愛月撤灯
禁装を身に着けた柚は、初穂が練った策を何度も頭の中で反芻していた。禁軍に扮し、里へ帰還する。そして悟られぬように情報収集をし仲間の救出に加え、識と禁軍から里を奪還する為の足がかりとする――…。門をくぐってから、紅月たちの開放へ至るまでの筋書きをしっかりと頭に叩きこんだ柚は、少し露出の多い禁軍の装束に身を包んでも、手足が思うように動くかどうか、腕を上げたりおろしたり、膝を曲げて立ったり座ったりした。緊張のせいだろうか。妙に息苦しさを感じ、鼓動が高鳴り体が熱くなっているのを感じていた。これまでにも戦前の緊張から、体が火照ることはあったが、しかし今日に限ってはただ一心に、鬼を狩る為の禁軍装備を脱ぎ去りたい衝動に駆られたのである。体全体が益々熱に浮かされた気分になっていた。
禁軍の装備は元々、鬼の強力な力を封じ込め、瘴気から身を守る代物であり、防具そのものに鬼の力を宿した魔道具の様な代物とは聞いていたが、身につけ、時間が経つに連れ、痺れるような感覚が続く事に次第に疑問が湧き始めた。一体何を考えてこんな物を作ったのか理解に苦しむ。
鬼の自己増殖の力、或いは、その生命力によるものなのか、絶え間なく体が疼いてしょうがないのだ。防具は肌を舐めるように密着し、劣情がうねるように体の中をのたうち回っているのを認めざるを得ない。禁軍の兵らはどうやってこれらを跳ね除けているのか、それだけでも知りたいと思うも後の祭りである。
しかし、マホロバ奪還の為、捕縛された皆を救出するには、再び里に戻り禁軍の陣所へ潜入するよりほかに無い。初穂が自らの追ってを返り討ちにし、危険を承知で手に入れた装備のおかげで作戦を立てることができたのだ。与えられた役目を遂行しなければ、そして、里を識の手中から開放するためにも一刻も早く行動に移さねば手遅れに成ってしまう。
禁装に身を包んだ柚は必死で息を整えつつ、空き家の柱を支えにようやく立ちあがることができた。体を冷やせばなんとか自制を保つことができるのではと考え、かまど脇にあった水瓶に手を掛けた。ところが生憎中は空っぽだ。長年人の寄り付かない蜘蛛の巣だらけの空き家では当然のことである。水瓶から手を離すと、空の瓶はごろりと転がった。しかしもとの位置に戻す気も回らない。もどかしい苦しさを発散する術を欲し、柚は下唇をぎゅっと噛んで土間から外の池を目指した。
ここ緑の寄る辺は、砂漠地帯の中で唯一の緑地があり、その源は湧水する清らかな池だ。やっとの思いで淵にたどり着いた柚は、気丈を保つよう言い聞かせ手を伸ばした。ひたりと指の腹が水面触れ顔を着けようとした時、背後で、建屋の奥から名を呼ばれていた。
「柚、妙な物音がしたが、大丈夫か?」
声の主は相馬だった。
マホロバ奪還作戦へ向け、里内の禁軍陣所に乗り込む役目は柚と相馬が請け負った。初穂が、入手した禁軍の装備は男女それぞれ一式ずつで、一着は柚が着用し、もう一着は相馬が着る手はずとなったのだ。
相馬は不穏な物音に、着替えている柚の様子を伺いに来たらしい。気を使ってか、空き家の戸をあけること無く、いまだ入り口から彼は入っては来ない。柚は大丈夫だと声を張って返答するも、僅かに震え上ずっていた。それが余計に相馬を心配させたらしい。「すまん、入るぞ」と、相馬は意を決した様子で戸を開け中へ入ってきた。開け放たれた土間勝手口の正面、その奥の池の淵に膝をつく柚を見て一目散に駆け寄ってくる。禁装に身を包みぐったりする柚を、相馬は後ろから慌てて抱きかかえ、顔を覗き込んだ。
「どうした…。具合でも悪いのか。いや、昼間のハクメンソウズか。濃い瘴気の影響かもしれん」
「違うの、相馬…。私全然、本当になんともない…」
「なんとも無いわけがあるか。顔も赤い。熱でもあるんだろう。今すぐ初穂に ――」
相馬は手のひらを額にあてがった。柚は避ける様に首を左右に振り、相馬の着物の袖をギュッと握った。着物皺に埋もれた手は震えている。暫く駄々をこねる様にして相馬の肩口に額を押し付けていた柚は、ゆっくりと顔を上げた。吐息は艶を含み、まるで何かを懇願するその様子に、相馬は、己にだけにしか見せない彼女の姿で有る事にようやく気がついた。瘴気に当てられた訳でもない、怪我を訴える様子でもない。僅かな行灯の明かり、囲炉裏の残り火、真っ黒に濡れた瞳、と、幾度となく交わった閨事でしか見ない夜の彼女がふいに蘇っていた。
「今、私おかしくて、多分この装束のせいだと思う…、」
はあ、と出た吐息に相馬は己を律した。禁装はくっきりと柚の体の線を形取り、太腿に這う赤い紐が何故か忌々しく映る。ひとまず、相馬は重そうな腰当てを取ることにした。柚を抱え、ボロ屋に寝かすにしても邪魔になると思ったからだ。一言断ると、従順に柚は首を縦に振る。腰当ては紐を解けばすぐに外れた。足が顕になる。繻子の生地でできた当て布が余計に艶が帯びて見えた。
「自力で立ち上がれるか」
柚は問われ、頷くと相馬の手を借りて立ち上がった。しかし今にも膝から崩れそうな塩梅だ。足元はおぼつかず、鬼を前にした凛々しさは微塵も感じられない。しかし里奪還作戦は否が応でも遂行しなければならない。この機を逃してしまえば後手に周り戦況は益々悪化する。柚だけこの場に置いていくか、はたまた柚を時継たちに任せ、自分だけが乗り込むか…等々、様々な状況を思案していたからか、相馬は足元の岩に気が付かなかった。土間への入口付近、割れた樽の側にある大きめの丸い石に躓いたのだ。支える柚の身を守ろうと咄嗟に彼女の腕を引いた。後ろから倒れ、背に痛みが走るも然程大した事はなく、ほっと息をついた。相馬は、胸の上で縮こまる柚を案じた。が、柚の返事は無い。今一度彼女の名を呼ぶと、柚の頬には涙が伝っていた。
「相馬、私自分が情けない…」
「気にするな。今のお前の姿は俺しか見ていない。それに、禁装は古くからの装束だ。物の出来にはバラ付きも多い。お前の装束はたまたま鬼の力が大きかったと思えばいい」
相馬の言葉に、柚は安堵するもしかし、この状態で任をまともに遂行できるはずもない。それは柚も相馬も分かっていた。選択肢は一つしか無い。背徳感に苛まれつつも相馬は起き上がり、柚を戸枠に預け覆いかぶさるように壁に手をついた。覗き込めば柚は自然と目を閉じる。最初は軽く触れるだけの口吻は、息を継ぐ間もなく深くなった。
「相馬っ…」
「声は、我慢しろ」
相馬は柚の籠手を外し、上着を剥いだ。装束の上から胸に手を這わし首筋に唇を落とす。何日も里を離れていた事もあるが、それ以前に次から次へと起こる問題対処に追われ終ぞ彼女の肌からは遠ざかっていた。そのせいか、相馬自身も箍が外れそうだった。柚に任をきちんと全うして貰う為だともっともらしい理由を並べるも、その実相馬自身の欲も大半を占めている。情欲に逆らうことは柚を前にしては無理な話だった。
柚の苦しさを開放する術を相馬は良く知っていた。求められる事にすぐに応える事もできる。だが触れて欲しい所に相馬は触れてはくれない。焦らす相馬は半分面白がっているようにも思え、柚は自ら装束を脱ぎ始めた。それを前に相馬の方が驚いていた。いつもは恥じらいながら脱ぎ散らかした着物を引っ張ってでも体を隠すからだ。柚は慣れない装備を解くのに手こずっている。相馬はわざと彼女に顔を寄せた。
「手伝おう」
あれよあれよという間に、柚の上半身は薄闇の下にさらされる。相馬は一度抱きかかえると膝を立たせ、手を取り壁に付かせた。促されるままに従うと、相馬は柚の背に舌を這わした。首の裏から腰を目掛けて、真ん中辺りまでざらりとした感覚が届くと僅かに声が漏れそうになる。察してか相馬は煽る様に装束の下へと手を滑らせた。無意識に腰が動き、制する様に相馬はがっしりと左腕を回した。水面に魚が跳ねるような、いやらしい音が耳に届く。口元を手で抑え、されるがまま暫くして柚は気を遣った。地面に倒れそうになる柚を相馬は支え、背中に何度目かの口吻をして、力強く抱きしめた。
「よく我慢したな…。少しは、落ち着いたか」
「うん…。ごめんなさい、相馬」
「謝るな。その分、しっかりと働いて貰おう」
相馬は柚の着替えを手伝った。再び禁装を纏っても、劣情が寄せたり返したりと、胸が苦しくなる感覚は感じられない。不思議なものである。鬼には繁殖行為は確認されていないのに、禁装に閉じ込められた鬼の力はどうも生命力が強く働くらしく、人間には動物的本能を与えてしまうらしい。事を終え、柚は相馬と面と向かうのが気恥ずかしい。
記憶を失くし、マホロバでモノノフとして一から再出発した柚には、一つまた一つと大切なものが増えている。相馬も忘れていた感情を与えてくれたその一人だ。乱れた着物を整える相馬に柚は言った。
「相馬も…、その、困ったら、言って…」
そう告げると、柚は小走りにボロ屋へ入った。聞こえるか聞こえないかの言葉尻だったにも関わらず、相馬の耳にはしっかりと届いていた。目を瞬かせ暫くぽかんとしているも、相馬は「参ったな…」と頭の後ろをかいた。以前、不知火のモノノフに「調子に乗りすぎる」と諫言をもらった事を思い出す。
しかし相馬は「こればかりはな…」と柚への偏愛にため息をつき、登ったばかりの月を見上げた。