風は いつも

 倭人船跡地の船内調査に訪れた有紀は、あまりの瘴気の濃さに思わず口と鼻に腕を押さえ付けていた。
 絶壁に囲まれた入り組んだ道々にはワイラの普通種と黄泉種とが体をくねらせ地面を這っているが、この濃さは小型鬼が放出する瘴気量ではない。間違いなく大型鬼が鳴りを潜めている気配を感じる。しかし現在地点からその姿は目視できなかった。
 今回の目的は、倭人船内の異世界漂流物の捜索だ。同行しているのは、有紀をはじめ椿、神無、時継の四人だったが……。隊長ともあろう者、有紀はいつもの方向音痴を遺憾なく発揮し、彼らとはぐれてしまったのである。しかし、然程焦りはなかった。なぜならモノノフの強い味方、鬼の手がある限り遠隔地であっても連絡を取り合うことができるからだ。
 先程時継に話しかけた所、目的地は同じなのだから現場に揃うまでは待機していろこのスットコドッコイ。と諫言を貰った。

 しかし現状、有紀が一足先に目的地に到着してみれば、周囲は瘴気が濃くあまり長居できる余裕もない。この状況では、船内探索は四半刻も持たないだろうし、大型鬼の気配もあれば尚のこと悠長に探索していては危険だ。
 斥候よろしく現場の様子を確認し、今此方に向かっているであろう椿たちへ、一度退却を命じた方が懸命である。
 そう考え、有紀は一度跳界石のある場所まで引き返すべく踵を返し、手首に声をかけようとした。
 その時、朽ちた大型船の船体に轟音を立て何かがぶつかった。咄嗟に物陰に隠れ、背に嫌な汗が伝うのを感じながらも舞い上がる土煙に目を凝らした。
 少しずつ視界がひらけてくる。
 生唾を飲み込み息を殺した。
 地響きとともにぬっと現れたのはゴウエンマだった。鋭い鋲がついたような長く重厚な尾は船腹を穿ち、衝撃で周囲の崖からはぱらぱらと小石が零れてくる。今に有紀の頭上の壁面も崩れそうだ。亀裂が縦に伸び軋んだ音を発している。非常にまずい。一人でゴウエンマとやりあうにはこの悪状況では分が悪すぎた。
 有紀は声を抑えつつ状況を報せるため鬼の手に呼びかけた。ところが迅速な退避を唱えるも、鬼の手からは返事がない。青い石を指で叩いてみてもうんともすんとも反応しなかった。一気に汗が吹き出した。

(…故障?こんな時に!!)

 椿たちは今此方へ向かっている筈だ。皆が到着すれば、ゴウエンマを仕留めるには充分だがしかし、それ迄有紀一人で持ちこたえられるかは未知だ。瘴気の問題もある、周辺にはワイラがうじゃうじゃ徘徊している。気づかれれば標的を一気に引き受けることとなる。

 ── いやしかし、やってみなければ分からない。

 この待ち合わせ場所から一人離れるわけには行かなかった。有紀一人が持ち場を離れても、椿たちが到着したなら交戦になる。連絡手段を絶たれた今、最善策は彼らを待ちゴウエンマを討つそれしかない。
 あとどのくらいで椿たちが到着するかは分からないがそれまでの辛抱だった。有紀は覚悟を決め、得物に手を伸ばした。

 ゴウエンマはいまだ有紀に気がついていないらしく、のっそりと巨体を揺らしうろいている。
 一方で、有紀の気配にいち早く騒ぎ始めたのはワイラだった。背丈も同じ程ともなれば、一番に視界に入りやすい。裂けたような口端を益々釣り上げ、ワイラは有紀にじりじりと近づいてくる。
 虎穴でひと薙ぎすれば、二撃目で仕留められる筈だった。精神を集中しその時を待つ、ワイラの鎌がひゅっと振り上げられた瞬間有紀は抜刀した。完璧な一振りは二重三重と囲んでいたワイラを尽く地へ伏せた。が、息をつく間もなく、ゴウエンマが不穏を感じ此方に気づいてしまった。
 歪な太さの右腕を高々と掲げ、有紀へ突進してくる。
 背は倭人船の瓦礫と絶壁だ。逃げ場は左右のどちらかしかない。
 呻き声を上げ、豪炎を纏った腕が頭上の視界を遮る。体を地面に投げ出し、有紀はごろりと転がりながら避けた。斜面を勢い良く滑った先には岩がある。それに気づくも遅かった。体は止まるも思い切り背を打つけ、息もできない程の激痛が全身を襲う。逃げようにも手足は痺れ立ち上がることができない。それでもゴウエンマは数多の魂を宿す有紀を前によだれを垂らしている。
 有紀の刀は手が届くか届かないかの場所に落ち、指先が触れるだけだった。地響きを立て、ゴウエンマとの距離は狭まる。覆いかぶさる巨体に覚悟を決めた時、椿の声が響いた。

「有紀っ!」

 彼女の声と共に、槍は矢の如く横切り、ゴウエンマの腕は吹き飛んだ。悶えるゴウエンマにその後方から時継が集中砲火を浴びせ、更に神無が瞬速の抜刀で足を千切る。倒れたゴウエンマは仰向けになるも最後は三人の鬼の手が、足と尾を握りつぶすように葬り、ゴウエンマは動かなくなった。遺骸からはしゅうと黒い煤が舞いあがるようにして穢れが浮遊している。無事浄化に至ると、椿が倒れる有紀へと一目散に駆けてきた。
 ごつごつと凹凸の激しい硬い地面を転がったせいか、有紀は手足顔とあちこち傷だらけだ。
 傷に血滲む様子を見、椿はわなわなと口を震わせている。必死に堪える様に有紀は後ろめたい気持ちになった。主計の件以来、椿の決意を充分わかっていたにも関わらず、隊長自ら再び彼女に辛い想いをさせるとは情けない。

「有紀、なに、やってるのよ!!こんな無茶して!逃げても誰も何も言わないわ!」
「ご、ごめん…。皆と入れ替わりだったら、尚更危ないと思って…」

 時継は有紀の体に何度も視線を這わせ、外傷を見た。詰まるような声に、所見は芳しくないと分かる。

「こりゃ…お前、今相当あちこち痛えだろ。すぐ帰るぞ。おい神無、頼めるか」
「ああ、任せておけ。おぶってやる」

 神無がしゃがむと、椿は有紀に肩を貸し、ゆっくり体を持ち上げて神無の背に乗せた。立ち上がるとその揺れですら骨に響くような痛みが走る。顔をしかめる有紀に、椿は少し我慢してね。と励ました。

 里に到着した有紀はカラクリ研究所に搬送されすぐに博士の治療を受けた。
 治療台にうつ伏せになった半裸の背には、青い痣が幾つもでき、うっ血した箇所は腫れ上がっている。博士は傷口を消毒しながら、有紀の鬼の手に生じた不具合を詫びた。

「いいえ…、私も少し油断していたので…」
「しかし、逃げれば良かったものを」
「あははは…。椿にも同じこと言われました」
「責任感が強いのは結構だが、助手が居なくなってしまうと私の研究にも響くんだぞ。今後は十分立場を弁えるように」

 何かしらの金属の蓋がかちゃりと閉じられると、博士は終わったぞと言って有紀の背中を軽く叩いた。小さな呻き声を上げ、博士を見遣ると少しばかり覇気無い笑みを浮かべている。それが余計に胸に響いた。有紀は痛みにしかめつつも笑って返し、ぐっと枕に顔を埋めた。
 博士が治療室から出ていくと、有紀の負傷を聞きつけ紅月が心配し訪ねてきてくれたらしい。扉の向こうからは有紀を案じる紅月の声が聞こえる。博士は面会は明日以降で頼むと断っていた。人と話すくらい大した事は無いのだが、彼女なりの気遣いだろう。

 博士も出会った当初に比べれば随分と丸くなったように感じていた。こんな事を面と向かって言えば、容赦なく繰鬼を繰り出してくるに違いないので絶対に本人の前では口にしない。しかしどこか一匹狼的で、全く隙のない博士が以前にも増して気遣ってくれることに、胸が暖かくなるのを感じていた。

 翌日から、有紀の見舞いだと言って前カラクリ部隊の面々が入れ替わり立ち替わりで訪れ、最近の研究室は騒がしい事この上ない。
 背中の怪我が意外にも長引きそうな有紀は、ろくに腕も動かすことが出来ず、毎日三食、人の手を借りねば食事も取れなかった。
 初日から数日、グウェンが食事を手伝ってくれているが、彼女が任務に出かけている間は椿や真鶴がその役を買って出てくれた。
 とはいえ、随分気恥ずかしいものがある。痛みを堪える有紀に、正面から椿や真鶴が「はい、あーんして」などと言って、雛に餌をやる親鳥が如く、子をあやすように接してくるのだ。
 美人二人に手取り足取り、日常生活を手助けされる今の状況は控えめに言って女の有紀でもどきりとする場面がある。男性諸君であれば尚の事美味しい思いなのだろうが、椿は「今更何照れてんのよ」と言って笑い飛ばしていた。
 真鶴に至っては幼い頃の神無も大変手が掛かったなどと、兄妹の昔歳を話してくれる。サムライ部隊が出来る前の、外様の二人の過去を知る機会がある状況は以前では想像もつかなかった事だ。
 そうして噂をすれば、神無が焔と共に見舞いに訪れた。が、神無の様子が少しおかしかった。何処と無いぎこちなさを不思議に思うも、有紀は里まで運んでくれた礼を言った。

「神無、この間はおぶってくれてありがとう」
「…いや、気にしなくていい」

 しかめっ面の隣に佇む焔は、何故だか一人得意気な様子だ。ちぐはぐな二人の表情に首をかしげると、神無は大きな籐の籠をずいと差し出した。少々重そうなそれには何かが入っているらしい。有紀は尋ねた。

「うん?これは?」
「…い、いいから、さっさとあけろ」

 籠のふたをひょいと持ち上げると、中からは白いもふもふとしたものが入っていた。入口から顔を覗かせキュイとひと鳴きする。瞬間、籠を持つ神無の腕が震え、籠ががくりと下がった。天狐嫌いの彼の厚意に驚くも、神無は「さっさと受け取れ…!」と顔を強張らせた。
 焔は神無の肩に腕を乗せけらけらと笑っている。恐らくここに来るまでに神無は清水の舞台から飛び降りる程の覚悟だったに違いない。焔は必死に笑いを堪えていたらしく目尻を拭っていた。

「こいつがよ、お前が何が一番喜ぶかって言い出すもんだから、家で飼ってる天狐じゃね?って冗談で言ったら、かごに入れるの手伝えってよ。ありゃ見ものだったぜ」
「き、貴様!冗談で言っていたのか…!俺がどれほど…、どれほど、心頭滅却して捕まえたと思っている…!」
「そりゃ…素直に俺様を信じる方がわりい」
「なん、だと…!」

 表に出ろ!と神無の剣幕を他所に、真鶴は有紀に抱かれる天狐に心を奪われていた。
 椿は騒ぎ始めた神無と焔に小言を言っているが、二人はひとつも聞く耳を持たない。
 焔がちょっかいを出しては、神無がまともに相手をする。そんな光景は近頃日常茶飯事である。「いつになったら学習するのかしらね」とごちた椿は仲裁を諦めまた部屋に戻ってきた。天狐に心酔する真鶴に、苦笑いをしている。
 愛おしそうに天狐を撫でる様子に、有紀は一つ思いついた。

「真鶴、もしよければ天狐を預かって貰えない?私まだ暫くはここに居なきゃならないだろうし…」

 基本放し飼いだが、飼われる天狐は寂しがることもある。有紀の言葉に真鶴は嬉しそうに相好を崩した。

「い、いいのか」
「うん。是非よろしくお願いします」
「よし、わかった。私が責任を持って、世話をする…。引き受けた」

 賑やかに歓談する間に、任務から戻ったグウェンが、有紀の部屋に明かりを灯しにやってきた。すっかり外は暮れ始めていた。
 真鶴は天狐を抱くと「そろそろ暇する」と言って、椿と天狐とともに部屋を出る。有紀は二人を見送る為グウェンに支えて貰い、玄関まで出た。
 庭先では、神無と焔がいつの間にか手合わせに興じている所だった。仲が良いのか悪いのかと椿はため息をつくも、有紀と同じく前者を思っているだろう。

「それじゃあ、有紀。また明日来るわね。ちゃんと博士の言うこと聞いて、睡眠しっかり取るのよ」
「天狐のことは心配するな…」
「うん、二人ともありがとう。また明日」

 有紀は手を振り二人を見送った。
 真鶴は神無に「帰るぞ」と声を掛けている。流石に神無も姉の言葉には従うらしい。焔との手合わせを切り上げ、後をついていく。焔も仕方なしに同じ帰路を辿った。
 真鶴は、今晩の献立を椿と焔にたずねていた。「またぶっかけご飯かしらね!」と椿は言い、焔は久音の店に行こうと考えていたらしい。それを聞いた真鶴は「今晩は一緒に食事をどうだろう」と二人を食卓に誘っていた。なんでもサムライの陣所は今晩、鍋会をするようだ。喜々として椿と焔は返事をしている。
 楽しそうに帰る四人の声は、少しずつ遠ざかっていく。グウェンも夕食の支度をすべく家へ入った。

 今暫く外の風に当たりたかった有紀は、垣根に手をつき濃くなった夕陽が山際に沈む様子を暫く眺めていた。
 緑に囲まれ、清い支流の届く里。鬼の脅威は背後に潜むも、過ぎし日先代お頭西歌が臨んだ里が、今ここにはある。それを噛みしめるように、有紀は大きく深呼吸をした。澄んだ空気を肺に入れると背中にはまだ痛みが走る。何故だかそれが妙におかしい。
 するとなかなか部屋に戻ってこないのを心配してか、いつの間にか傍らには時継が立っていた。

「なんだー、黄昏れてんのかと思ったら、ニヤニヤしたりおかしな奴だな」
「夕陽綺麗だなーと思っただけだよ。あとマホロバの風はいつも気持ちいいなって」
「ハハ、わけわかんねえな」

 博士がたまに、風よ吹けと独り言のように呟いているのを聞く。その言葉の意味はいまいち理解には至らずも、有紀の耳には殊更残っていた。
 初めは、何かのまじないか何かだと思っていたが、今は少しだけ分かった気がするのだ。心地よい風、強い嵐のような風、その多くがこれまでこの丘陵地に運ばれ、様々な物を巻き上げ、吹き抜けてきた。
 騒動が落ち着き紅月がお頭となった今、近衛もサムライも無く日々里の皆が少しずつ助け合って生活を始めている。有紀が少しだけ無茶をしてしまう所も、それらに後押しされているからだ。
 先々、多くの困難が待ち受けるかもしれないが、きっと今のマホロバならどんな障壁も安々と乗り越えられると思うのだ。これからマホロバに吹く風は、きっといつも追い風に違いない。
 皆の手厚い、少々愉快な看病を受けた有紀は、今後も益々隊長職に励もうと心に誓ったのであった。