雨に思う
何故、記憶を失くしたはずの彼女は「軍師九葉の部下」という事実を覚えていたのだろうか ──九葉はふとそんな事を考えた。
マホロバの里は早朝から雨が降り出していた。弱い雨だが、曇天は低く遠い山々の頂きは霧雨だか濃霧だかに覆われてほとんど見えない。遠くまで覆う厚い雲に、長く降り続けるのだろうと思えば一層深いため息が漏れた。歳は取りたくないものだ。マホロバを発つ日も差し迫り、連日執務で座りっぱなしのお陰か意外と腰に負担が来ている。天気が悪ければ余計鈍痛に見舞われる心地だった。
普段ならこの宿舎の一室では、軍師付き武官である相馬、初穂と共に霊山への報告書等を片付けているが、朝食を終えた時、百鬼隊隊員が巡回中に大型鬼を発見したというので、今は彼らを応援に遣っている。
出かける際に相馬が、護衛か手伝いの代わりを誰ぞかを寄越そうかと九葉を気遣ったが丁重に断った。何しろ、久々に部屋に一人だ。普段は、やれ相馬が硯箱の蓋を踏んだだの、やれ初穂が書き損じごと書類を捨てただのと毎度二人でお笑いをやりながらの執務だ。九葉一人であれば存分に思いのまま仕事が捗るというものである。
だが、一人になったらなったで先程のようにふいに彼女── もといマホロバの隊長、夕妃を思い浮かべるのだった。
夕妃は十年前のオオマガドキ、横浜防衛戦にて突如空に飲みこまれ行方知れずとなった九葉の部下だった。
当時、九葉が作戦指揮を取っていた特務隊は、町の各所で異形の討伐に当たり、象の鼻付近に居た彼女には出現したシンラゴウ討伐を命じた。だが、予期せぬ目標消失という事態に輪をかけるようにして、曇天の渦からは大蛇の形をした鬼が現れ、夕妃は天へ吸い込まれたのである。
最初は、何か夢でも見ているのではないかと思った。吸い込まれたと思った穴から、再び大勢のモノノフだろう者たちと共に舞い戻り、大蛇の鬼を絶命させまた消えてしまったのだから当然だ。
以降、九葉が夕妃と再び見えることはなかった。当時は色々と手をつくし調べたが、あの大渦の原因も彼女の足取りも全く掴めず、まるで彼女に関わる全ての事柄がこの世から抜け落ち、雲散霧消したかのようだった。
それから幾年月の流れに彼女への想いは少しずつ流した。元より出自の分からぬ彼女は幻夢だったと割り切って過ごしてきた。たまに思い出すことがあっても早々に頭の中から追い出す事ができていたのだ。
だが、お頭詮議の見届人としてマホロバに来てみればどうだ。この世の神仏はいよいよ修羅道へと導いているのだと悟った。
行方知れずだった夕妃が目の前に現れた時は大層驚き込み上げるものがあるも、腕を伸ばしたい衝動は「彼女にあるべき記憶がない」というその事実に跳ね返された。彼女は、九葉と出会った時と同じく、己が軌跡を遡れないでいたのだ。
九葉との関係は勿論、特務隊時代の記憶も、横浜防衛戦での記憶もその大半を失い、残る記憶は曖昧だと告げたのだ。そこでまた冒頭である。
恐らく彼女は飲み込まれた瞬間、その直前の記憶だけは残っていたのだろうが「軍師九葉の部下だった」とそれだけははっきりと覚え、訪ねてきた。九葉にはこれが不思議でならず、また、彼女との過ごした日々が残り香のようにして体の内に広がるのだった。
九葉に子が居れば恐らく夕妃はそれに近い。にも関わらず、あの頃の彼女は心から九葉を慕っていてくれた。血塗れの鬼と部隊員たちからも恐れられていたが、九葉と出会ったばかりの彼女もまた、今と同じように記憶が無く、それ故に何ものも介さず真っ直ぐに九葉と接してくれた。それが契機であり意外にも九葉が心の奥底で僅かながらに手にしたかったものだったらしい。
鬼から人の世を守らんとどんな犠牲を払ってでも茨を突き進むと決めていたが、夕妃が九葉に寄り添い差し伸べたものは志を果たす為の一時の安息だった。
巡回から戻らぬ彼女を心配し探しに出かけ、散歩だなどとばれる嘘をついたこともあれば、隊員に隠れて遠乗りをすることもあった。雷が恐ろしく苦手だという彼女を胸に抱き続けた日もあれば、しょうもない口論の後、他愛のない話をし夜が明けるまで肌を重ねた日もあった──
とはいえ、今更日に焼けたような記憶を思い返した所で何もならない。彼女にはっきりと残る記憶が「軍師九葉の部下だった」というその事実があったにせよ、彼女はもう九葉にいくらも気持ちはない。僅かな期待に胸を膨らませるとは我ながら青臭いと自嘲した。
何はともあれ雑念を捨て、目の前の書類の山を片付けるのが先決である。賑やかな武官たちが帰ってくれば湯呑みをひっくり返すだけでもすぐ大事にし、騒ぎ立てるのだ。賑やかな様を眺めるのは嫌いではないが、執務の進捗を左右されかねない事態だけは避けねばならない。
気を取り直した九葉は居住まいを正し、ひたすらに筆を走らせた。全く、霊山軍師というのは采配ばかりとっていれば良いというわけではないから困る。雑務のほうがよっぽど多い。
そうして暫く、ため息混じりに消耗品などの品目を書き連ねていると、雨音と共に戸を叩く音がした。相馬や初穂が帰ってくるにはいささか早い気もする。「誰だ、何か用か」と問えば、戸の向こうからは「九葉様、よろしいでしょうか」と耳によく澄んだ声が届いた。
無意識に筆が止まり紙に墨が落ちて滲む。広がった円は文字を塗りつぶしていた。普段ならすぐに硯で筆を整えるというのにこの有様だ。また書き直さねばならない。筆を置き、九葉は戸を開けた。目の前には夕妃が立っていた。
「相馬隊長に言付かりまして、お手伝いに上がりました。お茶もお持ち致しました」
手にした籠を顔辺りまで掲げ、夕妃は微笑んでいる。九葉は霊山軍師として振る舞った。
「私は頼んだ覚えはない。相馬が勝手にやったことだ。私一人で間に合っている」
「…そう言われましても、相馬隊長にもよろしくと頼まれております」
九葉はなおも大丈夫だと断った。
里で共に作戦に勤しみ、遠くからその奮迅ぶりを眺めているだけでも「軍師九葉」を保つことに難儀しているというのに、娘が同じ部屋に居た日には仮面を剥がされそうで気が落ち着かないのだ。今の九葉には、軍師然として努めなければろくに夕妃と会話もできない。彼女と二人で過ごした時はいつだって鎧を紐解く時だった。
しかし彼女は食い下がる。相馬からの頼みに責任感を感じているのか、頑固なのか、こういう世話好きな所は以前と変わらなかった。
「でしたら、茶飲みだけでも付き合っては下さいませんか」
九葉は折れた。仕方のない素振りを見せ夕妃を招き入れると、無心に筆を動かした。
彼女は持ってきたらしい茶葉を急須に入れている。蒸気を吹く鉄瓶を取ると湯を注ぐ。暖かな音がとくと響いていた。幾度となく見た懐かしい光景だった。執務をする傍らで夕妃はただ静かに座り、本を読んだり手伝いをしたりなどしていた。あの時を切り取り、そのまま移してきたかのような錯覚に襲われる。夕妃が囲炉裏の枠に湯呑みを置き、ことりと鳴った音に九葉は我に返った。
「九葉様、どうぞ」
夕妃の左側に腰を下ろした。湯呑みを覗けば妙な懐かしさがその中に漂っている気もする。「十年ぶりか…」と思わず口をついて出たことが九葉自身も驚いた。彼女には聞こえなかったらしい。何事もなかったかのようにそのまま茶を一口含む。外は少し雨が強くなっていた。相馬や初穂がずぶ濡れではなかろうかと少し気がかりだ。夕妃はさっきから丸格子の外を眺めている。
「相馬隊長と初穂ちゃん、雨、大丈夫でしょうか…」
「…心配なかろう」
その時、稲光が空を割り瞬間雷鳴が轟いた。束ねた枝をひといきに潰したような音が大音響で鳴り響く。宿舎の壁は震え近くに落雷したのか地響きがしていた。
轟音が収まり九葉は視線を感じた。じっと夕妃に見つめられていた。その時ようやく事態を飲み込んだ。いつの癖を今更思い出したのか…、九葉は反射的に彼女の手を握っていたのだ。昔の彼女はとかく雷に敏感だった。雷鳴がある度に捨てられた猫のように震え、懐に顔を埋める。九葉はいつも側で宥めていたのだ。
勿論、急に手を握られた夕妃は驚いただろう。瞬きと少しの間の後、咳払いをした九葉は一言謝り、湯呑みに持ち替えた。今の彼女は、九葉の知る昔の彼女ではない。雷は怖くはないらしい。怖かったことすら忘れているのだ。
随分気まずい雰囲気が漂った。天気が良ければ少し歩いてくるなどと理由をつけて出て行けたものの、生憎先程の雷と共に土砂降りだ。一歩外へ出れば泥濘みに足を取られる。
すると、湯呑みを置いた彼女は意を決したかのような様子で「九葉様」と呼んだ。何かを言いかけては、止め、それを二三度繰り返した後ようやく口を開いた。
「九葉様、昔の私は…」
「雷を怖がっていた」
「そう、ですか…」
弱々しい彼女の返答に再び沈黙が二人の間を埋める。屋根を伝った雨は裏の水瓶に溜まっている様子だ。溢れそうで溢れない不規則な雨だれの音が妙な緊張に代わる。
今の九葉が彼女の言いかけた問いを察せない訳がなかった。ただそれに触れてしまったが最後、これまで耐え忍んだ理性やその感情を手放し己を取り繕うことを放棄しそうだと思ったのだ。
今のままでよい。そう言い聞かせた。じきに九葉もマホロバを離れまた各地の戦線へ赴かなければならない。一方彼女は里の隊長としてこの地に留まる。行く行くは世帯を持ち、子を産み、良き母親となることだろう。
正直を言えば九葉はあんな訳の分からない別れはもうたくさんだった。これまでに多くの部下を失いまた見捨てたが、生きているかもしれないその僅かな希望は生き地獄も同然だった。彼女が抱えている不明瞭な記憶は、間違いなく知らぬが仏言わぬが花だ。
以降会話は無く、どちらも一言も喋ることなくただただ茶を飲んだ。滅多に口にしない菓子も食み、仕事に戻れば良いにも関わらず席を立つことも出来ない。頭ではわかっていても結局この体たらくである。
雨は大分弱まった様子だった。夕妃は下げてきた籠に急須や茶托を仕舞い始めた。
「雨も上がりそうですし、そろそろお暇します」
お邪魔してすみません。そう続けて彼女は玄関の上がり口に腰を下し、草履を履いた。九葉も見送るため近くに座る。だが籠に手を掛けた夕妃はなかなか立ち上がらなかった。戸をまっすぐ見つめたまま九葉に背を向け独り言のように呟いた。
「マホロバに来たばかりの時、何故か九葉様の部下だった記憶だけははっきりと覚えていたんです。すごく不思議でした…」
何故今になって九葉にそんなことを告げるのか、その理由をたずねて良いのか考えあぐねた。自ずと答えは導かれるも九葉はぐっと堪えた。案の定、振り向いた夕妃は、九葉の予想通りぼろぼろと涙を零している。
マホロバの一連の騒動が収束を迎え、彼女自身、自分を振り返る余裕ができたのだろう。記憶を手繰り寄せる糸に手を伸ばしていても不思議ではない。
「私、雨、好きなんです。とても温かい気持ちが記憶の奥に残っている気がして…」
九葉はあれこれと考えるのを辞めた。やはり夕妃を目の前にしては情が揺さぶられる。九葉は、問答無用で彼女の腕を掴むと抱き寄せた。もう少し早くに夕妃と向き合うべきだったのだろうかと、らしくなく自問自答をしている。彼女が生き、記憶を失っているのであれば、それは九葉にとって逆に喜ぶべき事だったと、そう考えていた。己の傍らで共に茨に進まずともよいからだ。しかし彼女は靄の掛かる己が記憶を手探りしている。
九葉は彼女を覗き込み頬に手を添えた。そっと指で涙を拭った。
「九葉様…。本当の事を教えてください」
「昔を知ってどうする…。これから先、お前はお前の道を行けばよい」
「それならどうして、こんなに優しくしてくださるのですか…。軍師九葉」
雨の記憶は例の雷のせいだろう。九葉が思わず差し出した手に確信したのかもしれなかった。人の心を動かすきっかけというのは至極単純で、欲にまみれている。今の九葉だってそうだ。側に置きたい女が涙を見せただけで、こんなにも気が高ぶる。夕妃に過去を話し、気持ちが通じたとしても桃源のような時間はもう長くは続かない。それでも、九葉が一方的に過去を話すのではなく、夕妃自ら記憶の端を掴みかけたことは心の底から嬉しかった。
「後悔はしないか」
果たしてその言葉は誰に向けたものか。九葉は夕妃の答えを聞く間も無く、深く長く口づけを交わした。