第一章
18.人成らざる?

 雲一つない晴天。外回りの任務では「晴れ」というのは実に重要だ。得に今日の様に然程暑くも無く、湿度も程よく、風も心地よいとなれば、気力体力の消費は最小限に抑えられるというものである。だが、今の旭陽にとってこの心地よい陽射しは少々拷問にでもあっている気分だった ──
 いつも通り本部へ赴くと、受付では木綿と初穂が談笑をしていた。振り向いた初穂は「おはよう!」と笑みを見せるも、旭陽を視界に入れるなりみるみる内に深刻そうな表情へと変わった。

「ちょっとどうしたの?!その目の下の隈っ!」

 初穂の後ろから顔を覗かせた木綿も驚いていた。それもそのはずだ。旭陽の顔は夜勤明け以上に疲労が蓄積したような様子で、弓なりになった濃い隈は重たそうな眼に押し潰されんばかりだったのだ。
 旭陽は眠気からか二人が霞むように映っていた。

「旭陽さん、もしかしてまだ体調万全じゃないんじゃないんですか?無理しちゃ駄目ですよ…」

 足元がふらついた旭陽を心配し、木綿が受付から出てようとした。旭陽は胸の前に手を伸ばした。

「だ、大丈夫、大丈夫なんですっ!本当にただの寝不足で!最近なかなか寝付けなくて…あはは、はは」

 訝しむ初穂は腕を組み、「全然っそうは見えないんだけど?!」と詰め寄った。旭陽は何度も首を振るがしかし、いつの間にか夜勤明けの富嶽が後ろに仁王立ちしていた事で、やむ無くここ何日かの奇妙な出来事を話さざるを得なくなった。

 きっかけは初穂と那木そして息吹の四人で蛍を見に行った晩に遡る。池からの帰り、ふいに聞こえた少女の声はどうにも旭陽の幻聴では無かったらしく、以来、毎晩のように少女の声が聞こえるようになっていた。か細い声は哀願あるもので、夢にまで「たすけて」と悲しそうな声が聞こえてくる。最初は気のせいだと思い込んでいたが、このところ頻度が増していた。
 己の知らぬ間にミタマが宿ってしまったのかとも思い自身の英霊たちに問うも、皆ミタマでは無いと言い、全く分からないという。
 そもそも異形が蔓延るこの世界では何が起こっても不思議ではないが、夜中に用を足すにも億劫なほどなのだ。実態のない何かが見えたり聞こえたりするのは、幽霊の類を想像してしまい旭陽はどうしても口にするのが憚られ今に至るのである。
 話し終わった旭陽は俯いた。子供でもあるまいに、自分でもどうかしていると思う。それでも三人は黙って聞いていた。
 ううん…。と顎に手を当てていた初穂は口を開いた。

「私も詳しいことはわからないけど、それって本当に幽霊の類なのかイマイチわからないわね。一度橘花に相談してみるといいんじゃないかしら」
「橘花さんに?」

 困り顔だった木綿も「それは名案ですね」と言う。橘花ならそういう不思議な現象について心得があるかもしれないとのことだ。初穂は、今晩岩屋戸へ付き添ってくれることになった。
 「本当にもう!こう言う事はもうちょっと早く言いなさいよね!」とむくれる初穂を木綿は宥め、旭陽は気を取り直した。これで不安も不眠も解消されると良い。ほっとしたのか思わずあくびが出そうになる。手で顔半分を覆うと傍らでだんまりとしていた富嶽が「ったく、」と旭陽を小突いた。

「てめえは家帰って寝てた方がいいんじゃねえのか」
「そうかもしれませんが…人不足ですし、それに休むとまたたすけてって言われてどっちにしろ眠れないです…。そ、そうだ。なんなら夜勤明けの富嶽さんに添い寝しましょうか?なんちゃってー」
「何言ってやがる!」
「…照れてます?」
「あのなあ、てめえみてえな幼児体型に息上がっちまう奴が居たらお目に掛かりてえもんだ」
「は…っ!よ、幼児体型…?!やっぱり、この間禊場でエンカウントしたの!み、見ましたね!富嶽さんのえっち!」
「おうおう、分けわからねえ外国語まで使いやがって全然調子いいじゃねえか!しっかり働いてきやがれ!」

 富嶽が軽い手刀を繰り出すもすかさず旭陽は避けた。が、思うように動けず体はぐらついた。前方に倒れ込みそうになる旭陽の体を、富嶽は正面から受け止める。ぶへっと色気のない声と共に謝罪の言葉を述べると、富嶽の腰元から何かがごろりと転がっていくのが見えた。音の止まった方を視線で追い、辿った先には瑠璃色の石が転がっている。驚いたことにその石は自発的に青く発光していた。旭陽を正面に受け止めた富嶽は背を向けているせいでそれに気がつかない。逞しい腕をすり抜けた旭陽は、石を手に取り富嶽へ差し出した。

「富嶽さんこれ落ちましたよ。この石すごいですね…初めて見ました。異界のものなんですか?」

 木綿や初穂もわあと感嘆の声を上げ興味津々だ。長年ウタカタに住む二人も初めて見るらしい。しかし、旭陽から石を受け取った富嶽は、自身の物だというのに酷く驚いている様子だった。暫く眺めていたが、今度は面を取り替えたかのようにしかめっ面になると、隠すようにしてさっと手甲の中に石をしまった。初穂が残念そうに眉を下げている。

「わりいな、大事なもんなんでな」
「富嶽のけちー。ところで旭陽、本当に任務行って大丈夫なの?」
「うん。外歩けば眠気は飛ぶかも」
「何かあったら初穂お姉さんに直ぐ言いなさいよ。まったくいっつも我慢してるんだから」
「ありがとう。じゃ、木綿さん富嶽さんいってきますっ!」
「おう、行って来い」
「お気をつけて!」

 旭陽と初穂を見送り、木綿も自身の仕事に手をつけ始めた。霊山から送られてきた書類や、隊員たちからの報告書が山積みだ。仕分けし取りまとめたそれらを大和の元へ持って行く為抱えると、富嶽は今だにお役目処からの出口、旭陽と初穂が出ていった方角をじっと見つめていた。いつもは任務が終わるとさっさと帰宅するが珍しい。

「富嶽さん?どうかされました?」
「ん?ああいや…。あいつら賑やか過ぎるなと思ってよ。うるせえなぁ…ったくよ」
「ふふふ。先日の夢煩いの一件から旭陽さんも初穂さんも一層仲良くなった感じがします。そうそう今度私たち三人で新作のお菓子食べ歩きしようって約束してるんです」
「へえ…。あんま食いすぎて腹壊すんじゃねえぞ。んじゃあな」
「はい、夜間任務お疲れ様でした」

 そう言って木綿に背を向けた富嶽だったが、またぴたりと止まったかと思うと「あのよ」と木綿に背を向けたまま口を開いた。首を傾げ、木綿は無意識のうちに抱える書類に力が入っていた。

「最近、空を飛ぶ羽つきの鬼を見たって報告は上がってるか」
「空を飛ぶ…鬼ですか?ええと、随分前に里に飛来したヒノマガドリ以降、そういった報告はなかったと思います」
「そうか、ならいい。邪魔して悪かったな」

 木綿は調べることがあれば請け負いますよ!と大きな背に投げかけるも、富嶽は振り向かず木綿に手を振り本部を出ていった。

 ・

 それから任を終えた旭陽と初穂は、夕方過ぎに橘花のもとを訪ねた。
 橘花が普段寝食し祈祷を行う建物が岩屋戸と呼ばれている。旭陽は知っては居たものの、中に入るのは初めてだ。
 岩屋戸は本部と同じくらい高く積まれた石垣の上に乗っかる立派な朱色の建屋だ。何本もの太い柱は重厚な屋根を支え、里の中では一番に頑丈そうな造りをしていた。長い階段を上ると、護衛役である近衛が門の両脇に立っている。初穂は既に話を通してくれていたらしく、一言告げると近衛は門を開けてくれた。潜れば、白い砂利が敷き詰められた見事な中庭が広がっていた。砂紋を縫うように置かれた敷石を辿り奥へ行こうとすると、社務所のような建屋の前に見慣れた上官の姿と、里のもう一人の巫女の姿があった。初穂が手を振ると桜花は応えた。

「待っていたぞ。樒にも声を掛けておいたんだ」
「…後学のため、いろいろと」
「樒さん、ありがとうございます」
「さあ行こうか。橘花の部屋は本殿の一番奥だ」

 廊下では様々な役人とすれ違った。本部では見たことのないモノノフも多かった。桜花曰く職務上岩屋戸の中だけで働く職員も多いらしい。
 桜花に案内され一行は部屋へ到着した。声を掛けると、中からは橘花が待っていましたと嬉しそうに襖を開けてくれた。日頃尋ねてくるのは桜花だけで、大和でさえも来る事は稀であるという。
 部屋の机には、菓子類が盆の上に盛られ囲炉裏の辺りには既に茶の用意がなされてあった。初穂お気に入りの甘味屋の菓子があり、初穂は目の色が変わっている。
 少々申し訳なさそうに橘花は俯いていた。

「す、すみません。旭陽さんが相談があると伺ってはいたのですが、皆さんが来られるというので、嬉しくてつい…」
「まあ…とにかく、話を聞こうか。旭陽」

 各々思い思いの場所に座すと旭陽は木綿と初穂に話したことを、橘花、桜花、そして樒に話した。もちろんミタマに相談したことも告げると橘花は真剣な顔つきで目を細めた。

「ミタマが分からないというのは…、その理由は考えられなくもありません」

 樒は橘花に同意すると、ゆっくり頷いた。

「…ミタマは死者の声を聞ける。だけど、それは成仏した死者の魂だけ。その魂は生者と同じように穏やかなもの」
「そうです。ですから、ミタマが旭陽さんの聞いた声が分からないという事はつまり、成仏できていない、或いは何らかの理由で出来ない魂の声が旭陽さんに聞こえているのでは無いでしょうか…」
「…旭陽、あなたは数多のミタマの声が聞こえる。それ故に色んな魂の声を聞く素質があると思う」

 橘花と樒の言葉に、湯呑みに口をつけていた初穂は顔がこわばっていた。

「成仏できないって、それって…つまり、幽霊?!」
「そうとも取れるが、幽霊というよりはこの場合…」

 目配せした桜花に橘花はしっかりと答えた。

「姉さまの推察通り、鬼に食われて成仏できず、いまだ浮世に縛り付けられている人の魂の可能性が大きいと思います」

 橘花の言うことが本当だとすれば、嫌な予感と共に背筋に悪寒が走った。見知らぬ少女の声は日に日に回数も多くなり、靄がかかったような言葉端だったのが、最近は鮮明に聞こえるようになっている。そう答えると橘花は険しい様子で更に続けた。

「たすけて、という言葉の本意はよくわかりませんが、恐らく救い出して欲しいのは間違いありません…」
「あの、橘花さん。仮にその食べられた鬼を討つことで声の主が救われるなら…、その鬼はどうやったら見つけられますか?」
「旭陽…」

 桜花が心配そうな顔を向けた。

「…最近声の聞こえる頻度が増しているんです。里に鬼が現れるとも限りません。それに、正直なところこれ以上寝不足なのは困るというのもあります…」
「そうだな。一番は捜索しかないんだが…。ミズチメの時と違って旭陽にしか手がかりが分からないというのはかなり厄介だ」

 するとまんじゅうを飲み込んだ初穂が答えた。

「そうね。捜索隊をいくつも作って分担する事ができないもの…。何かいい方法は無いかしら」
「とにかく鬼が一枚噛んでいるかもしれない事が分かっただけでもよしとしよう。対策は打てるんだ。早速明日お頭に相談するしかないな」
「姉さま、旭陽さん、声の聞こえる頻度が多くなっているのは気になります。くれぐれも気をつけて下さい」
「わかった。注意しておこう」
「はい、橘花さん」

 意外にもすんなりと幻聴と思われていた原因が分かり、旭陽はようやく胸をなでおろした心地だった。その晩は少し橘花の部屋で談笑をした後お開きとなった。
 岩屋戸を出るととっぷりと陽は落ち、薄闇に包まれる里は温かい明かりが灯っていた。
 見回りの隊員や仕事を終えた者らとすれ違い、初穂と樒と別れた後、旭陽も自宅への帰路を辿っていた。よろずやの主人も営業を終え、店を後にするところだ。会釈を交わし自宅を目指そうとしたが、その脇にある里の掲示板の前に見慣れた後ろ姿が目に入った。じっと掲示物に睨みを効かせているのは富嶽だ。薄暗い中で、その文字は見え辛い筈だが一体何を真剣に眺めているのか…。当然富嶽は旭陽に気が付かない。旭陽はそっと近づいた。

「富ー嶽ーさんっ!」
「うおっ!なんだ!てめえか…。ったく驚かすんじゃねえ!!」
「こんな暗い中で何見てるんですか?」

 そう聞いた旭陽だったが、富嶽が手にする物に一気に目を奪われた。昼間、本部で落とした青い石が一層眩しく光り無骨な手のひらに収まっている。一瞬、富嶽はまた手甲に押込もうとしたが、今度はしまうこと無く、その代わり片方の手はがっしりと旭陽の肩を掴んでいた。

「おい、昼間妙な声が聞こえるとか言ってたな。どの方角から聞こえる、どのくらいの近さだ、他にはなにか言ってねえか…?」

 肩には力が入っていた。切羽詰まるような問いに旭陽は驚いた。暗がりの中でもその表情はよく分かる。狼狽える様な…いや、焦りと苦悶を含む富嶽を見るのは初めてのことだ。旭陽は置かれた手を掴み返すと富嶽に問いただした。

「一体どうしたんですか…。話していただけませんか…?」

 旭陽はその手を取って石段に腰を下ろすよう促した。先程までは旭陽に詰め寄りまじまじ正面に見据えていた富嶽だったが、今はちっとも目を合わせようともしない。
 淋しげな野犬の遠吠えが風に混じって僅かに聞こえる。旭陽は待った。暫く無言が続いた後、富嶽はようやく口を開いた。

 富嶽は以前、旭陽に身の上を話してくれた。
 ホオズキの里でモノノフとして努めていたが、羽のついた鬼に里は攻められ援軍も来る事無く、巫女、民、モノノフ諸共死に絶えた。たった一人生き残った富嶽はこのウタカタへと流れて来た。そして富嶽はホオズキの仇を討つため、今も件の鬼を探している──
 そこまで話したのを覚えてるかと問われ、旭陽は頷いた。もちろんそんな心苦しい話を忘れる訳が無い。そうかと呟いた富嶽はまた黙ってしまった。手の中にある濡れた様な青い石をじっと見つめている。だが石は先程よりも光りが淡く鈍くなっている様に感じた。富嶽は暫く手のひらで弄んでいたが若干の失意を滲ませ、意を決したかのように大きく息を吸った。

「その話にはまだあんだよ…」

 石を握りしめた富嶽は旭陽に向き合った。

 今は無きホオズキの里、その神垣の巫女は幼くして里を守り、富嶽もまた彼女と民を守り過ごしていた。富嶽が手にするこの石は、そんな平穏な日々に互いの絆の印として巫女から贈られた物であるらしい。双子石と呼ばれるそれは対になる石同士を近づけると干渉仕合い自ずと青く光るのだそうだ。

「…なんでか、そのちびに懐かれちまってよ。相手してやってたらお守りだっつってこれを貰った」

 その後ホオズキは鬼の襲撃に遭う。死屍累々と積み上がる仲間たち、蹂躙される里を前に力及ばず、精根尽き果て倒れるまで奮闘した富嶽が目覚めた時には全てが無へ還っていた。
 何もかもが灰となって地へ積もりようやく風塵が開けたかと思えば、臨んだ空には憎き鳥型の鬼がたった一人の生き残りをあざ笑うかの如く悠然と旋回していた。その時富嶽は、見上げた鬼の腹に青い光を見たのだ。瞬間、一気に怒髪が天を衝いていた。追いつく訳も無いのに傷だらけの体を引きずり、必死になって足を動かした。何度も何度も幼い巫女や、仲間の名をひとしきり叫んだ。鬼は遠ざかり、小さく黒い点になっていく。声が嗄れ焼けるような痛みを喉に感じた時初めて嗚咽した。そして富嶽は決意したのだ。いつかあの鳥の鬼を見つけ仇を討つそして、鬼に食われた仲間たちを必ず弔ってやると。鬼の死骸と仲間の遺体が一緒くたに折り重なった光景は頭にこびりつき、今だ凄惨さを孕んだ空気は重く絡みついているのだ。
 話し終えた富嶽は今にも掌に食い込まんばかりに石を握っていた。石は尚も弱い光を放っている。旭陽はようやく納得した。

「かわら版を見ていたのは鬼の目撃情報を探していたんですね…」
「ああ。石が光るのはあん時以来だ。デカブツが近くにいるのは間違いねえ」

 加えて、旭陽が最近夢の中で少女の声が聞こえるという奇妙な話だ。成仏できない巫女の魂の声が旭陽に聞こえたのではないかと考え、これらは偶然ではないと悟り富嶽は問い詰めてしまったらしい。「こんな事考えてるなんて馬鹿げてると思うか」と富嶽は自嘲した。必死さ故どんな可能性も結びつけたいのは良く分かる。しかし、今となっては旭陽もこの二つの出来事は決して偶然とは思えなかった。寧ろ橘花たちとの推測が益々確信に変わっていた。
 旭陽が夢で少女と会話が出来れば良いのだが、試しても今だに成り立った事は一度も無い。一方的に彼女の助けを請う声を聞くだけだ。今晩それが叶うなら何処に居るのか、今一度訊ねてみるべきだと思った。

「富嶽さん。橘花さん曰く、私の聞いた声は富嶽さんが仰る通り、浮世に縛られ成仏できない魂の声だと言っていました。私も石が光ったのと女の子の声が聞こえる事が偶然とは思えません。今晩彼女がどこにいるのか聞いてみようと思います。それに明日、桜花さんたちがお頭に相談してくれるとも言ってました。だからそう思いつめないでください。大丈夫ですよ」
「…はっ、ったくらしくねえとこ見せちまった。わりいな。俺もどうかしてた。こりゃ帰ってゆっくり休まねえとな」
「あまり考えすぎると私みたいに隈取れなくなっちゃいますね。ははは」
「そうだな」

 旭陽は石段から立ち上がり尻を払った。隣に座っていた富嶽も立ち上がる。空を見上げてうんと背伸びをした後大きく腕を回した。

「じゃあ富嶽さん、また明日本部で」
「おう、明日な」

 富嶽の背を見送り、帰宅した旭陽はその晩意気込んで床に入った。

 いつも少女が話しかけてくるのは眠りにつくかつかないか、意識が夢と現実の間を浮遊している時だ。
 布団を被って暫く経ちふわふわと心地よい感覚に漂っていると、やはり今夜も少女の声は聞こえた。「助けて、おねがい」と暗闇の中でしくしく泣いている。旭陽は助けたい旨を告げるも、彼女には届いていない様子だった。声を出そうにもいまいちはっきりと言葉が出てこない事が多いのだ。そう、ちょうど金縛りにでもあったかのような感覚だ。思うように会話ができず悶々としていると、少女は一層声を上げて泣き始めてしまった。ところが、少女の嗚咽に混じりにとある人物の名が聞こえた。「危ないの助けて」そう繰り返され、旭陽は瞬時に目が冷めてしまった。がばりと起き上がると脳裏に安倍晴明の声が聞こえた。どうしたのかと驚き問われるも、旭陽は答える間も無く自宅を飛び出した。
 丑三つも近い里はしんと静まり返っている。そこにただ聞こえるのは、旭陽が駆け地を擦る草履の音だけだ。少女の言葉を反芻し、旭陽は息が上がっていた。「富嶽が危ないの、助けてお願い」とその言葉の意味する所が自分の早とちりであればいい。そう思い、富嶽の自宅の前へ着いた。旭陽は呼吸を整え軽く戸を叩いた。

「富嶽さん、夜分にすみません…。少しお話が…」

 耳をそばだてて中の気配を伺うも、返事も無ければ身じろぎする様子も感じられない。
 旭陽は今一度戸を叩いた。二度目、三度目と次第に強く叩くもうんともすんとも返事はない。旭陽は焦った。こうなれば致し方ない。あとで怒られてもいい、早合点でもいい。そう思い、戸に両手を掛け旭陽は勢い良く引いた。
 がらりと開いた富嶽の自宅は、家主は不在、もぬけの殻だった。嫌な予感が現実となり旭陽は一気に焦燥した。ぶわりと顔が熱くなった。溢れそうになるも必死に堪えた。だが今は一番にすべきことがある── お頭や皆に知らせることだ。
 旭陽は両の頬をぱんと叩くと大和の家へ走った。