第一章
25.還らぬ光陰

 本部の一画にある書庫。年季の入った厚い一枚板の机の上には、秋水が研究している鬼々の関連書物や霊山の資料が無造作に置かれている。
 いささかツンと黴臭いそれらの本は、北の地出身である秋水が当時、鬼ノ府拠点より引き上げてきたものがほとんどだった。
 現在、鬼ノ府の拠点は中つ国にひとつだけだが、かつては北の地にもその拠点があった。
 中つ国同様、里がいくつも点在し鬼の活動が今ほど活発でなかった頃は人の往来もあり、北方特産の薬草茶や生薬などが頻繁に手に入ったそうだ。しかし、八年前のオオマガドキで北の地は鬼の襲撃により陥落してしまった。正確に言えば、中つ国の要である霊山を守るため、前線の拠点をやむを得ず放棄し、戦力を中枢へ注いだが故に、北の地へ増援部隊が派遣できなかったからである。
 拠点の放棄は当時霊山にとっても苦渋の選択だったが、その判断を下したのは霊山軍師として名高い「九葉」という人物が北の地の放棄を進言したのだという。幾度となく救う手立てはないかと軍師会議が開かれたが、作戦が覆されることはなかった。
 各地方で戦線がジリジリと後退し、徐々に霊山へと鬼の歯牙が迫り来る中、北方へは次第に食料や物資も輸送できない状況が続き、ほぼ籠城のような様相を呈していた。援軍の到着も見込めぬまま明けても暮れても鬼の咆哮は轟き、物陰に隠れ息を潜めても地響きは死の恐怖をまざまざと突きつけてくる。孤立無援となった狭い居住区にはただ死を待つだけの人々が取り残された。巫女の祈祷も虚しく結界は終ぞ破れ、かろうじて脱出した者も居たが生存者はごく僅かだった。

 ── その北の生き残りの一人が秋水だ。

 霊山の研究員として秋水がウタカタの里へ派遣されると通達があった際、大和はこのような最前線のウタカタへ事務方の人間を遣す霊山の思惑が何なのか検討がつかなかった。前線に送り込むなら実戦部隊のモノノフと相場は決まっているが…秋水は優秀な分析官ではあるが戦闘員ではない。勿論鬼の動向や出没場所の予測など、幾度も彼には助けられていた。真意を見極めるためにこれまで泳がせておいた大和だったが、いよいよそうも言っていられない状況になった。
 速鳥、桜花の活躍もあり、クナトサエとヤトノヌシという瘴気や結界を強固なものにしていた大型鬼たちを排除したことによって、オオマガドキを抑える道筋が見え始め、いざ次の作戦を練ろうと本部に集められた旭陽たちだったが、大和は秋水に「さあ、話してもらおうか…」と疑いを含むように告げたのだ。
 てっきり大和から作戦の段取りが告げられるかと思いきや、その一言で場はいぶかしみ、誰も何も発しない。旭陽は視線を行ったり来たりと左右に流す。初穂と目が合うも彼女も大和が何をs言い出したのか、その理由がわからない様子だった。 眼鏡をくいと上げた秋水は、草臥れた本を見開いて深くため息をついた。

「流石はお頭、なんとなくは、わかっていた様子といった所でしょうか…?」

 腕を組み、大和は「まあな」と言葉が少ない。目を細めた秋水は若干の含み笑いをしてこう言った。

「僕は、霊山のとある組織で長老方の駒遣いとしてウタカタへやってきました。研究員という名目であなた方を監視するために、です。ぼくの勤めは逐一上へ報告することだったのですが…
 これまで多くの大型鬼が出現しているにも関わらず、一心不乱に、直向きに討伐し続ける ── そのモノノフ精神には驚かされてばかりです。 そんな心身を削り人の世のために奮闘する皆さんへ、ひとつ良い提案があります」

 ── 過去を取り戻せるとしたら、過去を変えられるとしたら、興味はありませんか…?

 秋水の言葉が空気を震わせたその瞬間、場の静寂が深まった。風ひとつ吹かぬ静謐の中で、誰もすぐには口を開こうとはしなかった。

 桜花は、伏せた目の奥で、橘花の笑顔とかつてともに戦った仲間顔を思い出していた。無念を残して散った者たちの姿が脳裏に去来し、拳が強く握られている。何年も渦を巻いて空を覆う曇天を1日も早く切り開いて、橘花へ澄んだ空を見せてあげたいとも思う。「過去を……取り戻すことができたなら、、、、」そんな淡い期待が胸の奥に沈んでいく。

 息吹は、冗談のひとつも言わずに黙っていた。胸に下がった柘の櫛に視線を落とし指を滑らした。自らの力では守れなかったもの。必死に掬い上げても指の間からこぼれ落ちてしまったもの。その記憶が、いつも陽気な彼の横顔に影を落としていた。

 那木は、目を細め、秋水の真意を探るようにじっと見つめていた。その瞳には、冷静な判断をしなければという思いと、否応なく湧き上がる「もしも」の想いがせめぎ合っていた。過去に戻るという行為が危うさを孕んでいることも、世のことわりへの背徳だと知りつつも、救えた数多の命への執着も捨てきれない。ギュッと目を閉じれば友の顔が笑いかけている。

 富嶽は腕を組んだまま、唸るような、声にならないため息を漏らした。思慮深くはないかもしれないが、彼にだって忘れられない顔はある。あのとき護り切れなかった幼く澄んだ瞳。無力だったあの日に、もう一度向き合えるのなら、今の己になら或いは、と、たらればの自問自答をしてしまう。無意識に手甲の中に手を伸ばし双子石に触れていた。

 初穂は、俯き、強く目を閉じた。四十年前、今は亡き家族と当たり前だと思っていた日常をこのウタカタで過ごしていた。今思い出すだけでも温かな気持ちになる。再び里へ戻りはしたものの、両親にお別れも言えぬままに里は変わってしまった。もし過去に戻ることができたのなら、本当はもう少し父に、母に、わがままを言って甘えたりもしたい、、お父さん、お母さん、と縋りたい思いが喉元に絡まった。

 大和は、全員の顔を順に見渡していた。秋水の放った言葉は間違いなく若者たちを揺れ動かしていた。胸に去来する逡巡や、過去への想いを静かに受け止めているようだった。そして彼自身も、言葉には出さずとも、亡き妻を思い浮かべていた。あの日、もっと何かできたのではないかという後悔は、今も胸の奥に小さく灯り続けている。そっと受付にいる木綿を見遣った。本部の仕事を任せられるまでに木綿は立派になった。笑顔を絶やさず直向きに務める様を脳裏に思い浮かべなんとか気概を保った。

 秋水の問いかけは、ただの夢物語ではなかった。過去が、現実として手の届く先にあるのだとしたら ──。

 心の奥底に沈めたはずの願いが、ひとり、またひとりと、静かに水面に浮かび上がってくる。火の粉が舞うように、誰もが揺れていた。が、口火を切ったのは初穂だった。

 「……私は、正直、戻りたいと思った。」

 ぽつりと零した声は、思いのほか真剣で、しかし、どこか柔らかさを帯びていた。

 「だって、昔って、楽しかったし……お父さんもお母さんもみんな一緒にいて、笑ってて、安心できて。。あの頃が続けばいいのにって、ずっと思ってたもの」

 思い出を語る初穂の目はどこか遠く、過ぎ去った日々を懐かしんでいるようだった。だが、その表情がふっと緩んだ。

 「でもね、それと同じくらい、今のウタカタも、私はすっごく大切なんだ。桜花も、那木も、富嶽も、息吹も、速鳥も……橘花も、そして大和、お頭も……。辛いことも、悲しいことも、いっぱいあったけど、それでも今のウタカタが好きだよ。すっごく好き。」

 もちろん旭陽もね!と、言い切ったその声には、揺るぎない強さがあった。

 「だから私は、昔も、今も、どっちも守りたい。どっちかじゃなくて、全部。……ぜーんぶ、大切なの」

 その言葉に、誰もが息を呑み、静かに柱に寄りかかっていた速鳥は僅かに目を伏せた。
 かつて、己の名すら持たぬまま、ただ“影”として生きていた時代がある。ある姫の命を狙い、その命令に疑念も情も抱かぬまま、闇夜を駆けた。裏切りと隠密の中に身を置き、誰に褒められることもなく、誰にも名を呼ばれることなく── ただ生かされ、ただ人を殺めるために生きていた。
 あの頃に戻るというのなら、それは再び"己という器"を捨て、ただの道具に戻るということだ。
 秋水の言葉が差し出したものは、過去の「やり直し」だ。だが、それは速鳥にとって、過去を懐かしむ甘い響きではない。

 ── 自分は戻って、何になる?

 彼の胸に浮かぶのは、今、名を呼んでくれる者たちの顔だった。戦場では無用な情と知りながらも、いつからかウタカタの仲間を、旭陽を思う自分がいる。
 富嶽の豪快さに眉をひそめ、初穂や息吹の言い合いや軽口に苦笑いをし、桜花の芯の強さや那木の聡明さと優しき心に敬意を抱く自分がいる。そして、何よりもその皆と肩を並べ、命を賭して鬼を討つ、そんな「今」を選んだ自分がいる。それは大和が手を差し伸べてくれたからだ。
 速鳥の心は ──揺れなかった。
 ただ静かに、かつての記憶の扉を開かぬよう、音もなく閉じた。

 「…自分は、自分も初穂殿と同意見だ」

 桜花が目を伏せて頷き、那木は静かに目を閉じた。富嶽は照れくさそうに鼻を鳴らし、息吹は不意に真面目な顔で呟いた。

「まったく、お子様の割りには、一丁前のこと言ってくれたな……でも、そうだな。俺も、速鳥と同じくだ」
「おうよ、乗りかかった船だしな」

 乗りかかった船、富嶽の言葉に旭陽はそうだな、と自分を納得させつつも現代の生活に戻りたいという気持ちが無いわけでは無かった。正直なところ、なぜこの世界に自分が投じられたのか今も全く不明だ。未だ戻れる手がかりすらもつかめていない。ただ、分かっているのは、鬼は時間や歴史を歪める原因を作り出しているかもしれないということだった。旭陽があの橙色の実のなる御神木の社から飛び出してきたのは、住宅街の神社へホロウを追いかけ、虹色の渦の中に吸い込まれた所から始まった。それもこれも、、得体の知れない腕の長いバケモノが原因だというのはなんとなくだが想像できた。あれはきっと鬼だったのだ。いつかその鬼と相見えることができるかもしれないと、一歩、一歩これまで進んできた。本音は戻りたい。だが今更引き返すことは、これまでの旭陽の奮闘も皆からの激励も無かったことになってしまう。
 それぞれの決心が一つにまとまり始めた。そのとき、秋水はふと一歩だけ後ろへ引いた。誰よりも冷静に状況を見つめ、塔の在り様を知る者であるはずの彼が、まるで蚊帳の外にいるような、微かに寂しげな表情を浮かべているようにも見える。
 人知れず俯いたその視線の先で、机の上に置かれた秋水の本が風にそよぎ、頁がぱらぱらと捲れていった。本部の入り口から吹き上がるような風が、彼の髪をかすかに揺らした。
 仲間たちが声を重ね、前へ進む意志を固めていくなかで、秋水はぽつりと呟いた。

 「……あなた方なら、そう言うと思いました。── まったく、変わった人たちだ」

 その声は、確かにその胸の奥にあったのは、感嘆とも羨望とも言い難いものだった。
 ウタカタの彼らは、過去を惜しみながらも、今という時間を大切にし、なお未来へと足を伸ばそうとしている。もし ──北の地にも、彼らのような者たちがいたならば。あるいは、歴史の歯車は違う回り方をしていたのだろうか。そんな思いが、ほんの一瞬、秋水の心を掠めた。

 「秋水、君が知っていることで、わたしたちが備えられることがあるなら、教えてほしい。必ず、無駄にはしない ──」

 桜花、初穂、息吹、那木、富嶽、速鳥。次々に皆が真剣な眼差しを向ける。
 秋水は一度目を伏せたのち、ゆっくりと顔を上げた。

 「お前が頼りだ…。塔への案内を頼む」

 大和はゆっくりと頷き、秋水に託した。