落暉に燈episode.03

 小夜が九葉に引き取られて暫くが経った。
 広い屋敷の一室を充てがい、ほぼ本部の執務室で過ごす九葉に代わって女中のお咲がよく面倒を見てくれていた。塞ぎ込んでいた様子は徐々に薄れ、家事炊事を手伝うようになり、お咲を姉のように慕った。また九葉の不在が長期にわたると時折部下を自宅へ訪ねさせ、小夜の話し相手もさることながら彼女のミタマに色々と問いただした。小夜が周りに心を開くようになってから、ミタマはようやく口を聞いてくれるようになったのだ。ところが、彼女の宿すミタマの名を聞き九葉は心底驚いた。かの源義経だったからである。間違いなく小夜はモノノフだったのだろうが、偉人のミタマを宿しているともなれば余程の手練だったのではと部下たちも色めきだった。ただ、義経に小夜の過去や本当に複数のミタマを彼女は宿していたのかなど聞いてみたが、義経はそれらの質問に関しては一切口を割らなかった。 
 九葉はいよいよ決心が付き、モノノフのいろはを教え訓練生の試験を受けさせることにした。仕事は相変わらず忙しいことだったが、なるべく自宅へ帰るようにし、夜更けまで小夜の座学に付き合い、鬼丿府の成り立ちから現在までそして組織の役割等を教え、また時には共に鍛錬をした。記憶は無くなっていても、体は立ち回りを覚えていたのだろう。飲み込みは早く一挙手一投足、無駄な動きも隙きもない。
 九葉は彼女に一番相性の良い武器は何だろうと鍛冶屋へ出向きひとつひとつの武器の長所短所を教え、またよろず屋からは防具を一式見繕い揃えてやったりもした。
 そのはからいに応えるようにして、小夜は益々九葉を慕い、献身的になった。
 今朝、自宅から本部へ出向くところだった。九葉はいつも然程荷物を持たず出ていく。あっても、小銭入れやてぬぐいを懐にしまうくらいでほぼ手ぶらである。いつものように玄関に腰掛け、草履を履き立ち上がると、見送りに来た小夜は膝を付いて九葉に包みを差し出した。「何だ此れは」と尋ねると、お昼を作りましたので召し上がってくださいと言った。隣ではお咲がにこにこと笑みを浮かべているが、主人の得も言われぬ困惑の顔を見るやいなや、口に手を当て肩の震えを抑え込むのに必至である。どうにも小夜をけしかけたのはお咲であるのは明白だったが、悪い気はしなかった。小夜は、不安げに九葉を見上げている。折角の厚意だ。九葉は受け取りいってらっしゃいませと、その言葉を背に家を出た。
 秋晴れのさんさんと降り注ぐ陽光は眩しい。道中職務の段取り等考えていると、本日は夕刻より軍師会議だったことを思い出した。本部上層部から連絡があったのは昨日のことだ。月一度の定例会とは別の緊急招集とやらである。中つ国の外はよもや差し迫った情勢なのだろうかと思わざるを得ず、九葉はまたどんな無理難題を吹っかけられるかと思いながらも夕刻を迎えた。

 重厚な木製扉の両脇には、近衛が二人護衛で立っている。九葉を視界に入れると胸に手を当て敬礼をし、天井まである扉を押し開いた。鈍い音をさせ開かれた会議室には、樹齢何百年の樹木を挽き割ったのか、長大な一枚板の分厚い机が中央に配されている。椅子は軍師の数だけあり、既に別隊の軍師らが腰掛け談笑していた。会釈を交わすと他の面々は九葉を目の当たりに若干引きつった笑みで返し、声を潜めて会話を続けていた。それを尻目に九葉も自席につく。時間も近づき軍師が揃うと会議は始められた。今日の議長は軍師識だった。片眼鏡を整えた彼は勢揃いした軍師を見渡し、早速議題を呈した。
 九葉の予想通り、既に国の外は瘴気の波が押し寄せ、鬼の行動範囲は急速に広がり北の地はその歯牙に掛かり始めたという。何と鈍足な対応だろうと歯噛みした。この状況を把握するまでにこんなにも時間が掛かるものだろうか。神垣の巫女や念話官も千里眼を駆使すれば、すぐ周辺の里々に応援を頼めたはずである。
 識が、概要の説明を終えた時九葉は手を上げた。

「何かご質問かな。軍師九葉」
「軍師識、今の説明を聞く限りは、とりわけこの招集も遅いと思われる。早急に霊山から各里へモノノフを配備すべきではないのか」
「もちろん、そのつもりだ。何でも、九葉殿の隊はこのほど特務隊の編成を長老方より直々に賜ったと聞いている。良い報告を待っている」

 上座に立つ識が僅かに口角を上げるのを九葉は見逃さなかった。

「他に、質問のある者はいるかな…、無いようなら次の資料を御覧いただきたい」

 その日の会議は、どの軍師がどの前線に放たれるかを議論するに至るだけだった。数名の軍師は、軍功を求めていの一番に北に乗り込みますなどと宣っていたが、残りの兵糧、装備、物資の物流や、籠城となった場合の具体的な策は出ないまま、皆己の配備は極力霊山付近でありたいという願望が見え透いていた。何の為に軍師という役職を担っているのか、九葉は呆れてものも言えず周りの話をぼんやりと聞き流しながら、己が隊の戦力で最大の戦果を収める算段を考えた。 
 まずは何より特務隊の扱いである。この様な命名をされたならば、従来どおり組織の枠に囚われる事無く九葉は隊を動かしてしまえと思っていた。
 資料によれば、すでに人の世にも鬼は進行しつつあり、横浜辺りには餓鬼が数体目撃されているとの事だ。当然、これまでに鬼を見たことの無い人間は、ただただ化物と思うだろう。それがいかに混沌の渦の飛沫の一滴で有ることも分からないまま、たちまち大型鬼の出現を許せば辺りの酷い惨状は想像に難くない。
 これまで鬼丿府という組織は表舞台には決して出ることはなかった。それをよしとして居なかったのだ。表の人の世は、いつの時代も群雄割拠の波濤が押し寄せては引き、神垣の巫女をはじめ、鬼丿府の有する力が時代に干渉することを避けていたからである。
 しかし現状、表の世にまで侵食が始まっているともなれば、隠れる隠れないの問題ではなかった。いよいよ以て影法師の名を捨て、堂々と鬼討つ鬼として鋼を振りかざすほか、人の世をひいては中つ国を守る術は無い。
 ひとまず、第一陣の編成が満場一致で決まり、数日のうちに訓練生も総動員するとの結論に至って散会となった。
 既に夜半も近かった。席を立ち上がった軍師らは、扉の外で待っていたらしい部下を伴ってさっさと自室に戻っていく。資料を束ねた九葉も、会議室を出ようとした時、軍師識に呼び止められた。

「軍師九葉、近頃は里を点々としていると聞いていたが…、戻っていたのだな。中々顔も合わせずこれでも心配していたのだ。息災のようで何より。またこうして会議で会えて嬉しいよ」
「…軍師識、貴様も随分と研究熱心だと聞き及んでいる。実に── その働きには霊山君がお喜びになることだろうな。なにせ多額の投資をしているくらいだ」
「まあ、な。世の為人の為が、鬼丿府の使命というもの。当然の事だろう?」
「流石は軍師識だ。早々にその研究とやらで、鬼を一掃してくれることを期待している」

 九葉はとにかくこの男と長く話をしたくはなかった。識は言葉の端々から、他人の様子を機敏に読み取ることに長けている。九葉は踵を返そうとしたが、識は再び呼び止めた。「まだ何かあるのか」と、振り返ると識は顎に手をあて、わざとらしく天井を仰いだ。

「近頃また行き倒れを拾ったらしいな」
「私が拾ったものだ。私がどうしようと、お前には関係の無い事」
「勿論だとも、口出しする気はない。ただ、またお前の捨て駒になるのかと思ってな。先般の帰還時も随分と盛大な歓迎だったそうじゃぁないか」
「……。何とでも言え、余計なお世話だ」
「そうだな。おっと、もう日付も変わる。せいぜい、夜道には気をつけることだな、ではまた戦場で見えることを」
 
 識は杖をかつかつと鳴らし佇む九葉を嘲るようにして会議室を出ていった。まったくあの男は何を考えているのか分からなかった。世のため人のためと口にはしているが、その実、何かに囚われたかのような狂乱状態で鬼を弄り、かつては鬼丿府と敵対していた陰陽方に助力している。近づくに越したことはないが、いつもなら行き倒れの一人や二人拾っても然程興味を示さない識が、何故、今回ばかりは尋ねてきたのか妙である。識の研究内容に関する九葉の疑念は少しずつ大きくなっていた。恐らく、鬼だけをいじくり回しているのではないのかもしれない。ただ、今は、目前の危機への対処が先である。九葉はすぐさま自宅へ戻り、小夜に特務隊の件を伝えようと考えていた。
 執務室を出て、本部建屋の脇を通り帰路についた。月は細く長く月齢は浅かった。闇夜が濃く更に厚い雲がのさばり始めている様で、手元の提灯も出てきた風に吹かれ火は心もとない。
 道中小夜のことを考えた。
 暫くともに過ごす内に、親心とでも言うべきか何かと情は湧いてしまうものである。戦場に放り出してもいいものかと躊躇している己があった。記憶が無いのを良いことに、結局は識の言ったことはあながち間違っていないのかもしれない。九葉にとって任務の完遂が第一であり、これまでの武勲は幾人もの部下の屍に積み上げられたものである。小夜を伴っても尚、己は采配を血に濡らす覚悟はあるかと自問自答していた。
 小夜は確かに腕が立つし、実戦経験は乏しいが頭はよくきれ、戦場での判断力も申し分ないと思われた。しかし中々どうして娘一人にこんなにも頭を悩ませているとは、冷徹な軍師九葉もやはりただの人である。
 家までの道のりは然程ないが、九葉は考えを巡らせる内に歩幅を緩めていた。
 すると、ふと己の後ろをついてくる足音がかすかに聞こえる事に気づいた。九葉が歩みを進めると同じ様に砂の擦れる音が聞こえる。提灯を握る手に力が入った。誰の差し金だろうか。会議終わりの識の言葉が過った。九葉が不穏を感じ取ったことに気づいたのか、足音は九葉に合わすことはなくなり、次第に駆け足となる。九葉は懐に手を忍ばせ柄を握りしめ、咄嗟に振り返り抜いていた。「きゃっ」と小さな声と共に、人が倒れた。一気に汗が吹き出したが、提灯を近づけて九葉はあっけに取られていた。小夜だったのだ。「あたた…」と、尻もちをつく彼女の正面にしゃがみ込んだ。

「こんな処で何をしている」
「あの、九葉様の帰りが遅かったので、心配で。雨も降りそうでしたので、傘を持って迎えに上がろうとしたのですが…行き違いだったようで」

 すみません。と小夜は肩をすくめた。何者かが後を付けてきたのかと思っていたがとんだ見当違いだったようである。九葉は、小夜に手を差し出し引き上げてやった。困ったように笑った小夜は不思議そうに九葉が手にする懐刀を見つめている。九葉は事もなげにそれを仕舞うと小夜から傘を受け取った。
 小夜は今日の鍛錬の報告を九葉に聞かせた。部下たちが練習相手になってくれたようで、間合いのとり方、念話官との意思の疎通の仕方等、実戦形式での鍛錬が主だったらしい。ひとつずつこなせるようになったと、嬉しそうに話す小夜に九葉は黙って耳を傾けていた。
 自宅に着くと、九葉は彼女を自室に呼び、先刻での会議の内容を掻い摘んで話しをした。鬼のこと、特務隊の長期遠征が控えていること、加えて九葉は小夜に尋ねたのだ。お前はどうしたいかと。聞くまでもなく彼女の答えは分かりきっていた。それを知っていた上で今一度確かめたかったのだ。「私は九葉様にお供します」とその返事を聞いた時は、何と残酷なのだろうと思った。当初、小夜を拾った時の九葉の計画とは全く変わりはないのに嬉しい言葉に反して心は矛盾している。九葉は「旅支度を整えておけ」と告げると、彼女はうやうやしく三つ指をついてかしこまりました。と頭を下げた。

 特務隊の編成が公になると、霊山の人々が敏感にならない訳がなかった。しかもその指揮官が軍師九葉ともなれば鬼の驚異はすぐ手前まできているのだと方方で噂された。更には、北の地では天にまで登る巨大な塔が突如として出現し、そこから大小の鬼が絶え間なく溢れ出る事態となり収集がつかなくなっていたのだ。第一陣として霊山から放たれた討伐隊は全滅、北の里も生存者の救出はままならず事態は急変し、各地で鬼の出現が確認され益々の不安を煽っていた。鬼の南下により特務隊への出撃要請には然程時間を要さなかった。

 烏の羽をあしらった黒い隊服を身に着けた九葉隊の一向は、一路横浜を目指し霊山を出立した。

 この日、表の世の元号は明治、鬼神暦は千年。黒船来航から西洋化の一途を辿っていた日ノ本は、都市部の明かりはガス灯へと代わり、軍拡に伴い港湾の武装は刀弓に取って代わり大砲や銃が配備されていた。しかし旧幕府を押さえつけた威力のある飛び道具を持ってしても、その化物たちには全く刃が立たず、太刀打ちできなかった。
 月の映える波も凪いだ夜、一艘の帆船が沖合いに停泊していた。何らかの異様に気づいたのは甲板で作業中だった水夫だ。暗がりに目を凝らし、仲間に「おい!あれはなんだ!」と言う間もなく、牙をむき出しにした四足の化物が鷹を思わせる速さで水面を駆けてきたかと思えば、その引き裂かれたような口から巨大な光を船に向かって吐き出したのだ。あっという間に船体は中央からひしゃげ、光に巻き込まれた船員らは黒々と溶け、船の残骸と共に海底へと沈み船は炎上した。それを皮切りに、空には無数の巨大な鳥の化物が姿を表し、甲高い鳴き声を放ったかと思えば、道端には人の子程の異形がぞろぞろと姿を表し、眠りにつこうとしていた町は人々の悲鳴と、鬼の咆哮で阿鼻叫喚と化した。駆けつけた水兵たちは可能な限りの応戦を試みるも、その化け物たちに手持ちの武器ではかすり傷すら付けることはできず、立ち向かった者は踏み潰され、食われ、煉瓦の壁や瓦屋根には人の部位と肉か血かも分からないものが撒き散らされる酷い惨状となっていた。
 そこに降り立ったのは、軍師九葉率いる特務隊である。鼻上まで深く被った兜越しに見えた凄惨な町並みに、小夜も足がすくみそうだった。念話官を通じて、九葉の声が耳に届く。大きく深呼吸をして、眼下に広がる火の海に一斉に飛び込んだ。皆々、己が得物で荒れ狂う鬼を次々と地へ伏せていく。一体、また一体と討っても討っても、鬼の勢いは衰えず、ヒダルの腹を割いた処で再び念話官から「象の鼻へ行け」と小夜に指示があった。その後すぐに九葉へ繋がった。

「小夜、聞こえているか」
「はい、九葉様」
「新手の鬼が現れた。シンラゴウと呼称している。紫色の巨大な拳を持つ鬼だ。象の鼻で討ち取れ。援護させるよう他の隊員を回した」
「かしこまりました。お任せ下さい」
「油断はするな」
「承知しました。あの……九葉様」
「なんだ」
「横浜から帰ったら、枕ちゃんと作りますね。そしたら、」

 言葉を続けようとした時、突如混濁した黒い穴からシンラゴウが現れた。太い拳を縦横無尽に振り回し、それを叩きつけた地面からは炎の柱が渦を巻いて立ち上がっている。今この場にいるのは小夜一人だ。援護がくることを信じて、攻撃を浴びせ続けた。足を、手を、ひたすらに表層の部分を剥がしていく。やっとむき出しになった時、シンラゴウはまたたく間に消滅してしまった。小夜は我が目を疑った。今の今まで戦っていたのに、辺りはしんと静まり返っている。炎に包まれた瓦礫が音を立てて崩れた。慌てて武器を構えると、目の前には九葉が隊員たちを連れて居た。念話官がしきりに九葉に戻れと言っているのが聞こえた。

「九葉様…。鬼が、、」
「逃げたのか」
「一体何が起こったのか…ついさっきまでここに居たんですが、申し訳ありません…」
「まだその辺りに潜んでいるやもしれん。警戒を怠るな。おい、近辺を哨戒しておけ」

 九葉は命じると、隊員は場を離れ路地や瓦礫の間、接岸している船の中など調べに入った。応援も間もなく合流し、シンラゴウ消失の原因が何なのか皆首を傾げている。小夜も皆に混じろうとした時、九葉に呼ばれた。

「小夜、大事ないか」
「大丈夫ですよ」

 笑みを見せると口の端が僅かにきりと痛んだ。飛んできた硝子の破片か何かで傷ができたらしい。手を当て確かめようとすると、いつの間にか九葉は手袋を取って小夜の兜を少し上にずらすと傷を親指でなぞっていた。目を見開いて見つめると、九葉は愛おしそうに僅かながらに憂いを含んだ表情だ。頬に手を添えられたまま、まじまじと見つめられれば顔は徐々に熱を持った。

「そういえば、先程なにか言いかけていたな」
「ええと…」

 枕の話だ。まだ出立する前、なかなか寝付きが悪いので九葉は新しい枕が欲しいと零していた。それには、青い羽毛という珍しい羽が必要で、この程遠征中にようやく鬼からその羽毛を拝借したのである。あまりの嬉しさ故に何度も隊員らに羽を見せ確かめたので間違いなかった。
 無事に枕の材料が揃ったことを伝えようとした時、急に空が曇り始め稲妻が走った。厚い曇天は雷鳴を溜め込み巨大な渦を巻いている。先程まで紺碧の高い空だったが、低く覆われた急な天候の降り様に隊員たちも皆空を見上げていた。するとその雲間から、ぬっと大蛇が顔を出したではないか。それも一体ではない、二体、三体と現れ右に左にとくねらせ、おぞましい唸り声を上げている。「なんだあれは」と、あまり動揺を見せぬ九葉もこの時ばかりは違った。隊員たちは得物に手を掛け腰を落とし臨戦態勢に入る。その時、一匹の大蛇の口が開いたかと思うと閃光が走り、地面に亀裂を作って周りの瓦礫は更に粉砕した。ところが有ろう事か、壁や屋根の残骸は雲の渦中に吸い込まれるようにして、宙に浮き始めたのだ。呆気にとられていると途端、小夜も足が地面から浮き、背からつまみ上げられるようにして浮遊していた。咄嗟に九葉の手を取ろうとしたが、空に吸い込まれる力が大きく指先は僅かに触れただけだった。

「九葉様!」

 誰も彼も目の前で起こっていることが信じられなかった。九葉は手を伸ばすが小夜へは届かず空を掴み、小夜は更に高く曇天へと飲まれていく。大蛇は再び雲に隠れたが、周囲の物もあらかた飲みこんで象の鼻は閑散とした。
 小夜が消え、皆しばし呆然としていた。消えたシンラゴウといい何かがおかしい。しかし今しがた起きた現象を考える暇は与えられなかった。再び鬼の猛攻に襲われ特務隊は戦線死守に追われたのである。第一波を退けたつもりでいたが、第二波、第三波と、水平線を埋め尽くさんばかりの鬼は絶え間なく怒涛の如く押し寄せ、負傷する隊員の救護も、他部隊の応援にも手が回らない状況となり、終わってみれば横浜防衛戦は軍師九葉ただ一人を除いて隊は全滅した。

 一人になった九葉は、最後に小夜と別れた場所で空を見上げた。今に彼女がまた空から現れやしないかと普段では思わないような馬鹿なことを考えたのだ。そうは問屋が下ろすわけもない。ただこの空虚な気持ちは何物にも変え難かった。僅かではあっても小夜と過ごした月日に満たされていたことには変わりない。とはいえ、もう彼女は居ない。感傷に浸っている場合ではなかった。今も別の場所ではモノノフたちが必死になって鬼と戦い命を削っているのだ。今九葉の成すべきことは、霊山に戻り戦況を報告することである。己の本分を忘れてはならなかった。

 今一度己を奮い立たせ一歩を踏みだした時、九葉の足元は不思議な光で照らされていた。