暁の残灯episode.01
先程鬼の掃討を命じ隊を送り出したばかりだったが、陣所に居た識の元には再び部下らが血相を変えて戻ってきた。振り返ると、部下は女を一人を抱えている。明らかに識の部隊員ではなかった。ぴくりとも動かないがまだ息はあるらしい。恐らくは近隣住民か通りすがりの旅人が鬼に襲われたのだろう。識一人が見つけたならそのまま放って置いただろうが、生憎新米部下たちには面倒事とそうでない事との区別はまだつかない。ご丁寧に上官への報告のため迅速に引き返すくらいには、霊山所属のモノノフという矜持が働く。
逗留先での民間人や負傷者の保護は霊山本部への報告義務が生じ、出自を調べたり健康状態を記録したりと余計な雑務が増えるのが慣例だ。舞い込んだ面倒に識はため息をつき、部下に抱かれる女を形式的に確認した。ところが、妙に浮世離れしたその格好に、識はかつてない興奮が湧き上がっていた。
女は、此方では見慣れぬ装飾品を身につけ、金糸の刺繍をあしらった白い羽織を着ていた。識は似た装いの人間を、過ぎし日に幾度も目にしたことがあった。
脳裏には忘れもせぬ忌々しい記憶が瞬時に蘇り望郷の念にかられる。同時に、可能性が可能性ではなくなったことに、頭の中では歓喜が喚いていた。
間違いなくこの女は、識がかつて暮らしていた数万年前の世から来たに違いなかった。
識は今でこそ霊山軍師として鬼ノ府に勤めているが、実は人知れず遠い過去がある。
彼がかつて暮らしていた時代は、今世以上に技術の発達した世の中であり、戦の真っ只中にあった。
軍事技術の進歩により高度化した戦術にはもはや白兵戦などという言葉は存在しなかった。技術者や研究者たちがだだっ広い部屋に集まり、将棋を指すかの如く無人の戦艦や戦闘機を動かし、天候をも変え日々敵国と攻防を繰り広げる── そんな時代だ。識はその技術研究員の一人だった。
だが、自国は敵国との戦力差に恐れをなし、あろうことか同僚の研究員が開けてはならない「鬼門」を開け、“鬼”と呼ばれる強大な軍事力を世に放ってしまった。始めのうちは制御可能だった異形は次第に暴走するようになり、鬼門からは漏れなく生を根絶やしにする瘴気が放出され始めた。仕舞いには五匹の大蛇の首を持つ鬼、“トキワノオロチ”までもが現れてしまい、対立する両国は戦どころではなくなった。
どちらが天上国でどちらが地上国であるのか判別がつかぬ程、世は鬼に蹂躙され闇が落ち混沌と化した。制御という枷が外れた鬼は、阿鼻叫喚と人の魂を食らい尽くした後、鬼門を通じて異空間へと散り散りになっていったのである。
識はその混乱の中に、愛する家族を失った。
鬼をこの世に放たなければ、戦さえ起こらなければ、妻子を失うことは無く平穏無事に暮らせていたのだ。
大切なものが落下した陶磁器のように砕け、虚無と悲しみが憎悪へと変わった識は、己を狂わせた世に復讐を誓った。必ず生き延び、今昔の別なく憎しみの無いまっさらな世を創生してやると。そうして識は自らも鬼門に飛び込み、幾つもの時代を流されこの時代に至ったのだ。
識は霊山軍師という肩書ではあるもののその実、遠い過去からやって来た彷徨者なのである。
部下が、女の傍らに落ちていた所持品を持ってきた。一つは装飾の美しい銃、もう一つは巾着だ。中にはこの時代では精製が難しい高純度のハクの結晶と、懐かしきかなあらゆるカラクリの動力核であるカラクリ石が布に包まれ大事そうに入っていた。
武器に、結晶に、カラクリ石。この三拍子が揃ったことで、興奮のあまり識は全身から汗が吹き出すようだった。女は誤って鬼門に落ちた類でないと確信した。
当時、敵国は、開かれた鬼門から、別の時代へ鬼が流れ出た可能性を示唆していた。その為鬼が先の世を食い潰しかねないとの懸念を抱き、特殊部隊を編成したのだ。その者らは厳しい訓練に耐えた精鋭たちで、巷では「戦士」などと呼ばれていた。
識から言わせれば、無駄な正義を振りかざした悪あがきにしか見えなかったが、ともあれ現状の混沌が改善できぬならせめて後世の歴史の芽だけは摘ませてはならぬと考えたらしい。
そうして特殊部隊は鬼を追撃せんと、空間転移という先の世にだけ航行できるカラクリ技術によって、様々な歴史の中継点、分岐点へと送られた。
決して歴史の表舞台に現れることの無い幻の如き鬼討つ鬼は、討伐の為だけの生存を最優先事項として命じられ、任地での記憶や彼らの存在記録は航行の度に抹消されていた。明けても暮れても命続く限り忘却と討伐を延々と続けるよう、カラクリ技術を施された人間だ。
そして戦士たちは、自ら討伐を行うのは勿論のこと、現地の人間に手ほどきを行ったりもした。現在のモノノフの原点がそれなのである。
識が所属する霊山、そして鬼ノ府という統治機構が存在するのも、皮肉なことに数万年前の戦士たちが種を撒いた結果だ。この女も、持ち物から推察するに、その特殊部隊の戦士に違いなかった。
識はなるべくこの高ぶりが悟られぬよう取り繕い、医療班に命じてすぐに女の処置をさせた。医師曰く軽い脳しんとうを起こしているだけであるらしい。暫くすれば意識は戻るだろうとの事だった。
女が目覚めたならまず何を問おうか…。そればかりが頭の中にあった。いくら強制的に記憶が消滅するとはいえ、尋問すれば多少は吐くだろうと考えていた。
また、特殊部隊の戦士たちは自らの力で目標とする時代へ航行することができる。その力は識が喉から手が出る程欲していたものだ。過去も未来もすべからく無に還すには、まずは己がその術を会得しなければ始まらない。利用しない手はなかった。いよいよ己にもツキが回ってきたと考えれば心が躍った。
苦節幾年だったろう。こんな日が来るとは夢にも思わなかった。一人飛んできた地で、何が悲しくて退行した文明を学び、霊山の長老や陰陽方の胡散臭い連中を相手に媚び諂ってきたか、だがその甲斐があったというものだ。鬼ノ府中枢に食い込んだお陰で、今ではある程度の発言権も、決定権も我が手の内にある。野望へ着実に前進し、苦しかった日々がようやく報われる気がした。
数日の内に霊山へと帰還した識は、すぐさま女の元へ向かった。扉を叩いて声を掛ける。返答は無いが構わず戸を引いた。
女は寝台に起き上がり、じっと窓の外を眺めていた。人が入ってきたことに気づくとゆっくりと顔を識に向け、虚ろな目で見つめ返した。識は人の良さそうな笑みを貼り付けた。
「はじめまして、だな。君は、山道で倒れていたそうだ。私の部下が発見しここに連れてきた。なに不安になる事は無い。ここは霊山、モノノフの本拠地だ。安心してくれたまえ」
識の言葉を噛み砕くように理解しようとしているのか、眉間が狭まっている。暫く考えても思う答えには至らなかったらしい。女は何かを訴えたそうに識を見上げたが、言葉を詰まらせ俯いた。
「君は自分がどうして気を失い倒れたのか、覚えているかね」
女は頭を振った。識はほくそ笑んだ。これはもう黒だ。間違いなく戦士と呼ばれていた古のモノノフだ。
識は更に女を観察した。この施設が気になる様子で、恐る恐る天井、壁、入口、そして識へと視線を這わしている。やはり何事にもまずは近しい間柄にならなければ聞きたいことも聞き出せない。識は椅子に腰掛けると女と目線を合わせた。布団の上で堅く握られた緊張の塊に触れると、落ち着いた声で語りかけた。
「そういえば、まだ名を聞いていなかった…。教えていただけるかな」
「朱里、といいます」
「朱里か、良い名だ。いやはや自己紹介が遅れてすまない。私は識という。この霊山で軍師を務めている」
「軍師…」
「そうだ。きみの家族に連絡をと思い調べたんだがどうも身寄りが見つからない。ここは霊山内の医療研究施設だが、君の家だと思って暫くはここで暮らしてくれていい。困ったことがあったら遠慮なく言ってくれ。担当の医療隊員も定期的に君の様子を見に来る」
「…見ず知らずの方々に、こんなにも親切にして頂いて…ありがとうございます。感謝の言葉では足りません」
「はは、いいんだいいんだ。そう畏まらないで気を楽にしてくれたまえ。いきなり私のようなおじさんが訪ねてきて驚いただろう。ゆっくり休んで体力が戻ったら、また話をしよう」
識は立ち上がると丁寧に頭を下げる朱里ににこりと笑んで部屋を出た。後ろ手に戸を閉めれば、入口には、研究所の職員もとい部下が低頭し出迎えた。廊下を進み、執務室へと向かう識を部下は追う。ぎりぎりまで近づいてきた部下に識は訪ねた。
「本部の首尾はどうだ…」
「はい。識様の実験着手の申請は無事受理された模様です。陰陽方にも手配りは出来ております。存分にやれ、と」
「上々だ。これで心置きなくあの娘に構っていられる」
足早に進む識を部下は追いかけ尚も歩みを進めた。識の眼前には書類が差し出される。識は黙って受け取った。
「あの娘の身体検査の結果と、発見当時の調査報告書です」
「ご苦労。ところで薬は用意できたか」
「はい。…しかし、識様。記憶の無い者に自白剤が効くのかわかりません。過去の実例もありませんし…」
「効果は今直ぐでなくていい。少しずつ食事に混ぜておけ。…他言はするなよ」
「心得ました」
「娘の様子は逐一知らせろ。情緒不安定な時が一番、手懐けやすい」
「相変わらず…、お人が悪い…」
「ふん、余計なお世話だ。持ち場に戻れ」
「は、失礼致します」
自室に帰った識は、背もたれのある大きな椅子に身を投げた。そこから見えるのは、机、書棚、その手前に置かれた地球儀、そして壁に貼り付けられた中ツ国全図。見慣れた光景に何もおかしい所は無いのに、腹の底から自然と笑いがこみ上げていた。今は随分と満ち足りた気持ちだ。
保護した民間人の報告書など普段は目も通さないが、朱里の報告書は項目を順に追い一字一句眺めた。推定年齢、身長、体重、脈拍…。概ね被験体には申し分ない。識が構想を練る実験には、十分に耐えられそうだった。
時を超える戦士たちは、安定的に空間転移ができる仕組みと、その記憶抹消のためのカラクリ技術を数万年前に埋め込まれている。だとすれば、朱里の身体を詳しく検分し、これまで識が積み重ねた鬼門の研究と合わせ、応用しようと考えていたのだ。成功すれば、先の世だけの航行に限らず、時代、場所、時間を問わずまた的を絞った自由な航行が可能になる。
ともあれ、急いては事を仕損じるという。まずは朱里の信頼を得、懐に抱え込むことから始めねばなるまい。
娘の喜ぶものは何だろうか──。暫し思案したが、段々と考えるのが煩わしくなり、適当な装飾品を見繕うよう部下に命じた。
それから識は偽物の父性を働かせ、日々朱里の世話を焼いた。部下に揃えさせた巷の若い女が目移りしそうな品々を病室へ行く度に持参し、見舞いだと言って彼女へ贈った。だが朱里は恐縮するばかりで一向にそれらを受け取らない。目先の金品で動く上層部や陰陽方の連中の方がまだ何倍も扱いやすいことを知った。
朱里の体調は、記憶が戻らない事を除いては概ね体力も戻り、他人と同じく日常生活を送れるようになっていた。
識は朱里をよく散歩に誘った。他人の介入が無い一対一のやり取りは警戒心を解きやすい。なるだけ二人きりの時間を作り、研究所の庭をしばらく歩いて部屋に戻る。たったそれだけの事だったが、こちらの方がよっぽど装飾品より効果があった。
朱里は、珍しい草花を見つけては無邪気にも識の手を取りそちらへ連れて行く。感想を述べ、また識にもそれを請うのだ。共に何かを見、感じる。それが楽しいらしい。
今も、初めて見る野草を見つけじっと眺めていた。親しみを込め「識様」と見上げた朱里は、はにかんで「この花は何でしょう」と問う。問われれば答えねばならぬので、識も随分と草花の名を覚えさせられてしまった。だが、今日の識は花の名を答えず朱里の傍らに黙ってしゃがんだ。
朱里が着る常磐色の着物はよく似合う。夕焼けがさす真白い肌は透き通るほど美しい。小奇麗になった彼女は無感情な表情が豊かになり、近頃は益々器量よしと職員たちからも評判だ。あと二十年、己も若ければ随分ちょっかいを出していたかもしれない。
大きな目をくるりと瞬かせた朱里は、無言で己を見つめる識を不思議に思い首を傾げた。
以前は、散歩をするにも随分と距離を取って歩いていたものだが、朱里にとって識はやっと心を許せる相手となっている。識は目ざとくそれを感じ取っていた。
運ばれた当時から身の回りの世話を焼いてくれ、世の異形を排除する霊山軍師という職に就き、人々の生活を大小問わず守っている。朱里には「軍師識」という人間が、素晴らしく誇り高き人間に映っているのだ。
朱里は恩人に憂いを垣間見、識が思い悩んでいると思う様子だった。識は白々しく「どうした」と呟いた。
「いえ、その…。ご気分でも優れないのかと思いまして…」
まるで飼い犬が主を心配するが如く朱里は健気に気遣った。僅かに口角を上げた識はおもむろに彼女の頬に手を伸ばした。父親の様に、いや心底大切な人を案じる様子をまとい彼女を覗き込む。今の朱里は、識にいま一歩また寄り添おうとしているのが分かった。
開きかけた心の扉を、狡猾な識が見逃すはずもない。識はその隙間にするりと滑り込みもっともらしい科博を吐いた。
「こうして朱里と過ごしていることが嬉しいのだ。朱里も記憶が戻らないのはいつも不安だろう。周りは気にしなくてもいい。恐ろしいと思うなら、素直に恐ろしいと言っていいんだよ」
そう言って識は腕を広げた。
見知らぬ人々、知らぬ土地、果たして自分は何者なのか──。朱里は自問自答しない夜は無い。突き詰めれば突き詰めるほど、自分という存在が分からなくなってくる。
みるみるうちに顔を歪ませた朱里は迷わずその腕に飛び込んだ。背に回る壮年軍師の腕に支えられると、堰を切ったように堪えていたものを吐き出した。
「今は、二人だけだ。安心しなさい」
朱里は嗚咽が止まらなかった。識にあやされれば子供のように泣きじゃくった。長く耐えていた辛さや苦しさを吐露すれば、識は言葉が紡がれる度に頷いていた。不思議なことに朱里の胸のつかえは僅か四半刻ほどの間に、涙とともに流れ出ていた。
既に陽は山の後ろに隠れ辺りは薄暗くなりつつある。識は落ち着くまで彼女の頭を撫でた。ひとしきり泣いた朱里は鼻をすすり顔を上げる。識は笑みを浮かべた。
木の幹を背にし根元に腰掛けていた識は、朱里を支え少々きつい姿勢だ。今更ながらにそれに気づき、朱里は申し訳なさそうに体を離した。
「識様、すみません。辛い態勢で…」
「ははは、年寄り扱いはせぬ方が良いぞ。その辺の若いのにはまだまだ劣らぬ。軍師と言えどもモノノフなのだからな」
後ろから回された逞しい腕は、立ち上がろうとする朱里の体を引き寄せた。すっぽりと再び腕の中に収まると朱里の頬に識の吐息が掛かる。妙な気持ちが浮遊するようで、僅かな抵抗を試みたが居心地が良い。振り返らず固まっていると識は朱里の名を低く呟いた。
「実は…少し手伝って貰いたいことがあるのだ」
内容を問う間も無く識は続けた。
「お前にしか出来ぬことだ。考えてはくれないか?」
朱里が恩人を断る理由は何一つ無かった。体をよじり、識を正面に見つめ朱里は「はい」と首を縦にふった。
朱里を部屋へ送り、自室に戻った識は、積まれた書物の中から一冊引き抜き腰を下ろした。
表紙はかなり日に焼けている。目的の頁を開き今一度内容を確認した。霊山軍師として職務に励む傍ら、識は様々な文献を熟読し、この世をまっさらにするに相応しい鬼を探していたが、先日ようやく関連記述を見つけ出したのである。──追う文字列は「トキワノオロチ」数万年前の文明を終焉へと導いた鬼だ。この鬼は、現存するどの書物にも伝説或いは架空の鬼として記されている鬼だが、それは事実ではない。
なぜならトキワノオロチは、識が時間航行をする際、識と入れ替わりにその鬼門から出現し、識は逆にその鬼門へと突入したことでこの世へと辿り着いたからだ。識はいわば今世で唯一その鬼を見た生き証人なのである。
後に、トキワノオロチは戦士らによって封印され、それは今も日ノ本の何処かで密やかな眠りについているらしい。
先立った技術文明を滅ぼすほどの鬼だ。今世に現れれば、人は勿論その他の鬼も間違いなく塵と化すのは確実である。識は長い間、鬼門の研究同様大蛇の封印場所を探していた。そこへ朱里が現れた。大蛇の件も彼女を調べれば多少の情報が手に入るかもしれない。
識は彼女が研究室に来るのを心待ちにした。