暖かい場所

 霊山より特別権限を与えられた禁軍は、里々を自由に行きしその特権を行使するモノノフの中でも特殊な部隊だ。
 北の地で霊山への反逆が疑われれば出向き、南の地で鬼丿府の名を使い私欲の限りを尽くす者がいれば罰する。鬼を主に狩るモノノフとは違い、鬼丿府の品格や尊厳を著しく阻害するような輩を監視、処罰するのが仕事である。鬼と戦うのは半分おまけのようなもの…とは、雷蔵の上官、識の口癖だ。

 霊山を離れて早三ヶ月が経ち、ようやく本部から帰投命令が下された。別部隊と任務交代の為だ。
 出立したのは盛夏の頃、右を見ても左を見ても青々としていた景色はすっかり枯れ色となり、金色の稲穂が頭を垂れる風景には秋の訪れを感じていた。人々の身なりも厚手の着物に代わり、すれ違う人々は襟をかき抱いて腕を組み、吐息は外気に触れ白くなる。朝晩は冷え込み、土の上にもうっすらと霜が降り立つ近頃は、どうも人肌恋しい。

 実は雷蔵には、菜穂という同居人が居る。「お前は殆ど家には居ないだろうから、宿舎の修繕が終わるまで住まわせてやれ」と、半ば識に押し付けられた様な同居人だった。四十を過ぎた男と住まうなど嫌だろうと思っていたが、短期間ならばと彼女は然程気にせず、風呂敷包みを抱えてやってきたのである。なんでも昔、識の研究の助手だったと聞くが…、詳しい事は良くわからない。
 現在の彼女は霊山のモノノフ隊員だ。招集が掛かれば真っ先に駆けつけ鬼に立ち向かい、宿直の当番の夜は岩屋戸を警護する。責任感があり、仲間思いでもあり、無駄のない仕事運びには上からの評価も高い。

 ただ、そんな彼女でもどうしても苦手なものはあった。

 雷蔵が長期任務の間、菜穂は云わば雷蔵の家守りをしてくれた。雷蔵の代わりに郵便物や荷物を受け取り、家の掃除をし、いつでも雷蔵が気持ちよく帰って来れるようにと日頃から雷蔵の世話を焼き、尽くしてくれるのだが、彼女は家事炊事が下手くそだった。
 段取り八分という言葉がある。大体の仕事は段取り良く行えば八割方は完了したも同然というような意味合いだが、彼女は仕事ではそれができても、掃除、炊事に於いてはめっぽう手際も段取りも悪かった。頭よりも先に身体が動く性分だからか、検討を付けて日に一箇所ずつの掃除で良いのに、手当たり次第に掃除を始めるのでいつの間にか様々な種類の掃除用具が散乱する。また、炊事の間に掃除をしているのが余計に事態を悪化させているのだ。掃除に集中し過ぎて鍋は焦がすし、その間火の番をしないのでかまどの火を落としてしまい、生米だったこともあった。「私将来お嫁さんになれるんでしょうか…」と雷蔵に泣き言を言ったのは記憶に新しい。
 今回、そんな菜穂がどのように張り切って雷蔵を出迎えてくれるのか、本人には口が裂けても言えないが正直雷蔵は予想だにしない彼女の行動が楽しみだったりもする。
 霊山の門をくぐり、申し送りを終え雷蔵は自宅を目指した。戸を開け「帰ったぞ」と中へ入ると菜穂の声が響き渡った。

「お帰りなさい!」
「おう、元気にしてたか」
「はい!」

 毎回、出迎えてくれる彼女はほぼほぼ慌てふためいて出てくるが、今日の彼女は随分と自信満々な様子で玄関に立っていた。なかなか胸を張っている。

「随分だったな。しっかしまあ…えらく晴れ晴れとした顔してんじゃねえか」

 どうしたんだ。と雷蔵は笑んで土産を預けた。はてさてまた夜な夜な共に掃除をすべきか、といつもの調子で家の中を見渡したが心底驚いた。数ヶ月前までの惨劇は収束したかのように、不器用でおっちょこちょいな痕跡は跡形も無く、部屋は整頓され清潔に保たれている。壊れているものもないし、かまども焦げた様子はなく、掛けられた鍋からは良い匂いが炊事場に漂っていた。僅かな炭火は上手に維持され、本来のかまどのあり方を只今お目に掛かっている。雷蔵は豆鉄砲を食らったような表情でしばし言葉を忘れていると、彼女は不服そうに腕を組んで雷蔵を見上げていた。

「そんなに驚きましたか…?」
「あったりめえだ。何か変なもんでも食ったのか」
「食べてません!ちゃんと夕食の支度も出来てるんですよ。早く着替えて召し上がって下さい」
「お、おう…」

 彼女が努力家であるのは十分に知り得ているが、こんな短期間で苦手を克服できるものなのだろうか。疑問が湧いたと同時に雷蔵の頭の中では様々な推察が駆け巡っていた。
 留守の間に家事等の一切を仲間たちに教わったのかもしれない、或いはこれだけの上達だ。良い男ができたのでは…と考えた。亡き西歌が生前、言っていたのだ。女は好いた男ができるとそれはもう、見違えるような変貌を遂げるのだと。

 雷蔵はかまどに向かう彼女の後ろ姿をよくよく観察してみた。
 単の普段着用の着物は、品よく楓が枝葉を伸ばしている。いつだったか、非番の折、雷蔵と共に反物屋で選んだ柄で今では一番のお気に入りだと、菜穂はそう言ってくれていた。肩には帯と同じ色の紅いたすきを掛け、袖口から覗いた白い腕は椀に汁をよそっている。土間の薄暗い空間に真っ直ぐに伸びた腕は少々艶かしく映る。健康的な体躯、引き締まった体の線、帯の下端から腰のあたりは見ない間に一層色香が増した気がしていた。菜穂の着物の下を想像したことは無いと言えば嘘になる。
 果たしてこの三月の間、彼女にどのような心境の変化があったのか、今晩問いたださずには居られなかった。場合によっては、雷蔵は彼女との共同生活をやめねばならないかもしれない。そもそも、宿舎の修繕が終わったなら菜穂は雷蔵宅から引き上げるという約束だった。それがいつの間にか一月伸び、二月伸び、かれこれ約束を半年以上も過ぎていたのだ。菜穂は優しいから、独り者を放っておけなかったのだろうか。或いは恩義を感じて世話を焼いているのかも知れない。お世辞にも四十を過ぎた男とひとつ屋根の下で暮らすことは菜穂にとっても良い環境とは言えない。
 美味しそうな手料理が囲炉裏の周りに並べられ、温かな火を囲み二人で手を合わせる。これだけの献立を考えるのにも苦労しただろう。雷蔵は小鉢の和え物を食んだ。

「こりゃ、美味いな。随分精進したじゃねえか。きっといい嫁さんになれる」
「本当ですかっ?!」

 目をきらきらさせ、彼女は嬉しそうに雷蔵の方へ身を乗り出した。

「実は百鬼隊の相馬隊長に料理を教わったんです」
「相馬…?イツクサの英雄か」
「はい!流石にお一人での異界暮らしが長いこともあって、色々と教えていただきました」

 嬉しそうに話す菜穂を見て、雷蔵は決心がついていた。切り出すなら今しかないと思った。手にしていた小鉢を置き、「菜穂」と呼ぶ。神妙な面持ちで向き直る雷蔵に、菜穂は不思議がって首を傾げた。

「前々から考えていたんだが、宿舎の修繕は大分前に終わったろう」
「…はい?」
「そろそろ、帰ったらどうだ。いつまでもおっさんの世話なんかしてねえで、たまには若えもんと飲みにでもいけばいい。おめえは優しいからな、世話になった分まで気を遣ってくれてるんだろうが…」

 雷蔵が顔を上げると菜穂は最初は驚いた様子だったが、次第に顔が歪んでいた。下唇を少し噛むと「違います…」と、呟いて俯く。膝の上ではぎゅっと楓が握られていた。

「ただ雷蔵様に喜んで頂きたくて…。私一緒に住むのは嫌じゃないんです。本当は――」

 菜穂も、最後の言葉は口に出すつもりはなかったのだろう。思わず出てしまったと慌てて両手で口を塞ぎ、真っ赤になった顔を反らした。だが驚いたのは雷蔵の方だ。これまで恩を感じているだけだとばかり思っていた。最後の消え入るような言葉が菜穂の本心であるなら、信じて良いだろうか。自分の娘でも無い、女でも無い、これまでずっと宙ぶらりんだった感情を掴んで、雷蔵は背を向ける菜穂の側へ腰をおろした。僅かに肩を震わせている。言ってはいけない、伝えてはならない事だったと自責の念にかられているのだろう。だが、こんな短期間で雷蔵の為に家事の腕を磨いてくれる娘が側に居るのだ。応えなければ男がすたる。
 雷蔵は、菜穂の後ろから腕を回して力いっぱいに抱き寄せた。腕の中で強張っていた菜穂は次第に身体を預けるようにして緊張を解いてくれた。雷蔵は顔を寄せ呟いた。

「すまねえな。今まで、その…気づいてやれなくて。俺もお前に側に居て欲しいと思ってる」

 回した雷蔵の腕に菜穂の手がそっと触れると、お互いに向き合った。目に涙をいっぱいに溜めながら菜穂は嬉しそうに破顔して、大きな背中にしがみつくように抱きついた。菜穂の肩口で「あったけえな」と囁くとどちらからともなく惹かれ合い二人は口づけを交わした。

 後に、参番隊隊長から冷やかしに合ったとか、合わなかったとか。