任務を終え夕刻戻った涼音は、非番である焔を尋ねた。特に約束をしていなかったこともあり、勝手知ったる彼の玄関から中を覗けば部屋は空っぽだ。外様居住区よりもまた更に本部から離れた長屋の一角は、相変わらず物が少なく生活感がまるで感じられない。薄暗い部屋の前で何処へ行ったのだろうと思案したが、涼音はすぐに大体の見当がついた。
 生い茂った青い雑草を分け入り、涼音は土手を下ると横たわった敷木を一つ飛びに進んだ。炊さんの煙立ち上る藁葺きの家々を通り過ぎ、サムライ部隊の倉庫の前まで来ると、思った通り河原のほとりに探し人を見つけた。
 涼音は焔がこの河原によく一人で居るのを見かけていた。なんでも考え事をしたい時は良く来るのだそうだ。川の流れる音を聞くとぼんやり出来る。そう教話してくれたのは焔と同僚の境を超えた時だった── ように思う。
 焔は大きめの岩に腰を下し、丸く削られた小さめの石を手のひらで数個転がし対岸の木々を眺めていた。その背は涼音にはいつも逞しく映っている。戦線ではそつなく鬼を屠り、またどんなに苛酷な状況でもひょうひょうとした態度で隊員たちを励ますのはいつも彼だ。
 つい大きな背に見とれていた涼音は、顔に溜まった熱が冷めるのを見計らい「焔ー!」と手を振った。すると「よう」と言って焔は振り返りもせず自身が座る岩をぽんと叩いた。涼音は隣に腰掛けた。

「任務ご苦労さん、なんだー?随分機嫌いいじゃねえか。今日はどいつと組んでたんだ?」
「今日は、椿ちゃんと刀也さん。サムライ部隊も一緒だった」
「へえ」
「焔は今日一日何してたの?」
「別になんもしてねえな。起きたの昼だったもんで、暇だったからよ。その辺で釣りしたんだが…」
「坊主だったのね」

 眉を下げ、苦笑い気味に涼音が答えると、焔はまた「おう」と言って握っていた小石を川に放り投げた。ぱしゃんと飛沫を上げ音に驚いたのか、別の所で魚が水面に跳ねた。
 近頃は夕方を過ぎれば大分暑さも和らいだが、それでも熱は夜間まで篭もり里に漂っている。涼音も仕事を終えたばかりで中々暑さが拭えずに居た。汗ばむ不快感を取り去るに何か良い方法は無いか…。ふいに思い立った涼音は履物を脱ぐと素足になり裾を上げて川に入った。焔は若干呆れた様子で眺めている。

「おいおい、あんまはしゃぎすぎてこけんじゃねえぞー」
「大丈夫!焔も来ない?冷たくて気もちいいよー!」
「てめえみてえにがきじゃねから行くわけねえだろ…って、おい!涼音てめえいきなり何すんだっ!」

 焔が頬杖をつき僅かによそ見をした隙に、涼音は水をすくって焔へ浴びせた。両手にほんの少し水をすくい上げたつもりが勢い余ってかなりの量が手のひらにあったらしい。真正面から川の水を浴び彼の着物は胸元までかなり濡れてしまった。焔は渋い顔で襟口を摘み上げため息をつくと、腰を上げ涼音の方へと近づいた。

「ったく、」
「ご、ごめん。つい勢い付け過ぎちゃった…」

 涼音がしおらしく肩をすくめていると、今度は側にやってきた焔がすくった水を涼音に引っ掛けた。そこからが始まりだった。
 二人してまるで童心に還ったかのように大人気ない水の浴びせ合いが始まったのである。周りに止める者など勿論居らず、声を上げはしゃぐ様は里の子供たちと何ら変わらない。結局焔も川に足をつけ、限界まで声を上げて騒ぎ、全身ずぶ濡れになる頃には二人共笑い過ぎて息が上がっていた。焔は膝に手をつき「腹いてえ」と肩を上下させていた。いつもぴんと立っている前髪は、濡れて重くなった額布を取り外したお陰で垂れていた。雫がひたひたと落ちるその隙間から焔と視線が合った。涼音は無意識に顔を逸らした。

「もう、気ぃ済んだか。暗くなってきたし帰んぞ」
「うん」

 脱いだ履物を濡れたままの足で再び履くわけにも行かず、涼音は手に抱えた。焔は濡れた着物をおもむろに脱ぐと、それを堅く絞り涼音の肩に掛けた。

「焔…ありがとう、けどね水を吸った分重い!」
「いいから、羽織ってろ。ったくてめえには慎みってもんが少しもねえな!」

 やいのやいのと連れ立って、涼音が来た道を辿り二人は焔の自宅へ帰宅した。薄暗い部屋は変わらないのに、涼音が一人で訪れた時よりもそうは感じない。到着早々、焔は座敷に上がると箪笥から大き目の手ぬぐいを二枚と、自身の洗い替えの浴衣を一枚取り、涼音に投げて寄越した。

「大きいが別に構いやしねえだろ。乾くまで着とけ」
「ありがとう」

 涼音が背を向け体を拭く間、焔は手早く着替えを終え、濡れた着物は梁に渡した綱へ適当に引っ掛けた。囲炉裏に火を入れると、壁により掛かり足を投げうんと背伸びをしている。夕方も過ぎ、近所からは空腹を誘う良い匂いが家の中まで漂っていた。焔は昼に起きたと言っていたから、恐らく今日はまともな食事を取っていないだろう。涼音も仕事を終えたばかりだ。腹は今に鳴りそうだった。
 焔の浴衣を着た涼音は、長過ぎる袖を二三回折ると火箸を握る焔の側ににじり寄った。

「何か食べる?久音さんところでも行く?」

 覗き込んできた涼音を見て、焔は嫌に眉を寄せている。かと思えば手の甲をぐいと涼音の頬に押し付けた。

「おま、やっぱ体冷てえ。もっと火に寄れ」
「わっ」

 ぐっと抱き寄せられると、いかに涼音の体が冷えていたかが分かった。布越しに涼音が忘れていたであろう体温の暖かさが感じられる。着物を乾かせばならない程水遊びをしたのだ。冷えるのも当然といえば当然だが、つくづく焔のぶっきらぼうな優しさには笑みを隠せない。嬉しさを悟られない様顔をそむけていると、不服そうな「なんだよ」が耳元で響いた。

「焔って心配性よね」
「てめえが無頓着なだけだろうが」
「そんなことない」
「なにがそんなことない、だ…。見てみろ」

 焔の視線は涼音の頭上斜め上から覗くように注がれている。浴衣が大きいのは承知の上だったが、余った布は胸元を綺麗には合わせてくれなかったらしい。焔はしたり顔だ。

「わ!この変た…っ!」
「変態上等」

 焔は有無を言わさず涼音の言葉を奪うと手を握りしめ、床に倒れ込み深く優しくを繰り返した。
 横になる焔の前髪に指を通し涼音は黙ったままじっと見つめている。まじまじ見られる事に耐えられなかったのか、焔は「何だよ」と問いただした。涼音は戸惑ったが口にした。

「いつも河原でぼんやりする時は…何考えてるのかなあと思って」

 その問いに焔は面食らった様子だ。言い難そうな、それでいて恥ずかしそうなこんなにも表情が落ち着かず戸惑う焔を見るのも稀だ。彼にも色々と言えぬことの一つや二つあってもいい。無理に言わなくてもいいと笑んだ涼音を焔は制した。一度咳払いをすると意を決した様子だ。

「いや、今まで一人の意識なんて無かったからよ…、悪いかよ」

 二人だけで過ごすその一瞬、その一日だけは、この世の何もかもを忘れさせてくれる。
 いつまでもこんな世界に居られたらいいのにと涼音はすがるように焔に腕を伸ばした。