記憶は、無理に思い起こすまでもなく、振り切ろうとも意に反し頭の中に流れ込んでいた。
悲鳴と怒号と、助けを乞う仲間たちの声は、鬼の咆哮と共に八年という長い歳月を経ても尚耳にこびりついて離れず、今でも時折悪夢として見る。窮地と混沌から脱しようと一人の新米モノノフが立ち向かうには余りにも強大で邪悪な鬼だった。人形のようになぎ倒される仲間に背を向け、己の無力さに絶望し、上官に命じられるがままに逃げることで精一杯だった。以来、身を切られるような辛い思いは御免だと思い、他人とは付かず離れずひょうひょうと過ごしてきた。
血まみれで集合場所に飛び込んできたモノノフの言葉を全て聞き取ることは出来なかったが、“四本の腕を持つ鬼” の言葉には居てもたっても居られず、息吹は無意識のうちに駆け出していた。過去の残酷が再び誰かの現実となる事だけは避けたかった。
その特徴を持つ鬼は、八年前のオオマガドキに息吹と対峙した鬼、そして大切な人を奪った因縁の鬼「タケイクサ」に違いなかったからだ。オオマガドキ以来終ぞ姿を見ていなかったその鬼が、何故今になり再び姿を現したのかは分からない。ただ確かなのはキツネソウを探していたもう一隊と同じ現場に居合わせているという事である。
息吹は急ぎ仲間の元へ走った。
現場に近づくに連れ瘴気混じりの鬼の呼吸は、おぞましい唸り声と共に冷めた夕刻の空気を震わせていた。手にも額にも、体中から嫌な汗が吹き出で、同時に、内心ほくそ笑む気狂いさもふつふつと湧き上がっていた。大切な恋人を奪った鬼と再び相見える、願ってもいない好機でもあった。敵討ちいや、復讐である。件の鬼を仕留めるまではこの命を投げ打ってでも、腕一本になってでも、息の根を止めてやるその覚悟があった。
鬼の姿が見える目的地まではあと三間ほど、待っていろと奥歯をぎりと食いしばり地面を踏みしめた。
視界にそびえる巨体は、間違いなく息吹にとっての仇「タケイクサ」だった。人の上半身だけの体を持ち、体の四方に腕が四本生えている。巨大な手はその大きさを感じさせない俊敏さであらゆるものを握り潰し、なぎ倒す。幸いにもまだ息吹には気づいて居らず右往左往と周囲を伺っていた。
だが、現場の惨状には愕然とした。そこには、八年前と同じ光景が広がっていたのである。
持ち堪える事ができなかった隊員らはぐったりと踏み潰された雑草の様にして倒れていた。装束は裂け、血に染まり、鬼ノ府の紋様は鋭い爪により跡形も無く無残に引きちぎられている。
倒れている者の中には、昨夜隊の編成を進言した隊員が居た。
里を出立する前、本部で抱擁を交わしていたあの青年モノノフだ。彼の恋人は今も無事の帰還を願い、里で待っていることだろう。恋人が仏となった過去の絶望を思い出した息吹は、愛槍を抜き握りしめた。
むき出しの感情に任せ単騎突っ込もうと踏み出した。武者震いというものなのだろうか。頭に血が上るとか、腸が煮えくり返るといった言葉では形容し難い、これまでに感じたことの無い例えるなら「殺意」のようなどす黒い憎悪がみるみるうちに体中を駆け巡りその興奮は凶気へと変わっていた。
ところが、思うように体が動かない。体が雁字搦めにされているのだ。気づけば、旭陽が後方からがっしりと息吹の背にしがみついていた。普段の息吹なら軽口のひとつやふたつ言ってのけ、抱きつく旭陽の頬を赤らめさせる所だろうが、今の息吹にはそんな余裕すら無い。
背から伸びた腕は、腰へがっしりと回され、息吹を行かせまいとしていた。
「い、息吹さんっ!!私の気配にも気付かいないなんて!落ち着いて下さい!!」
懇願する旭陽に、息吹はようやく意識を向けた。その隙をつき、旭陽はぐいと腕を引き岩陰に隠れた。
「一人で駆け出すなんて、無謀にもほどがあります!」
顔を反らし、息吹はうるさいと悪態をついた。
「那木と先に里へ帰れって言っただろ」
「上官への命令違反という処罰なら、息吹さんと一緒に里へ帰ってから受けます!」
反論する旭陽に息吹はまた怒鳴ろうと旭陽の手首を掴んだ。拗じ上げられる痛みに顔をしかめ、旭陽は肩をすくめ身構えた。すると遅れて那木が駆けつけた。乱れた前髪をさっと撫で付け、静かな怒りを孕んだ眼差しは一身に息吹へ向けられている。那木は息吹を制した。
タケイクサは辺りを詮索しのっそりと草むらの中を移動している。どうもまだ獲物を探している様子だ。今ここで騒動を起こせば、分が悪い。仲間同士で言い争っている場合ではない。
那木は息を整え、周囲の状況を伺い唇を噛みしめた。
「息吹様、遠目に見て倒れている隊員の中にはまだ息のある者も見受けられます。救える者がおります。注意を引き、一刻も早く安全な場所へ運びましょう。それが今やるべき事です」
「んなこた分かってる!」
「いいえ!息吹様。那木は鬼ノ府の医者として申し上げます。今は、負傷者とあなた様のお命を優先して下さいませ!死に急ぐことなど、この那木が許しません」
俯く息吹の肩を掴み「息吹様」と那木は顔を覗き込んだ。旭陽の腕をきつく握っていた手は離されたが、やり場を無くした拳はそのまま岩に叩きつけられる。何度も何度も、息吹は悔しそうに叩きつけ、埃立った砂岩は血で滲んでいた。
負傷した者に早く処置を施さねば手遅れになってしまう。那木は、今一度諭すように息吹の名を呼んだ。
「…あいつはタケイクサだ。基本的に背後はがら空き。後ろから攻撃すればいくらか注意を逸らすことが出来る。俺がやる。その隙に那木と旭陽は倒れている連中を森の中に避難させてくれ」
「息吹様、ご英断に感謝いたします」
微笑んだ那木に、息吹はバツが悪そうに眉を下げた。旭陽はとっさに息吹の羽織を引っ張った。
「息吹さん!無茶だけはやめてください…!」
「…わかってる。んじゃ、あのデカイのにちょっかい出すぞ。合図したら二人ともあいつらのこと頼んだぜ」
息吹は、那木と旭陽を追い払うようにして手を振った。
二人は物陰に隠れながら低木の茂みに紛れ、倒れている隊員の近くまで接近した。枝葉の隙間から覗き込むと、正面には血だまりの中に隊員らがうつ伏せに倒れている。血液の表面と干からびた雑草が僅かに震えているのは浅く細い呼吸を繰り返している証拠だ。
那木は、少し開けた場所に応急処置用の道具を広げ、直ぐに治療できる態勢を整えた。後は、息吹がタケイクサを引きつけている間、負傷の隊員を茂みへ引きずるだけだ。なんとか上手くタケイクサの気を逸らし、隊員たちを助けたい。命をつなぎとめるにはこれ以上時間を掛けられない。旭陽は間に合えと祈りながら、一人タケイクサの正面に立った息吹を固唾を呑んで見守った。
夕と夜の境に沈みゆく陽はタケイクサの目を鈍く光らせ、不気味な様相で薄闇に浮かび上がる。「ほうらこっちだ!」と声を張った息吹に、タケイクサは気づくと、二本の腕を地面に叩きつけ激しく威嚇した。
旭陽たちの場所からは息吹が死角だ。鬼の手に叩かれたのではと思わず叫び声を上げそうになる旭陽の口を、那木は瞬時に塞いだ。
「旭陽様、お静かに。わたくしたちが気付かれてはなりません。息吹様なら大丈夫です」
首を上下に振り、旭陽は呼吸を整えた。息吹は徐々に離れて行く。タケイクサは四本の腕を使い、巨体を引きずり息吹へ向かっていた。振り上げては降ろされる凶器を華麗に躱し後退している。旭陽は初めてタケイクサという鬼を見たが、繰り出される攻撃はそればかりではなく、火を吐いたり何か吐瀉物のようなものを撒き散らしていた。草木に飛沫が掛かると異臭を放ちすぐに変色してしまう。
旭陽たちと息吹との距離はどんどん広がっていった。タケイクサの腕や飛沫の届かない位置まで移動すれば息吹が合図を送るはずだ。それを見計らって隊員たちを担がねばならない。
那木曰く、集合地点に残してきた隊員にはウタカタへ伝令に走るよう頼んだそうだ。里の結界が薄い今、守りにも人員を割かねばならず、応援を出せるかどうかは分からない。だが、状況を伝えていれば桜花もきっと何か知恵を貸してくれるだろう。負傷者を避難させてからが本当の踏ん張りどころである。
その時、タケイクサの側方から息吹の槍がすっと水平に差し出された。合図だった。
「旭陽様、参りましょう」
那木は藪からそっと出ると、負傷した者に肩を貸した。うち、何人かは自力で動ける者もいる。だがどうしても女二人でひとりの成人男性を担ぐのが精一杯だった。
息吹は、タケイクサに旭陽たちを気付かせまいと更に攻撃を仕掛けていた。タケイクサが方向転換しようものなら鼻先で槍をぶん回し、おちょくっている。引きつけが甘いと思ったのか、とうとう槍をタケイクサの甲に突き刺したらしい。地鳴りのような唸り声が轟いたかと思えば、槍が刺さったままの手を大きく振り上げ、うちわを仰ぐようにして息吹目掛けて叩きつけようとしていた。一度目は辛うじて避けた息吹だったが、残りの腕を駆使しタケイクサは苛立ちを露わにしている。地面の凹凸に僅かによろけた息吹は鬼に背を向けてしまっていた。
けが人を木の根に横たわらせた旭陽は、那木を振り切って飛び出した。背から弓を外し、矢筒に手を伸ばす。定めた鏃はタケイクサの眼だったが、ギロリと睨まれ体が震えた。構えてみるが上手く照準が合わない。息吹が馬鹿野郎と叫んでいるのが聞こえ、那木は上げたくとも上げられない叫びを必死に押し殺していた。
「た、た、タケイクサ!!こっちだ!!!その眼球射抜いてやるから、か、かかってきなさいよ!!!鬼のくせに禿げたおっさんみたいな顔してんじゃないわよ!」
声は裏返り半分金切り声を出した旭陽に、タケイクサは狙いを変えた。咄嗟に息吹が走りだすも、長く太い腕が地を突きその行く手を阻んでいる。旭陽と正面に対峙したタケイクサは、品定めでもするかのようにぐいと顔を寄せた。頭から爪先まで舐めるように眺めている。旭陽は弦を握る指にほんの少し力を入れた。矢の飛距離と威力を考えれば、あと一歩近づかねば充分に目を潰すことは出来ない。まだ、まだ…あと一歩来い!と、震えを押し留めた。汗が額からつうと垂れ、的は願った位置へとのっそり入り込んでくる。
何処からとも無く「落ち着くのだ、主」と静かに那須与一の声が届いた。
「今っ!」
指先を離れた矢は速度を保ったままタケイクサの目に飛んで行く。狙いも申し分なく確実に仕留める威力も十分にある。── その筈だった。やはりオオマガドキに現れた鬼というのは、多少の知能が備わっているらしい。背から生えている残りの腕が、タケイクサの顔面に瞬時に壁をつくり矢を払いのけてしまった。
旭陽の放った矢はぱつんと折れ、呆気無く地面に転がった。結果ただの棒きれを投げただけの、タケイクサにとっては痛くも痒くもない攻撃となってしまった。乗せられたのはどちらだったのか、鬼を見上げた旭陽には夕空を臨むことが出来ない。既に頭上にはタケイクサの大きな手のひらが今に旭陽を押しつぶさんとしていた。
息吹と那木の叫び声が遠くから残響のようにゆっくりとこただましている。那須与一と安倍晴明も必死に正気を取り戻させようと名を呼んでいたが、足は動かなかった。
「あ…、」
死の淵に居るとはこの事なのだろうか。旭陽には何もかもの動きが緩やかにしか感じることができなかった。それでも本能は己が身を守る行動を取らせた。僅かな延命は身を低く保つことだけである。勿論自分の最後が圧死など到底予想だにしていなかったが、もう終わってしまうのだと覚悟を決め瞼を閉じた。
ところが、いくら感じる時が緩やかになったといえ、旭陽はまだ息をしていた。冷や汗が額から流れてくるのだ。
不思議に思いそっと顔を上げた。重なる影がやけに多い。旭陽とタケイクサとの間を遮るようにして “何か” がある。まるでタケイクサの手のひらを押し返しているようだった。目を細め顔を上げた。見覚えのある逞しい筋骨隆々とした後ろ姿、対してもう一人は黒尽くめの小柄な男性だが、被った帽子から除く銀髪は余裕を表すかのように風になびいている。旭陽は一気に脱力した。
「富嶽さん…っ、速鳥さん…!!!」
「てんめえ、旭陽!!いつまで踞ってやがんだ!!ちんたらしてねえでさっさと行け!」
「旭陽殿、早く退かれよ」
いつの間にやらタケイクサの腕には、速鳥が投げたらしい縄が巻きつけられている。先端に付けられたクナイは地にめり込み、タケイクサは地に貼り付けにされたかの如く身動きが取れなくなっていた。富嶽は手甲を構えると、巨大な腕を目掛け勢い良く拳を突き出した。轟音を伴い、鬼の腕は弾け飛ぶ。潰れた箇所からは体液が噴出し、今だ腰を抜かしたままの旭陽は全身に浴びてしまった。タケイクサは呻き声を上げ、ごろんと横転し更に速鳥が追撃する。高々と飛び上がったかと思うと、双剣を腰から引き抜きタケイクサの目を目掛けて突き刺した。藻掻いているうち、息吹は取り返した愛槍を構えタケイクサの額に狙いを定めていた。反った全身の力は振り切り投げられた槍に集中される。見事眉間を貫きタケイクサは目の光を失いピクリとも動かなくなった。肩で息をする息吹は、がくりと膝から崩れ落ちた。地べたにへたり込み呆然とする旭陽はただただほっとしていた。生きていることが今だに信じられない心地だった。
そんな浮遊感にいつまでも浸っているわけにもいかず、那木が富嶽の名を呼んでいた。負傷者を清澄な場所へ移動させねばならないからだ。腰の抜けて自力で立ち上がれない旭陽の腕を富嶽は引き上げた。
「ほら、旭陽立て。てめえもあっちだ。おい、速鳥鬼の検分しておいてくれ。体の一部を持って帰らにゃならねえからな」
「承知した」
速鳥と会話を終えると、富嶽は旭陽の脇の下から腕を伸ばし、少々面倒くさそうな様子で旭陽をひょいと抱えた。
「わ、わ、すみません富嶽さん。私一人で歩けます…!」
「ったく、ちんたら歩かれたらたまんねえだろうが。大人しくしときゃいんだよ」
「…ありがとう、ございます」
歩幅の大きい富嶽が歩く度、心地よい揺れに安堵が積み重なっていく。ようやく戦闘から開放された実感が湧くと、旭陽は再び体が震えていた。遅れて恐怖が襲っていたのだ。止めどなく後から後から涙が溢れてくる。顔を手で覆い隠すも、富嶽にはお見通しのようだった。頭に重みを感じたかと思えばまた、わしわしと撫で付けられていた。
「よく踏ん張ったじゃねえか。てめえこそあんま無茶すんじゃねえ」
旭陽は何度も頷き、富嶽は那木の元へと連れて行った。
それを後目に、速鳥は直ちにタケイクサの検分を始めた。息吹は額に刺さったままの槍を引き抜き、鉾先の体液を払う。しゃがみ込み鬼の角を掴む速鳥は直刃をあてていた。切断しようとしている。
「おい、速鳥。あんた…」
「お頭に頼まれてのことだ。大型鬼の体を一部持ち帰るようにと」
「お頭に?霊山から戻ってきてるのか」
「左様。それ故自分たちは伝令を受け、すぐに里を出ることができた」
「そうだったのか…。本当、助かったぜ。ありがとな」
「礼には及ばない。しかし、息吹殿…」
速鳥は刀をのこぎりのようにしてタケイクサの角を削り始めたが、ひと呼吸間を置くと息吹を見上げた。
「貴殿は何故、衝動的な行動をしたのか自分は理解に苦しむ」
もくもくと己が仕事をする速鳥を眺め、息吹はため息をついた。後頭部をかき、転がった石をつま先で突いていた。
「後で、話す…。取り敢えず今はあいつら介抱してやんねえとな」
いまいち腑に落ちない様子だったが、速鳥はもくもくと手を動かし続けた。その夜は大木の下で一夜を明かし、一行は里への帰路についたのだった。