柔らかな浮遊

 任務を終え本部に帰還した雨龍は、飛び込んだ珍しすぎる光景にぽかんと口を開けていた。
 本部お役目処入口から向かって左手には秋水の書斎兼書庫がある。そこに彼が居るのは当たり前に理解できるが、今日はその空間に千歳が居るのだ。
 二人は床が見えぬほどに積まれた大量の本を、書棚へ移したりまた書棚から本を抜いたりと新旧の本を入れ替え、整理している様子だった。しかしこれまでに秋水と千歳が共同作業をするというのは終ぞ見たことがない。
 受付から眺める木綿は、一言も会話無く作業が進む様にいささか不安げな様子だ。朝からずっとこの調子らしい。本を受け渡すやり取りを見ていると、嫌厭とまでは行かないまでも、確かに油の刺さっていない蝶番が軋むような雰囲気と距離感が漂っている…ような気がする。恐らくこの心配は、以前の二人の関係性によるものだった。

 千年前鬼門に落ちた千歳は、初穂同様時の迷い子となって現在の時間軸に流れ着き、挙句半人半鬼の姿と成り果てた。だが紆余曲折、千辛万苦の後、霊山にて陰陽方長老の地位に就き霊山中枢の一部を掌握していたのである。
 陰陽方では「千歳」ではなく「虚海」と名乗っていた彼女は、鬼門研究の傍ら千年前の唯一の親友、時渡るモノノフ「ホロウ」をこの時代へ呼び戻し再会したいと強く願っていた。宿願を果たすべく、長い時間を掛け多くの文献を調べ、虚海は翠眼の乙女の痕跡を虱潰しに探した。
 ホロウの記録がとある古文書に残っていることが分かると、彼女はホロウが現れる条件を洗い出しに掛かった。
 古い友が現れるのは決まって強大な鬼が出現した時代であり、歴史の節目で鬼が因果を食らう時である事を突き止めた虚海は、ついに人の道を外れ禁忌を破り、より凶暴で増殖能力の高い鬼 < 蝕鬼 > を生み出す事を思いつき研究に注力し始めたのである。そして秘密裏にあらゆる物質を蝕鬼へ変えてしまう「核」の製造に成功し、更なる異形を荒れ野へ放った。
 千年もの時を超えた虚海の生活は幸せとは程遠かった。始めは、ただホロウに会いたいその一心だったのかもしれないが、砂となりて消え行く半人半鬼の終末を知ってしまった彼女は次第に猟奇的な物に魅入られるようにして、蝕鬼の研究に没頭したのだ。

 霊山は、前兆無く出現した蝕鬼に疑問を持ち始め、一連の混乱に陰陽方の一部が関与していると虚海を疑い始めた。
 大本営の一翼を担う組織が人の道を外れた所業に絡んでいるともなれば、霊山にとっては大問題だ。陰陽方の長老たちにとっても沽券に関わることだった。それを受け、霊山鬼ノ府と陰陽方は辞退収束に乗り出した。陰陽方の長老たちは当時ウタカタに派遣していた間諜の秋水を、一方で霊山鬼ノ府からは軍師九葉指揮の下、彼の部下を虚海の拠点へと送り込んだのだ。
 虚海は、所属する組織から監視され泳がされているとも知らず、自身も霊山を盲ます間諜として秋水を遣い、また鬼ノ府からの間諜が軍師九葉の娘だと知るや否や人質に取り、九葉を押さえ付け己が計画を遂行した。
 手綱を握っていると過信した結果、シラヌイの部隊に実験拠点を押さえられ、虚海はウタカタのモノノフたちに捕らえられ今に至るのだ。

 故に虚海であった千歳にとって、云わば秋水は自身を欺いた忌むべき敵に近いものがある。内々に遂行していた計画は彼との接触で露呈し、あまつさえ拠点は潰され九葉の部下すら生かし返してしまったのだ。
 しかしイヅチカナタを討伐し、食われた時全てが元に戻り彼女の半人半鬼も再び人となり得た。が、元の姿に戻ろうとも、長きに渡る彼女の暗い部分が簡単に開放され、真っ向から陽を浴びられるとは限らない。信じていたものに裏切られたあの瞬間、どれほどの愕然と空虚が彼女を苦しめただろう。少なからず、秋水と千歳の間には僅かながらも摩擦があるのではと雨龍は思っているのだ。故に、二人がああして故意に一緒に居ることが不思議でならないのである。

 雨龍は、武器の手入れをするふりをして二人の様子をうかがった。やはり二人に会話はない。和気あいあいと接している様子でもない。腹黒い秋水のことだ。或いは彼が後ろめたさを感じる千歳に、片付けを無理強いしているのではとの考えも一瞬過ぎったが、秋水に限ってわざわざ自分を嫌忌させるような隙は与えないだろう。
 例えば、これが那木や初穂ならまだ妥当性もあり理解できるのだ…。ならば何故こんなことになっているのか──
 余計なお節介だと思いつつも雨龍はとうとう我慢できなくなり、二人を手伝うことにした。

「あの、秋水。ちょっといい?」

 分厚い百科事典を抱えた秋水は「なんですか」と振り向いた。千歳も雨龍に気づき「任務は終わったのか」と頬を緩める。顔半分面をしていた時より千歳の表情は柔らかくなった。彼女はいつもと変わらない様子だ。

「あーっと、ええと、私も手伝う?!手伝わせて下さい!」

 眼鏡の奥は相変わらず分析するような眼光だ。だが目を細めた秋水は二つ返事だった。

「あなたが僕の手伝いを申し出るなんて、珍しいですね。それでは有りがたくお願いします。階段の所に積んである本が最新版です。そちらと、此方の棚にある本を入れ替えて下さいますか」
「わかった、任せて」

 雨龍は階段から持てるだけ本を抱えると、千歳の隣に陣取った。彼女は表紙と棚から抜いた本とを照らし合わせ、同じ題目のものを探している。手際よく入れ替える様をじっと見ている雨龍に、千歳は首を傾げた。

「なんだ雨龍、整理の仕方がわからぬか?」

 雨龍はおもむろに千歳の腕をとって、顔を近づけた。驚いた彼女の長いまつげがぱちぱちと上下する。

「ど、どうしたのだ雨龍」
「ちょっと千歳、秋水になにか弱みでも握られたの?嫌ならいやって言っていいんだよ」
「いったい何の話だ」
「い、いや…。今まで秋水と二人だけで何かやってるの想像できなかったし、前の事もあるし…、ほら、心配というか…」

 それを聞いた千歳は、ぷっと頬を膨らませたかと思うと、腹を抱えて笑いだした。二人の後ろで作業をしていた秋水は驚きつつも、雨龍にうるさいですよとでも言いたげな視線を向ける。丁度その時、がたいの良いモノノフ隊員らがまた本をどっさりと抱えやってきた。なんと暦も一緒だ。

「秋水殿、これで全部だ」
「暦さん、皆さんご苦労様でした。ありがとうございます」
「やあ先輩。任務から戻っていたのだな」
「うん。暦ちゃんも秋水の手伝いしてたんだね」
「左様。秋水殿が新しい本を購入されたので、その運搬を。それから以前の千歳殿の、その…」

 いまいち説明しきれず歯切れの悪い暦に、千歳が代わった。

「私が長老時代に使っていた拠点の庵にな、書物がたくさんあったのだ。だが私はもう戻れぬ」

 曰く、先般、虚海の拠点へ突入したシラヌイの部隊は、庵にあった全ての物品を押収しそれらは九葉の部隊に引き渡され先日まで検分が行われていたのだそうだ。虚海が蝕鬼の研究に関わっていた証拠は、陰陽方が長老の地位を剥奪するのに、また彼女へ霊山追放を言い渡すのに霊山にとっては必要不可欠だったからだ。
 だが霊山は、今回の騒動を公にしたくは無く、虚海追放の一切を伝え終えると、今度は危険分子を把握できなかった霊山の不祥事隠蔽の為、押収した虚海の所持品すべてを破棄すると言い出した。そこで、秋水は陰陽方を通じそれらを譲ってくれと頼んだのだ。
 棚に本を押し込んだ秋水は、話に割って入った。

「たまたま、僕も新しい本を多数購入したので整理するついでですよ。虚海さんの書物は貴重な資料もありましたから、破棄するのは勿体無いと思ったまでです」

 千歳はちょんちょんと合図をするように雨龍の袖を引っ張ると、声を押さえ呟いた。

「秋水がな、今朝突然家までやってきたのだ。書庫の整理を手伝うなら私の書物を置く場所を作ってやる、とな」

 どうやら雨龍の早とちりだったようだ。千歳は思うよりもずっと前を向いていた。
 秋水が再回収した書物は、虚海がホロウを追っていた過去そのものだ。千年前からこの時代に来た時には何一つ手元に残っていなかっただろう。何の手がかりも無かった頃から、こうして積み上がった書物の存在は、苦しい思い出ばかりが詰まっていても千歳が必死になった証だ。それあって今、彼女はウタカタに居る。研究員の秋水だからこそ彼女の功績は決して無駄でも悪でもないのだと認めたいのかもしれない。
 帰還した時、千歳が何となくぎこちなく見えたのは、長年研究に使っていた書物を再び手にできたことに感慨深くなっていたのだと千歳は言った。
 話を理解した雨龍は、秋水の元へ行くとおもむろに後ろからがばりと抱きついた。

「秋水!あんた最高!それからなんか本当ごめん!」
「ちょ、ちょっと!雨龍さんいきなり何なんですか、突然謝られても理由がわかりませんよ!!公衆の場です止めて下さい!」
「素直じゃないなー!」
「何を言っているんですか、ああ、もう眼鏡がずれます!指紋がつく!」

 やいのやいのと騒ぐ様を、木綿と暦と千歳が顔を見合わせ笑っている。
 丁度その時、桜花と息吹、初穂が帰還し、またこれから任へ赴く速鳥とホロウ、那木、そして飲み仲間の雨龍を誘う為に富嶽と相馬が現れた。富嶽と相馬に至っては軽く出来上がっている様子で若干酒臭く一段と声が大きい。本部は一気に賑やかになった。
 秋水の書斎から溢れ出さんばかりの書物に皆興味津々だ。那木は見慣れぬ本に心を奪われ、息吹は、積まれた一冊を手に取り中をぺらりとめくると、春画は無いのかなどと軽口をたたく。そんなものここには無いですよ。と答える秋水に息吹は更に食いついた。

「ここにはない、ってことはどこかにはあるんだな」
「息吹さん、いいですか。今千歳さんと整理している途中なんですから、あまり乱雑に扱わないでください。ああもう、ホロウさんも、物を食べながら本に触れるのは止めて下さい!」

 ホロウは今から任へ行くと言うのに、早速弁当箱をこの場で広げていた。中身はおはぎだったようだ。昼間、橘花と共に勝手方の女中からおはぎづくりを教わっていたらしい。

「そろそろ、皆さんにも橘花がおはぎを持ってくるかと思います。秋水も食べられますよ。よかったですね」
「…それはどうもありがとうございます」

 秋水が勝手気ままに騒ぐ面々に翻弄されている間、千歳は彼の代わりにせっせと作業を進めていた。
 雨龍は、馴染みの本を胸まで抱えた千歳のその半分を貰い受ける。俯き加減の彼女は礼を言うと、騒がしいモノノフたちをただただ見つめた。少しだけ頬を赤らめると優しくふわりと笑った。

「雨龍、私は…今とても楽しい」

 雨龍は黙って頷いた。本を広げていた那木と初穂が千歳を呼んでいる。彼女の本を広げている様子だ。古文書は読めない文字も多いのだろう。千歳は「しようのない…」と言って困りながらもはにかんで彼らの元へと駆けていく。雨龍は預かった本を、一冊ずつ丁寧に秋水の書棚へと納めた。

 あまりの騒がしさを不思議に思い、本部を覗いたウタカタのお頭は、困ったものだと嬉しそうなため息をついていた。