ふわり語らう※ 千歳・ホロウ:友情SS
一糸まとわぬ自分の身体を、脱衣場の鏡で恐る恐る眺めた。鏡に映し出された裸体はまるで自身の身体とは思えなかった。鏡を疑うわけでは無いが、確かめるように鎖骨のあたりから胸へと手を滑らせてみる。つい先程まで歪にうねっていたであろう皮膚は、うら若い女子のものへと戻っていた。いや、これが本来の彼女の姿だが、長い間半人半鬼として生活していた千歳にとっては怖いような嬉しいような…いまだ複雑な感情が駆け巡っていた。ただ暖かいものが頬を伝っているのは紛れもない事実である。意外にもそんな感情が残っていたのだと分かればそれが少し気恥ずかしくもあり、本心だと認めざるを得なかった。閉ざされたと思っていた常闇の道を切り開き、光を繋いでくれた今世のムスヒの君もといウタカタの隊長、そしてこの里の人々…。彼らは長きに渡り探し続けていたホロウとも巡り合わせてくれた。湖畔で告げた感謝の言葉だけでは足りぬな。と、もとの身体に戻った自分自身に呟いた。
何地彼方を葬った後、ウタカタのモノノフたちは事後処理に追われ、周囲の哨戒に余念なく息つく間もなかったが、隊長と那木は千歳の為に部屋を用意してくれ、ゆっくり休んでくださいと風呂まで用意してくれて今に至る。浴場の戸を引き、そろりと足をつけた。肩までつかった千歳は身体を湯船の縁に預けた。これまで気が張っていた分、一気に脱力感に襲われた。
長老時代の千歳、いや虚海は陰陽方の拠点に住まい、人との関わりを極力避けて生活していた。もっとも、陰陽方に集う者は皆奇人変人ばかりだったから、敢えて人と交わる必要は無かった。鬼門から抜け出で、日も浅い頃、化物だ鬼だと忌み嫌われていたことを思えばその方が都合がよかった。
常より陰陽方は霊山の住人からも、モノノフからも得体の知れない後ろ暗い組織であるとの認識で、所属する者を嫌煙する人間が殆どだった。鬼丿府組織と同程度の権限を霊山君より与えられながらも、戦いに加勢している様子はちっとも見受けられず、それどころか鬼の骸をいじくり回してわけの分からない研究をしていると、気味悪がられていたのだから当然である。正確に言えば陰陽方の働きとしては、鬼の根源とその流れを探る研究なのだが、まあ、おおよそ人々の噂通りだった。そんな組織に長老として迎え入れられた虚海は、陰陽方の所蔵するありとあらゆる文献を片っ端から読み解き、自身が元の時代に戻る方法をも探していた。多くの文献に目を通すうち、虚海はとある記述に釘付けになった。時代の節目、歴史が大きく変わるであろう出来事には、必ずと言っていい程、翠眼の乙女の記述があったのである。直感的にこれはホロウに違いないと、そう考えた。
それから長い年月を掛けて調べ上げたことは、千年前のあの日以降も、ホロウは間違いなく時代を転々としていることそして、ホロウの現れる所では数多の鬼がどこからともなく出現していることが判った。虚海はホロウと再会できたなら、あるいは元の時代へ戻れる方法がわかるのではないかと考え、歴史の節目節目に現れるという強力な鬼「蝕鬼」を生み出すことを思いつき、その研究に没頭したのである。最初は、強大な鬼の解剖ばかりを行いその生体を調べた。次第に蝕鬼は他の鬼とは違い「核」なるものが存在することが判った。その核はあらゆるものに取り付いて蝕鬼を生み出すのである。人工的に作り出すことができれば、獣と意思疎通が図れる虚海は手懐けることも容易だった。まるで何かにとりつかれたかのように、虚海は研究に没頭した。他の長老たちからも最近様子がおかしいなどと言われるくらいには寝る間も惜しんで、核の製造に注力した。本当に時間が惜しかったのだ。
ある日、鬼の解剖を手伝ってくれていた同じく半人半鬼の者が、砂となって果てたことが原因だった。最初は悪い夢を見ているのではないかと思ったが、すくい上げた砂に残る僅かな人の体温に虚海は震えた。半人半鬼は歳も取らない、瘴気にも耐性がある特異な身体ではあったが、その代償は短命でありこの者のように姿形すら残らず、誰にも看取られぬまま哀れな末路を辿るのである。調べると、半身鬼に蝕まれれると二十年生きれば長い方であるらしかった。己の終末も静かに砂となる運命だと認めたくはなかったが、その頃から虚海は半ば自棄になっていた。いっそ、この世の全てを無にし、千年前と同じように全ての因果を食らう何地彼方を呼び寄せてしまえ、と。
そうして闇の中を駆けずり回ったが、結果、今こうして湯船につかっている。
蝕鬼の驚異が遠ざかったとはいえ、虚海が核を施し取り逃がしてしまった鬼は今も闇夜に身を潜めていた。今更懺悔をしても取り返しのつかないことだった。それを分かっていてもウタカタのモノノフたちは千歳を迎え入れてくれた。果たして、何が返せるだろうか…。考えれば目頭がじんわりと熱くなる。
「人の…生き方、か…」
鼻が隠れるまで湯に沈むと、おもむろに戸ががらりと開かれた。その瞬間「千歳っ!!」と呼ばれ、あまりに驚いて飛び上がりそうになったが、そちらを見やるとホロウがこれまた素っ裸で仁王立ちをしていた。しばし間があって、千歳は肩を震わせた。
「っ…ははは、ホロウ一体…、どうした、のだ…っ」
「千歳の居場所を尋ねたら、那木がお風呂だと教えてくれたので、私も入りに来ました」
もうくたくたでぺこぺこです。
そう言ってホロウは千歳の隣に身体を沈めた。少し距離をとってしまうのは、あまりにも久しいからだろうか。千年前はよく互いに背を流し合い、湯浴みをしたものである。先日までは昔の思い出を思い出すだけでも辛かったというのに、不思議と今は思い返せた。手を伸ばして届く所にホロウは座っている。首を傾げ向けられる視線が妙に気恥ずかしい。
「何がそんなにおかしいのですか千歳」
「なんでもない」
そうですかと呟いたホロウは、肩までつかったまま千歳の正面に移動した。大きな瞳でまじまじと、千歳の顔を見つめ優しく笑んでいる。両手を出すとそっと千歳の頬を包んだ。
「元に戻って、本当によかった。長い間私は辛い思いをさせてしまいました」
「もう、良いのだホロウ。私こそ謝罪で済まされることではあるまい」
うつむく千歳の頬を、ホロウはぐいと持ち上げると「あまり長湯しすぎてはよくありません」と言い、いま来たばかりだと言うのに千歳の手をひいて風呂を上がった。
案内された部屋は、既に寝具が準備されている。百鬼隊やモノノフの世話をしている女中らが用意してくれたらしい。机の上には、木綿からの置き手紙もあった。「夜食を準備してありますので、女中さんに声をかけてくださいね」とのことだ。首にかけていた手ぬぐいを取って、千歳は髪を撫でた。
ふいに手の中の手ぬぐいが抜かれたかと思えば、ホロウは千歳の後ろに陣取っていた。
「前を向いていてください、千歳」
ホロウは千歳の髪を丁寧に拭いて乾かし、櫛を取ると黒い髪を梳き始めた。ホロウは随分と甲斐甲斐しい。千歳はされるがままその心地よさに身を委ねていた。
「昔は…、よくこうしてましたね」
昔は、そう。オビトとホロウと千歳と三人で夜遅くまで語り合ったものだ。近くの小川で取れる魚の話しだとか、山菜採りに出かけようとか、鬼丿府創設についてもああでもない、こうでもないと議論したものだった。鬼の驚異がまだそう表沙汰になっていない頃で、人を集めるのに随分と苦労をしたのを覚えている。
昼も夜も寝食ともに過ごした日々は、本当に楽しかった。楽しかっただけに、この時代に来てからは思い出すことをやめていた。孤独を余計に感じてしまうからだ。
千歳は相変わらず綺麗な髪です。と、ホロウは櫛を机に戻した。
「これからはまた、こうして一緒に過ごせます」
ホロウに振り向いた千歳は、堪らず腕を伸ばしていた。今まで堪えてきたものが一気に溢れ出ていた。ホロウの肩口に顔を押さえつけ、声を上げ嗚咽した。ホロウは宥めるように千歳の背をゆっくりと擦っている。
これまで千歳が虚海として行った事は決して許されることではない。過去に戻り人の道から外れた行いは帳消しにすることなどできはしないし、千歳が長い間孤独と戦い、鬼門から放り出され恐怖した日々も消し去ることはできない。ただ、こうして差し伸べられる手はウタカタにはある。
ホロウは千歳の肩を掴み身体を離した。目元を拭う千歳の手を退け、側にあった手ぬぐいを優しく押し当てる。すまない醜態を見せたと千歳は笑った。
「そうしてましょう。千歳。そちらの方がいいです」
「これからもよろしく頼む、ホロウ」
こちらこそ、とホロウが言ったと同時に、ぎゅるると腹の虫が聞こえた。あまりにもはっきりと聞こえたことに千歳はきょとんとして、ホロウを見上げると目尻に手ぬぐいを当てて腹を抱えた。
「しゃけおにぎりはあるでしょうか」
その夜、部屋からは乙女たちの談笑が夜更けまで続けられ、明かりは暫く消えなかったのだとか。
何故息吹がその事実を詳しく知っていたのかは、また別の話。