に ふたり 似た二人
朝もやに陽が滲む頃、冷たい空気に混じり優しい声が届いた。外様居住区の住人たちが家人を見送る声だ。「行ってらっしゃい」「夕飯は…」と、何気ない一日が始まる会話を横切り、帰還した稀月は皆が今日も当たり前に朝を迎えられたことに安堵した。深夜労働の疲労も、張っていた緊張も大いに吹き飛ぶというものだ。昨晩の里は少し雨が降ったのか、地面が僅かに濡れていた。少しぬかるみ、窪んだ所には、風に煽られた桜の花びらが溜まり、こんもりと薄紅色の小さな山を作っている。枯れない桜を横切り石段をゆっくりと上がり宿舎護衛のサムライに労いの言葉を交わすと、稀月は刀也の自宅へ到着した。玄関の戸を控えめに叩くと、返事も無しに内側からすっと戸が引かれる。真正面に立つ刀也は若干屈んで稀月の姿を認めると、すぐにくるりと背を向け座敷に上がった。稀月は頬が緩みそうになるも「戻りました」と後ろ手に戸を締め土間に入る。竃上の縦格子から朝日が差し込むも、まだ行灯の火はくすぶったままで室内は薄暗い。寝台は主が横たわった形跡もなく出かける前と変わらず綺麗なままで、刀也の座す傍らには紙の束が積まれていた。ここ最近、新体制となったマホロバのサムライ、近衛のモノノフたちをまとめる為に、新たに法度のような物をまとめていた。稀月もいくらか案を出し、三人してああでもない、こうでもないと言い合いながら新たな取り決めを練っていた。すでに清書段階に入っていると聞いてはいるが、思うように進まなかったのだろう。刀也の意にそぐわなかった文字が、書き損じの紙にいくつも散らばり丸められている。
筆を走らせる刀也に任務の報告を終え、稀月は湯呑みと急須を取った。鉄瓶の取っ手に手ぬぐいを挟んで持ち上げると、目の下に薄っすらと隈を携えた刀也がじっと稀月を見つめている。「どうかした?」と聞くと「いや、何でもない」と言ってまた筆を取った。
「少しは休憩したらどう?」
「あいつにまた小言を貰うのはごめんだからな…」
やはりまだサムライと近衛、任務範囲への妥協点は折り合いが着いていないらしい。今まで通り、かぐやの護衛は近衛だけと八雲は主張しているが、そうなれば必然的に異界任務の比はサムライの方が多くなる。不満が出てくるのも時間の問題となる。かぐやの事になると八雲はちょっとばかし躍起になるのが玉に瑕だ。
「そう焦らなくても大丈夫じゃないかな…。マホロバの皆は真面目だもの」
稀月は刀也の湯呑みを机に置くと、ぐいと手首を掴まれた。いきなりに握られ、中腰になっていた稀月はよろけ、意に反しぺたりと床に腰を下ろした。刀也は眉間に皺をよせ随分険しい顔をしている。
「お前はそれでも隊長か。人を信じすぎている。万が一また何かあったらどうする。真鶴の件しかり…、それに内通者はグウェンだったから良かったものの」
「刀也…」
「危機を乗り越えた今のマホロバにそのような類の者はいない事など分かっている。だが、統合した以上、今後はあらゆる危険性を考えねばならん」
少し強い口調になった刀也は、「すまない」とそう言って、稀月の手を離した。握られていた手首を片方の手でそっと触れてみる。刀也から伝わるものは間違いなくマホロバの平穏と安寧だ。願うものは皆同じなのだ。
稀月は刀也の後ろに回ると、おもむろに彼の背から腕を回した。不意をつかれた刀也は声にならない声を口に含んでいる。稀月は刀也の背に額をあてた。深い呼吸で刀也が溜息をついているのが分かる。
「巫女の前であやつと握手を交わした。それに…」
硯に筆を置いた刀也は稀月に向き合った。疲れ気味な表情で悲しそうにふっと笑いかけた。
「こちらに迷い込んだときから、この世に骨を埋めるしかない、とそれなりの覚悟がある」
刀也は路頭に迷った同じ境遇の外様たちと共に何度も郷里への道を探したに違いなかった。稀月はマホロバに居る刀也しか知らない。彼の凄惨な過去を知っていても、稀月が当時の痛みを完全に拭い去ることはできないのだ。
覗き込む刀也から稀月は目を反らした。これ迄に幾夜も肌を重ね、刀也の気持ちなど分かっているのに、こんなにも急な不安に見舞われるのは、稀月の体質も不安要素のひとつでもあり、また心の片隅で刀也がいつかまた鬼の居なかった場所へ行ってしまうのではないかと引っかかっているからかもしれない。もういい歳だ。或いは元いた場所に―― そう考えだしたらきりがない。うつむいたままの稀月に刀也は口を開いた。
「戻れたとしても戻らない。それならとうに横浜から郷里を目指していたさ。ただ、お前の転移も気が気でない事だけは覚えていて欲しい」
頬に手を添えられ視界が暗くなる。唇が離れると刀也はまた笑んで稀月の頭をぽんぽんと撫でると再び筆を取った。