朝靄の中
目が覚めた陽菜は身支度を整えるため、手ぬぐいを引っ掴み水屋へ向かった。今日も団子屋で女給の仕事が待っている。朝日に反射する露を弾き井戸へと足を向けた。すると、こんな早くから滑車がからからと鳴るのが聞こえた。誰だろうと思い、静まりかえる隣家を曲がるとそこに居たのは息吹だった。今しがた仕事を終えた様子で、脱いだ着物の埃を払い、顔や腕を洗っている。
息吹はウタカタの里のモノノフで、槍の名手だ。お頭大和をはじめとしたモノノフたちは日々この里の平和を守らんと、里の外に蔓延る邪悪な鬼を退治してくれている。
息吹は、その二枚目の容貌から多くの女性に言い寄られ、また息吹自身もひょうきんで明るい性格と女好き故に、良くいえば女性のあしらいが上手かった。いつも会えばヘラっと笑い、歯の浮くような台詞を事も無げに言ってのけるのだ。富嶽曰く、遊び人の素質を備える色男であるらしい。ともあれ、そんな彼に声を掛けようとしたが、いつもの息吹からは想像できない程、眉間を寄せこわばった表情をしていた。陽菜はなかなか声が掛けられなかった。
今回、戦場で何かあったのだろうか。どこか具合でも悪いのだろうか。そうして様子を伺い、建物の影から出ようか出まいかしていると、振り返った息吹とぱちりと目が合った。その瞬間、息吹は険しかった表情を隠すように笑みとすり替えていた。いつもの調子の息吹だ。
「おはよう、陽菜ちゃん。そんな所で何してるの?俺に見とれちゃってた?」
物陰から盗み見るような事をするつもりは無かったが、結果的に陽菜はバツが悪い。しずしずと挨拶を返した。
「おかえりなさい。お仕事お疲れ様です。いつも里を守ってくれてありがとう」
「何だよ、改まって。俺らモノノフはこれが仕事なんだからとーぜんっ」
得意気に胸へ拳をあてた息吹は、先ほどまでの刺々しさが嘘のように、井戸の縁に腰を下ろしゆるりと大きなあくびをしている。
陽菜は、滑車の綱を手繰り寄せて顔を洗い、髪をひとつに結おうとうなじに手を伸ばした。その様子を息吹がじっと見つめていた。
「陽菜ちゃん、いつも髪、お団子だよな」
「はい…、そうですけど…」
「今日、俺が結ってやろうか」
陽菜は何を言われたか理解するまでに瞬き三回分を要した。その間、いつの間にか息吹は陽菜の後ろに回りこんでいた。
「そこ座って」
促されるまま、別段断る理由も無く、陽菜は井戸の縁に座る。陽菜が咥えていた結い紐を息吹は受け取り、首筋から手を這わし陽菜の髪を掻きあげた。昔は母親に結って貰っていたが、今は一人で出来るようになった。他人に結われるのは、しかも大の男に髪を束ねて貰うことなど初めてだ。
息吹の指が髪の間を通る度に、不思議な感覚になってくる。陽光が眩しい軒下の陰りにあっては、余計心地良いまどろみに襲われた。そうして委ねていると、指とは違った感覚が髪の間を通り抜けていた。明らかに柘植の櫛だった。
「俺さ、昔もこうして髪結ってたんだよね。毎朝」
陽菜ははっとした。息吹には、過去婚約者がいたらしいが、八年前の逢魔が刻で亡くしたと聞いたことがあった。戦っていた鬼は、腕が四本ある半身人型の鬼とかで、当時、幼かった陽菜は大人たちの話に震え上がったのを覚えている。
息吹はそんな過去と、かつての恋人を思い出しているのだろうか。陽菜を撫でる手は、愛おしく優しかった。膝の上に重ねた手を、陽菜は結終わるまでぎゅっと握りしめ、何故だか頭上でひとつにまとめられる髪を少しだけ恨めしく思っていた。息吹の手が度々止まっている。そろそろ仕上げだろう。
「最後に、飾りの紐を…、縛ってっと。よし、できた。陽菜ちゃん、こっち向いてくれよ」
井戸の縁に腰掛けたまま、陽菜は体をひねった。うまく笑えているか定かでは無かったが、息吹はとても嬉しそうに「おう、べっぴんさんの出来上がり!」と軽い調子で自分の腕を褒め称えた。
「息吹さん、ありがとうございました」
「なんのなんの、俺が言い出したことだし」
息吹は髪を結うのに使っていた柘植の櫛を再び首に下げると、水屋の軒下から空を仰ぎうんと背伸びをした。桶に、着替えや手ぬぐいを放り込み「じゃあ、またな陽菜ちゃん」そう言って一歩踏み出した。
「あの、息吹さん!」
「ん?どうした?」
「私、私の髪、また結ってください…ませんか」
息吹は突然の問いに、きょとんとしていた。陽菜も思わず口をついて出た言葉に慌てた。いつも明るく、調子の良いことばかりを言う息吹は、色男くらいの気持ちでいたにも関わらず、髪が束ねられるうちに焦燥が募っていた。きっと息吹は魔が差しただけだと頭では分かったいても、息吹の過去に映された陽菜は自惚れていたのかもしれない。
言い出したことを後悔し始めたとき、息吹は悲しそうに眉尻を下げ笑った。
「ああ、またいつかな」
息吹は反転し、ひらひらと手を振って自宅へ歩んでいった。
朝日も高くなり、あたりに漂っていた靄は次第に開けていく。陽菜も団子屋へ向かった。
その日も目まぐるしく仕事をしていると、里の外から来た旅人が、未明に里周辺に出た鬼の噂をしていた。配膳をしながら、陽菜もそっと耳をそばだててみると、鬼は建軍という四本の腕を持った半身人型の鬼であったらしい。
頭巾を取り、茶をすする旅人は続けた。
「いやあ、俺は遠くから見てたが、あの槍のお方は凄いんだなあ。あんなモノノフが居るこの里ぁ、羨ましいよ」
恐らく今朝、息吹は、過去婚約者の命を奪った鬼と同じ種と戦ってきたに違いない。配膳を終えた、陽菜は鏡に写った姿を見て、結われた赤い髪ひもに手を触れた。
日々幾多の人間が、鬼の手によって命を落とす。八年前とは比べれば鬼の数も減ったと聞くが、それでもこの世を去った家族、恋人、その誰とも変わってやることは出来ないのだ。
今日もウタカタの里は、神垣の巫女である橘花が祝詞を里に結界を張ってくれ、精鋭のモノノフたちが鬼を討伐してくれるお陰で平和な一日となる。ならば、と陽菜は鏡に映った自分の頬をぱちんと叩き、女将に告げた。
「女将さん、お持ち帰りのお団子お願いします!」
その後団子屋の陽菜ちゃんが息吹との仲を少しばかり噂されるのはまた、別の話。