穏やかに君と

 かりかりと音がする。玄関へ行き、戸を引けばキュイと鳴いた天狐もとい天吉が得意気に風早を見上げていた。身体にくくり付けている巾着が少し膨らんでいる。中を覗くと手紙が入っていた。橘花からだ。座布団にあぐらをかくと頭を撫でられたい天吉が膝の上にやってくる。褒めてやりつつ、今日はどんなことが書いてあるのだろう、と丁寧に折りたたまれたそれを広げた。
 風早さん、お役目は順調ですか。ここ最近、葉も色づき少し肌寒くなってきましたね。お体には十分気をつけて、お務め励まれて下さい。
 近々、本部の会議にお邪魔します。その後、お時間ありますか。ええと、その、以前手紙に書かれていた本の話をできたらと思いまして。よろしければ、ご自宅にお伺いできたらなと思っています。
 お返事お待ちしています。

橘花

 ──ご自宅にお伺いできたらなと思っています

 風早はその一文に二三度目を通すと動揺し囲炉裏の縁に置いていた湯呑みを足先でひっくり返した。じゅと音を立て気が抜けたように炭がいくらか役目を終えた。
 先ず過ぎった不安は、桜花だ。橘花はきちんと話しているのかそれが一番心配だった。桜花のあずかり知らぬ所で黙って家へ上げたとなれば、確実に素桜の餌食になること間違い無しである。
 そしてもう一つは、部屋の惨状である。赴任したばかりの頃は毎日欠かさず掃除片付け等をやっていたが、慣れとは恐ろしいもので、最近は忙しさにかまけ隅々まで掃除が行き届いていない。橘花は体が弱いこともあり、今この家に上げてはならない気がする。ともあれ、折角橘花が訪ねたいとこうして手紙をくれたのだ。日々里の結界を維持してくれているからには、風早は何らかの形で応えたいと考えた。
 ぐるりと部屋を見渡すと橘花の為だと大掃除を決意し、早速返事を書く為机へ向かった。

 橘花と手紙のやり取りをするようになったのは、里が落ち着きを取り戻し少し経ってからで、とある異界の拾得物から千里眼の依頼をしたためた事がきっかけだ。以来、事務的なやり取りの中に互いの近況等々を綴り始め、次第に好きな本の話や、橘花の日常、時には彼女の不安を聞きそれに返答するようになった。
 岩屋戸から頻繁に外出できない彼女は、近衛や桜花以外のモノノフとはあまり接点が無いこともあり、彼女の手紙にはいつも本部の日常やモノノフたちの様子を案じる文言がある。お頭の大和は身分の別無くとは言うが、神垣の巫女という立場上、近衛たちからは丁重な扱いを受けている事は間違いなく、彼らとの会話は最低限なのだろう。
 姉の桜花は岩屋戸に出入りしている様子だが、姉妹故に相談し辛いこともあるのだと手紙には書いてあった。そうして色々な話題を繰り返し、今日までなんやかんやと数十通のやり取りを交わしている。文箱の中は橘花の手紙がほとんどだった。
 この文通に初めは桜花も怪しんでいたが、毎回橘花が楽しそうに机に向かっているのを見て悪い気はしなかったらしい。特別詰め寄られることもなく、話相手になってくれと言われている。
 だが今回の「家に来たい」というのは、流石に次元が違うように思った。一人暮らしの男性宅に、純真無垢な神垣の巫女。たちまち桜花は目くじらを立てるのではなかろうか…。
 風早は考え抜いた末「桜花も一緒に来ればよいのでは」との考えに至った。この案であれば橘花も気兼ねしないだろう。早速したため、天吉に返事を持たせた。
 ところが、一日置いて返ってきた手紙には、当日桜花は不在でありきちんとその旨伝えているので心配はないという内容だった。なんでも会議が終わった後、桜花は霊山へ行く大和に随伴するらしい。お頭代行は一体誰が担うのかと考えるも、息吹か風早自身しか思い当たらない。よくよく思い出してみると、会議後風早は任務が入っていなかった。不測の事態に備え里で待機する為だ。
 一抹を不安を感じつつも橘花からの誘いは素直に嬉しい。桜花が承知しているのなら彼女を招くのは問題ないだろう。風早は楽しみにしていると即返事を出した。

 ・

「── というわけで、俺からは以上だ。今日から七日ほど霊山に行ってくるが、各自いつも通り任務に励んでくれ。本日はこれにて解散」

 そう言って本部に集められたモノノフたちは席を立ち、各々任務やら非番の者は自宅へ帰ったりと散り散りになった。案の定、風早と息吹は大和に呼ばれ留守中のお頭代行を任された。大和から話を聞く間もずっと桜花の視線が痛い。確認事項等終えた風早は桜花に捕まった。
 華奢な腕が首に回されるも、彼女の腕力は流石に大太刀で鬼をなぎ倒すだけの事はある。うっと詰まらせ風早は大人しくしていた。

「風早、橘花から話は聞いている。言いたいことは分かるな」
「俺って信用ないんですね…」
「少しでも橘花の息抜きになるのならと思ってのことだ。何かしたら容赦はしないぞ」
「本の話と、橘花さんが僕に預けた天狐と遊びたいってだけですから!(少しは妹離れした方がいいと思うんだけどな…)」
「何か言ったか…?」
「いいえ何も」
「…すまない。橘花と楽しく過ごしてくれ。では行ってくる。里と橘花を頼むぞ」
「はい、お気をつけて」

 橘花とともに桜花を見送り、風早は彼女を自宅へ案内した。
 賢い相棒は橘花が来ることを感じ取っていたらしい。玄関では天吉が今か今かと帰りを待ちわび、橘花の顔を見るなり腰の高さ程まで飛び跳ねた。橘花はかがんで早速相手をしてくれる。

「ふふ、天吉はいつも元気ですね」
「すみません。元気有り余っててこいつ。おいこらあんまり跳ぶなよ天吉。橘花さんの着物汚すなよ」

 天吉は不服そうにキュイと唸った。橘花に撫でられればすぐに機嫌を取り戻している。

「こいつお使いに出してますけど、岩屋戸で粗相してませんか」
「いつもお利口ですよ。大人しくて。たまに私の部屋に泊まっていきます」

 通りで、家に帰ってこない日があるわけである。なにゆえ橘花に抱かれている天吉が、こうも鼻高く見えるのか自分でも分からなかった。男としての甲斐性を天狐に説かれるとは思ってはいないが少々腹立たしい。
 橘花は物珍しそうに部屋の中をぐるりと見回していた。先日大掃除に取り掛かったがそれでも心配だ。風早はぴかぴかに磨いた湯呑みに茶を淹れ、橘花に差し出した。

「殺風景な部屋で、珍しいものも無くて。お茶どうぞ」
「ありがとうございます。あ、いつもあの机でお返事書いてくださるのですね」
「ええまあ。あ、そうだ。この間言ってた本出しますね。良かったら持って帰って頂いても構いませんよ」

 風早は長持ちから本を取り出した。内容は戦国時代のとある名もない武士の一生だ。一人の主君に仕えるも面識など無く、戦場で一兵卒として奮迅し生涯を終えるという割りと地味な主人公の話だ。だが作中の活劇にはかなり興奮したので、勢いそのままの感想をつい手紙に書いたところ橘花も読んでみたいと返事があり今に至る。
 表紙をなぞり、橘花は嬉しそうに顔をほころばせている。すぐに読み始めたい様子だった。

「近衛の方には日が暮れるまでと言われてますから、存分にどうぞ」
「はい。ありがとうございます」

 それからは読書会が始まった。風早も読みかけの本を開く。あぐらをかくと天吉が当たり前のように風早の膝の上に体を投げた。また寝るつもりだろう。甘えてくるのは愛くるしいが、時間が経つと次第に足が痺れてくるのが難点だ。天狐は近所ののら猫より一回りは重い。
 暫く無言に文字を追うだけの空間となった。時折態勢を整えたり、姿勢を正したりする布の擦れる音と、陶器と木枠が触れる湯呑みを置く音だけが交互に響く。火箸で炭を弄り、ちらりと橘花をうかがえば本の虫だ。勧めた本は気に入ってくれた様子である。ふいに顔を上げた橘花と視線があった。

「風早さんの言っていたとおり、本当に面白いです」
「それはよかった」

 風早は火箸を囲炉裏の端に突き立て、自身も続きを読み始めた。ところが、妙に視線を感じるのだ。橘花を見遣ると、彼女ははっとした様子でまた本に目を落とす。それが何度か続いて、橘花は「風早さん」と小さく呟いた。

「…?寒いですか」
「いいえ、その。天吉は、いつもそうして風早さんの膝に…?」
「そうなんですよ、参っちゃいます。こいつ意外に重くて。天狐も一応は狐だろうから、やっぱり寒くなると食べる量も増えるんですかね」
「ええ、冬毛にもなりますし、冬を越すに脂肪は必要ですね。でも、風早さんに本当なついていて、よかった。私あの時押し付けてしまったから…」

 風早の飼う天狐は、半ば無理矢理に橘花から押し付けられたも同然だった。元々迷子の天狐を橘花が見つけたのだが、岩屋戸へは連れて帰れなかったのだろう。あの時はまだ橘花が神垣の巫女だとは知らなかった。せいぜい良家の娘くらいに思っていた。
 風早は尻尾に頭をうずめる天吉の背を撫でた。

「気にしてませんよ。あの頃はまだ少し里の生活にも慣れてませんでしたから、相棒が増えて嬉しかったです」

 橘花はにこりと微笑んだ。首を傾げると簪の花が可憐に揺れる。すると、橘花は床に手を付きずいと風早の座る方へと体を乗り出し天吉に触れた。

「天吉がずっとこうしているくらいですから…、風早さんのお膝は落ち着くんでしょうね」
「どうですかね。ただの発熱座布団くらいにしか思ってないかも」
「そ、そんなことありません…!風早さんはとても、安心できて、いつも寛大で、心の拠り所であると…思います!」

 頬が少し紅潮しながらも、橘花はじっと風早を見つめて答えた。ここまで面と向かって言われると流石の風早も照れくさい。頭の後ろをかいて極力だらしのないよう、感謝の笑みを浮かべると風早は冗談交じりに言った。

「橘花さんもきます?なーんて…」
「い、いいん、ですか…」
「へ?」

 そう言った橘花はすっくと立ち上がりあれよという間に風早の前へちょんと腰をおろした。突然の事に風早もおずおずと後ろに下がり彼女の為の場所を開けざるを得ない。天吉が動いた風早に驚き、咄嗟に橘花の膝の上に移ってしまった。橘花との距離はほぼ無いに等しい。白銀の髪が目の前を覆う。香の香りがふわりと漂い、無意識のうちに伸ばそうとしていた手を引っ込めた。
 橘花は少しうつむき加減でこちらを見ようともせず黙り込んでしまった。心配になりそっと覗き込むと橘花はまた頬を赤らめた。

「私、今日少し勇気を出しました…。風早さんが戦う時はいつもそうしていたから…」
「は、はい…」

 鬼と戦う勇気と、橘花の勇気との関連が風早にはいまいち出来ず頭を悩ませていると、突然天吉が手をかぷりと甘噛みした。痛みは無くとも急に噛まれれば驚く。何となく天吉が怒っているようにも見えた。橘花が何か大切な話をしている様子なのは理解できる。風早は天吉に静かにするようにと表情で訴えた。伝わっているのかはさておきだ。すると、橘花は少し体を捻り風早を正面に捉えた。両手をぎゅっと結んで随分緊張している面持ちだ。何故か風早にも彼女の緊張が伝わり妙に落ち着かない。

「私、文のやり取りがとても楽しくて、風早さんの思うことや嬉しいことが紙の上で躍っているのを読むのが好きです。いつも身近に感じられる…ので…、その時が大切で…」

 風早はそこでようやく気がついた。瞬間、心臓が早鐘を打ち背中に汗がどっと吹き出る心地だった。一体どうすればいいのか。ただ自分は、橘花の為にと思い文通をしていた。勿論、彼女が嫌いなわけではない。自らの命を削り里の人を守る、その使命を背負いながらも強くある姿は尊敬に値するくらいだ。並大抵の意志の持ち主では到底務まらないだろう。例えば風早自身がその支えになれるのなら、それはそれで嬉しいことに変わりはない。
 家に来たいという手紙を書くまでにどれほど悩んだのだろうと考えれば、彼女の一途さと懸命さに答えないわけにはいかなかった。

「橘花さん」

 風早は少し声を落として呟いた。橘花は恐る恐る目を潤ませて顔を上げ、不安がありありと顔に現れている。風早は驚かせないよう、彼女の腰にそっと腕を回した。

「またこうして、読書会しましょうか…。俺なんかで良ければ、少しずつ、でも…構いませんか」

 橘花は小さく呟くと目頭を抑えようとする。風早は彼女の手を優しく取って代わりに拭ってやった。目が合って笑い合う。気恥ずかしい思いはお互いさまだ。
 神垣の巫女とて一人の女の子だ。自分に何が出来るのかは分からないが傍らでこんなにも嬉しそうにする橘花を見れるなら、と少しだけ桜花の気持ちが分かったような気がする。それに似た近しい淡い気持ちが己に広がるのを感じつつ、風早は、益々里と彼女のために励もうと心に誓い橘花を抱きしめた。