆一杯に立ち並んでいた。周りに居た客も大分減って、大将も店員も片付けに徹している。
旭陽は食べることばかりに夢中であまり酒に口を付けていなかったが、それでも普段の摂取量よりは飲んでいた。ふわふわとほろ酔いくらいの心地だ。だが問題は息吹である。机に突っ伏しても尚、右手に猪口、左手に徳利を離さない。旭陽は、息吹の肩を揺さぶった。
「ちょっと息吹さん!起きてくださいよ…。大将店じまいするって言ってますよ!」
「あー…まだ、足らねえ…」
ずっとこんな調子で底知れぬ酩酊状態に陥っている。息吹が代金を支払うと言っていたが、さすがに旭陽も他人の懐をまさぐる事など出来ず、この場は旭陽が支払うことにした。勘定の書かれた紙を預かった途端、思わず食べたものが出そうになるくらいには大変な代金だった。
結局、旭陽は息吹に肩を貸し、店を出た。
虫の音が波うつように風に乗り、湿り気のある空気の中成人男性一人を支えながら歩くのは大変な重労働だ。息吹もかろうじて歩みを進めているが、まるで牛歩である。
「お、も、い…。息吹さん…!しっかりして下さいよ!」
「ん?ああ…、分かってる、分かってる」
「分かってないでしょ!」
飲み屋街を抜けたところで旭陽はふと気がついてしまった。旭陽は息吹の自宅を知らないのだ。顔を覗き込んだ旭陽は、息吹の頬をぺちぺちと叩いた。
「息吹さん!大変ですよ。家教えて下さい…!」
「家?…ああ、そうだな…」
「そうだなあ、じゃないですって!」
その後も取り敢えず本堂方面に向かって歩きつつ、途中何度も息吹に確認したが、終ぞ彼の自宅は分からず仕舞いだった。旭陽はとうとう諦めた。
家に帰ると、天狐が座布団の上で蹲っていた。起こさぬようにそっと中に入り、旭陽は息吹を玄関に寝かせ、履物を脱がす。そのまま、自身の寝室へと引きずるようにして運んだ。これが大層重い。汗だくになりながら、ようやく寝台まで抱え上げた。
息も絶え絶えになり、水を飲もうと寝室を出ようとした時、急に体がぐらりと傾いた。気づいた時には、寝台に投げ出されていた。隣には、息吹が横たわっているが、旭陽の手首を力いっぱい掴んだままだ。何か嫌な夢でも見ているのか、眉間に皺が寄り苦しそうだ。悪夢であるなら覚めたほうがいいと旭陽は息吹を起こしに掛かった。
「息吹さん、息吹さんっ!」
何度か頬を叩くと息吹はようやく目を覚ました。寝ぼけ眼でぼんやりしているのか、焦点が合って居無さそうだ。
「大丈夫ですか?もう…飲み過ぎなんですよ、何が、俺の奢りだ!だったんですか!」
旭陽が息吹の顔を覗き込みながら抗議すると、息吹は旭陽に腕を伸ばしそのまま抱き寄せた。普段から鍛えているだけあって息吹の腕は力強い。あたふたしつつ、抜けだそうにも上手く行かなかった。おまけに大量の酒呑み伊達男は酒臭い。もがく旭陽だったが、すがるような声で息吹が呟いた名を聞いた途端、旭陽は抵抗を辞めた。昼間の息吹の言葉が思い出されたのだ。
── 友人を死なせちまった辛い過去、まあ、よくある話だ。
ようやく息吹が寝息を立て、腕の力が緩んだ。旭陽はそっと寝室から抜け出て、自分は天狐とともに居間で就寝した。