── 気のせいであれば、それで良い。そう思い、九葉は夜露を避け、霊山はずれの集落へと馬を走らせた。
霊山軍師、九葉。
中つ国でその悪名高き名を知らぬ者はいないだろう。オオマガドキでは最前線で実戦指揮を取った「血塗れの鬼」の異名を持つ壮年軍師である。
隊の指揮官に九葉が任命されたとあらば、彼の部下となる者たちは総じて血の気が引いたとも言われていた。
何しろ九葉の指揮する隊は、まるでザルをひっくり返すかのごとく、鬼の群れに隊員が投じられてしまうとの噂が常よりあったからだ。編成部隊が精鋭の集まりだと霊山君のお墨付きがあっても、帰る者は少なく、また撤退判断が妥当な状況であっても、九葉は頑として最後の最後まで戦線維持をする事で有名だった。その冷酷な判断を以ってして隊員を駒としてしか見ていない ──。そんな噂が後を絶たない軍師だった。誰もが彼を恐ろしく思い、親類を失った悲しみから九葉を大いに憎む者も居た。
オオマガドキが終結し幾年経っても、今だに九葉の周囲には敵が多い。
隊員たちは勿論、彼の采配を良く思わぬ同僚軍師もまた然りである。だが、そんな噂が絶えぬにも関わらず、唯一百鬼隊参番隊は九葉の下で長年任をこなしていた。
百鬼隊はモノノフの中でも腕の立つ選りすぐりの者ばかりだ。故に無理難題にも従えるのだと言う者もいれば、その実彼らには多少なりとも九葉への信頼があるのではないかと茶化す意見もあり、大抵が大きい口を開けて笑っていた。
そのように自身の状況を鑑みれば、九葉が今現在、いやこの数日付け狙われていることも納得が行く。
九葉の日常や私生活を知り、弱みを握らんとする輩は大勢居るのだ。だが九葉は承知の上であり、元より己で防衛線を張るくらい難という事ではなかった。
九葉には妻子がいるが、彼は一日の勤めを終えても自宅へ戻ることはせず、私事私生活は決して他人に喋らなかった。隊員たちと同様、宿舎に寝泊まりをし、遠征の無い時は終日執務室に篭もりきりである。極力余計な事を他人に喋らなかった。
また彼の防衛線はそればかりではない。付け狙われたらただで起きない、それが九葉という人間だ。彼は、万一尾行された場合を考え、予め偽の自宅を霊山郊外に構えているのである。
要は敵を迎撃する為の罠だった。
わざと痴れ者に尾行させ、到着した偽自宅で拘束し、首謀者を吐かせるのである。
偽自宅には九葉の部下、夕霧というモノノフが家守りとして常駐していた。彼女は元々、百鬼隊参番隊に所属し、前線で活躍していたモノノフだったが、肺を患った事により思うように職務が出来なくなってしまった。そこで九葉は彼女に除隊の命を下し、霊山郊外の静かすぎる山間へと追いやった。
参番隊隊長の相馬には、何度も「死ぬまでモノノフとして働かせてやってほしい」と請われたが九葉は首を縦に振らなかった。夕霧も最後まで参番隊に居たいと懇願してきたが、役に立たないと九葉は吐き捨てた。
以降、夕霧は偽の自宅で度々九葉を付け狙う不逞の輩の尋問担当となり、更にはいつの間にか九葉の妾に収まっていた。
きっかけは、少しずつ夕霧の体調が良くなり始めた頃だった。その日はたまたま酒が入っていたせいもあっただろう。或いは父親とそう歳も変わらぬ男を誘う馬鹿な小娘をからかってやろうか、くらいの気持ちだった。
だが彼女は言ったのだ。「例えば今、九葉様に刃を向ける者が現れたなら、私は盾になれると断言できます。病が良くなりました御恩はきちんとお返しする心積もりでございます」と。
夕霧は気づいていたらしいが、職務で死ぬことは厭わないと割り切っていた。本音かどうかは知った事ではないが、その時九葉は乱りに情に流されず己が責務を果たすことができるのならと、彼女を傍らに置くことにしたのである。
とはいえ、会っても月に一度か二度だ。そう頻繁に付け狙われてはたまったものではない。だが、今夜が気のせいであれば、まあそれはそれで良いだろう…と思っていたのである。
偽の自宅は、里山に作られた水路にほど近い小さな庵だった。部屋は土間の他に三間ある。垣根を沿い、馬を引き門扉をくぐると夕霧は就寝するつもりだったのだろう。丁度玄関に出てきて戸締まりをする所だった。九葉が現れたのを見て、瞬時に凛とした顔つきになった。
玄関先でお帰りなさいませと、三指を立て頭を下げれば、九葉は夕霧の耳元に顔を近づけ「気のせいやもしれぬ。詳しい事は不明だ」とだけ告げた。夕霧は門扉の施錠を扮い周囲の気配を探った。気のせいなどでは無かった。暗がりの里路には木々の間に濃い影が二人認められた。
庵の明かりを消せば押し入ってくることも十分に考えられる。寝込みを襲われては堪らない。早々に捕らえねばならなかった。
夕霧は支度をすると、九葉に平伏した。
「九葉様、行って参ります」
「私は腹が減っている。手早く済ますことだ」
「はい、心得ております」
単衣に着替えた九葉は、書見台に視線を落としたまま答えると夕霧は静かに庵を出て行った。
夕霧は気配を消し周辺を調べると、九葉をつけていた二人はすぐに見つかった。帰宅したばかりの軍師が就寝するまでには、今暫く間があるだろうと高を括っていたのだろう。あろうことか、大木の根元に腰を下ろし悠々と握り飯を頬張っていたのだ。夕霧はその場で音なく一人を始末すると、もう一人には経緯を洗いざらい吐かせ、主人の元へと返した。一人返すのは警告の意味が含まれる。
その間僅か四半刻ほどだった。手慣れた任を終えた夕霧は、足取り軽く庵に戻った。
たとえ九葉が訪ねる目的が露払いであったとしても、夕霧にはこの時だけは少しでも大切にしたいと思っている。霊山軍師は日頃から任地を転々とすることを余儀なくされる役職だからだ。
帰宅した夕霧は報告のためすぐに書斎へ向かった。声を掛ければ「ご苦労だった。入れ」と返答がある。襖を引くと九葉は出る前と変わらず書物に視線を落としていた。
「片付いたか」
「はい。どうも雇われた浪人のような連中でした。今後も十分にお気をつけ下さい」
「その時はまた此処に連れてくるとしよう。さて、」
九葉は栞を挟み本を閉じると夕霧に向き直った。だが夕霧は軍師の衣を脱いだ九葉をなかなか直視できない。軍師という仮面越しのやり取りは即座にできても、久方ぶりに慕う人が訪れると近頃は自制を保つ事が困難になりつつある。
本当は、今直ぐ腕を伸ばしたいし触れたいとも思っているが、それを決めるのはいつも九葉だ。主導権は彼にあり、夕霧は従うままである。
膝の上で両手を握り、落ち着かない様子を見た九葉はふっと笑っていた。
「相変わらずよくわからぬ娘だ。最初の頃のように、素直に口に出せば良いものを」
「九葉様が来られた時、それ即ち私にとっての職務です…ので…」
「貴様の是迄の働きに、私が何か注文をつけたことがあるか?」
「いえ…」
「ならばこのままで良いということだ。勤めを果たした後は夕霧が思うままに過ごせばいいだけのこと」
「…ありがとう存じます」
「しかしだ…、夕霧」
そう言った九葉は体を乗り出すと、彼女の手首を取り越しに手を延ばすとぐいと引き寄せた。暫くぶりの香が鼻をかすめ全く以てかき乱されていた。僅かに漏れた夕霧の声を九葉は聞き逃さなかった。
「その点に関して、貴様の頭の中はどうも不埒でいっぱいらしい…。愚かな娘だ」
「決して、そのような…下心など…」
「申し開きは、私自らが確かめるとしよう。望んでいたのだろう?」
腹が減っていたのではないかとの夕霧の問いを九葉は遮り、その夜は腕の中で眠りについた。