あこがれ
夜間任務を終え、雪乃は本部を出ると力が抜け入口付近にしゃがみこんだ。辺りは既に真っ暗、丑三つ時だ。虫の声も聞こえず里は水を打ったように静まり返っている。膝を抱え深くため息をついた。先般、ヌエの群れを討伐中だった別働隊に加勢したのは良かったが、雪乃は判断を誤り、率いていた隊員を負傷させてしまった。幸いにも隊員は大事には至らず、案じる雪乃へ笑みを返してくれたものの、傷を負った肩を手で抑え、痛みに顔をしかめる様にはやはり胸が締め付けられた。
戦線では隊長の状況判断に皆の生死が掛かっているというのに、的確な指示が出せなかった事に悔しさがこみ上げる。悔やんでも仕方のない事、切り替えなければと頭では分かってはいても、職務の失敗というのはなかなかどうして尾を引いてしまう。膝に額を付け暫くそのまま留まっていたかった。狭い家に一人居ることを躊躇われ帰りたくなかった。
星が綺麗だななどと考えぼんやり空を仰いでいると、禊場の方から足音が聞こえた。はっとして振り向けば相馬だった。うつむき加減で手ぬぐいをごしごしと頭にあて視界が遮られているせいか、雪乃にはまだ気がつかない。単衣姿を見るに、先程執務を終えたのだろう。まだ少し湿った髪をかき上げた相馬は、雪乃が視界に入るなり一瞬たじろいで歩みを止めた。
「なんだ驚いたぞ。どうしたんだそんな所で。今帰りか」
「こんばんわ。はい、今終えました」
雪乃はいつも底抜けに明るいが、普段と様子が違うことを察したらしい。相馬は隣にいいかと断り、腰を下ろした。首にかけた手ぬぐいをきゅっと首の前で結んだ。着物の袖を捲り上げれば逞しい腕が露わになった。
「何かあったのか。元気が無いように見える」
「…わかります?」
「当たり前だ。いつも見ているからな。どうした。俺で良ければ話してみろ」
相馬は雪乃に笑みを向けた。無防備な相馬が普段よりも表情が柔らかく映るのは気の所為だろうか。まるで近所のお兄ちゃんといった具合だが、普段の彼も頼りがいのある、仲間思いの霊山百鬼隊長だ。雪乃にとっては隊長の先輩である。
雪乃は任務での出来事を話した。相馬は黙って聞いてくれたが、雪乃は堪えていたものがぶわりと顔を駆け上がり我慢できなかった。悔しさは頬を伝いこぼれ落ちる。鼻をすする音を相馬は笑い飛ばすと、雪乃の肩を少々強引に抱き寄せ頭を揺さぶった。
「よし、こっちにこい。そうめそめそとするな!美人が台無しだ!」
雪乃はずっと不安を抱え隊員を率いていた。紅月のように皆へ気配りができているか、八雲のように規律を重んじいざという時かぐやを第一に考えて行動できるか、刀也のようにどっしりと構え隊を導けるか──
雪乃が一番にあこがれる相馬は、じっくり考えるよりもまずは行動するそんな人間だった。だからあの時は少しだけ真似てみたかったのかもしれない。仲間を呼び、増えるヌエの群れくらいは朝飯前だと少々高をくくっていたのだ。だが結果は言わずもがなだ。あの場に相馬が居たならどう判断し隊員に指示を出しただろうか。憧れの相馬にはまだ遠く及ばない現実と、改めて未熟さを痛感した雪乃はあやされ益々涙が止まらなかった。とうとう肩口に目頭を押し付け嗚咽する。禊場から出てきたばかりだと言うのに、相馬は嫌な顔ひとつせず雪乃の背を撫でてくれた。
どのくらいそうしていただろうか。緩く風が抜けるのを感じ雪乃はようやく顔を上げた。眼前の相馬はにこにこと笑ったままだ。「すっきりしたか」と呟くと濡れた頬に親指を這わす。露骨に羞恥が顔に出た。目をそらそうとする雪乃の頬を相馬は両手で掴み、己の方へと向かせるとすっと人差し指を立てた。
「雪乃いいか、お前は少し抱え込みすぎる。責任感と正義感が強い現れだろう。だがな、この里にはモノノフが大勢いるんだ。いつでも雪乃の言葉に耳を傾ける者はいるぞ。紅月は勿論、他の隊長連中やあいつらだってそうさ。…それから、俺もな」
「相馬さん…」
「さっきも言っただろう。いつも見ていると。だから遠慮せず頼れ頼れ!」
相馬は口を開けて腹から笑うと、雪乃の肩を二度ほど叩いた。気遣いには嬉しい以外の言葉がみつからなかった。萎んでいた自信も少しずつ持ち直している気がした。相馬はこうして戦場でも隊員を励まし鼓舞している。それは圧倒的に不利な状況でもどんな死線をも乗り越え、戦況を覆す。雪乃もそんな隊長になりたいのだ。
「なんだ、俺の顔になにかついてるか?」
「いいえ、不躾にすみません。明日、負傷した隊員の御見舞に行こうと思います」
「それがいい」
雪乃は立ち上がると相馬に頭を下げた。相馬は腕を組み満足気に頷いている。
「ありがとうございました。私、相馬さんのような隊長が憧れです、目標です」
相馬は「急に何だ…」と言って少々照れた様子で頭の後ろをかいた。首にかけていた手ぬぐいをするりと取り口元に押し付けた。
「まあだが、英雄の俺を超えるのは骨が折れるぞ」
「見ていて下さい!私やってやります!」
「ったく、調子のいいやつめ。さあ、早く帰って休め」
「はい、おやすみなさい」
雪乃は背を向け足取りは軽く自宅へ向かう。
後姿を見つめる百鬼隊隊長が「いつでも目が離せないに決っているだろう…」などと秘めたる心を知るのは、無数に瞬く星だけだった。