白雨の境界線
その夜、遅くに仕事を終えたスミレは珍しく真っ直ぐ帰宅の途にあった。いつもなら、帰りに久音の店へ寄り道をし、一杯ほど晩酌をして帰るところだが、疲労故早く寝台に飛び込みたかったのである。そのたまにしかない、珍しい日常行動が後に驚嘆の淵に放り込まれる事になるとは露知らず、スミレは疲れを帯びたただいまと共に家の戸を開けた。
いつもと変わらぬ暗い部屋、当たり前にお帰りを返答する者も無く、己が言葉は虚しく闇に消えていく。
水瓶から柄杓で水を掬いがぶりとひと飲みしていると、ふと背後で不気味な音が聞こえた── ような気がした。物音が聞こえたのは寝室からだ。スミレの他にこの家には誰も居ない筈である。だがスミレは気のせいだと思い、僅かな警戒心だけで寝室に入った。
それが間違いだった。
途端、後ろから急に手が伸び、口元を覆われ、あれよあれよという間に体を羽交い締めにされていたのである。唐突な状況に慌て、ばたばたと足を動かすも押さえ付けられる力に全く抵抗が出来ない。驚くよりも、焦りと恐怖が勝り、僅かに指の隙間から空気を吸い込んで必死に息をした。混乱するスミレが大人しくなると、耳元に顔を近づけた何者かは「頼むから騒ぐな!」と押し殺すような声を出した。声は男のものだった。返事の出来ないスミレは諾の意を込め、大きく首を上下に振った。すると男は、口元を塞いだまま正面に向き合いスミレを座らせ、自身もまた視線を合わすようにしゃがみこんだ。
暗がりの僅かな月あかりに浮かび上がった男は、勿論このマホロバでは見たことも無い男だ。近衛やサムライの監視を掻い潜り里へ侵入したに違いない。歳は幾つだろうか…、スミレと同じ頃か少し上にも思える。身につけた着物はほつれも多かった。つり上がった細い目は真っ直ぐにスミレを見つめこう言った。
「俺はあんたをどうこうしようなんて気はさらさら無え。とにかく腹が減った。食いもん寄越せ」
物盗りでは無い…?いや、これは油断させる口実かもしれない。瞬時にそんな考えが過ぎったスミレは、口元の手を離して貰うよう何度も口元に視線を上下させ懇願した。手が離れたなら大声を出し、逃げ出そうとも考えていたのだ。
勿論、男も家主と話をしなければこれ以上の進展が望めないことを承知していたらしい。男は手を離す代わりにと、条件を出してきた。
「いいか、離した瞬間大声を出してみろ…」
男は空いている片方を自身の腰へと持って行くと、じゃりと鎖の擦れた様な音と共に何かを取り出した。
スミレの眼前に掲げられたのは、鎌の様な形をした鋭利な刃物だった。弧を描き鈍く光る様は、口角の上がった口の様相を思わせた。思わず背筋が凍った。じゃりと音を立てた部分にも、自在に伸びるその繋ぎ目ごとに小刀程の刃がくっついていた。これみよがしにスミレに見せると、男はニヤリと笑みを浮かべた。
「あとは分かるな。約束しろ、絶対声上げんじゃねえぞ」
スミレの算段は呆気無く散り散りご破算となった。
覆う手が無くなった瞬間、隣近所に聞こえるくらいの大声で叫んでやろうと思っていたのだが、流石にここまでの武具を見せつけられれば身の危険を感じざるを得ない。
スミレが今一度首を縦に振ると、男は「離すぞ」と言いスミレの素顔は露わになった。
肺いっぱいに空気を吸い、吐き、ようやく生きている実感が湧いた。とはいえ眼前には、刃物を携えた男が鎮座していることには変わりない。スミレは恐る恐る言葉を発した。
「わ、私の家、今お腹が膨れるような食べものは殆どありません…!梅干しとか、いつのか分からない漬物とか、あとは野菜ばかりで…」
「ああもう、うだうだしてねえで、それでいいから全部寄越せ!」
「お腹壊しちゃってそれが原因で私殺されるのは嫌です!」
「だーかーら、さっきから言ってんだろうが!てめえをどうこうする気なんざねえってよ!」
「……。わ、わかりました…。では、それを食べたら本当に出て行って下さい…!私、本当に怖かっ…!うっ…う…」
スミレが泣き出しそうなのを見て、男は号泣されては堪らないと瞬時に察したのだろう。物盗りとは思えぬ慌てぶりで、男は即座にスミレを宥め始めた。
「わ、わかった、わかった!!泣くなっつーの!食うもん食ったらさっさと出て行く、だから早くしろっ!」
スミレは鼻をすすり寝室を出ると、土間に下りた。棚の奥から梅干しの壷と、漬物の入った竹の折り箱を取り出した。
男は後ろからついて来ている。だがどうも様子がおかしかった。
スミレと話をしていた時の覇気は何処へやら、鋭かった目つきも今は焦点の合わぬまま、一歩、一歩とふらつきながら歩いている。男はどうやら気を失いそうな程に腹を空かせているらしい。先ほどの羽交い締めと交渉で、全ての体力を使い果たしたかのようだ。
今なら、近所の棟梁に助けを求められるかも知れない。
スミレは、居間に梅干しと漬物を出す振りをして、男が再びよろけるのを待った。男は居間の敷居を跨いだ瞬間、体がぐらりと傾き、柱に手を付いた。スミレは今だ!と勝手口に向かい一目散に駆け出した。腕を命一杯振って、わずかニ間ほどの距離を全力で駆け抜けようとした。が、着物の袖がぐいと引っ掴まれたかと思うとそのまま仰向けに転がり、気づけば男が跨っていた。両手首はがっしりと片方の手に押さえつけられ、口元は再び覆われていた。いよいよ現実味を帯びた死の恐怖が襲っていた。がたがたと震える体は土間に押さえつけられている。男の表情は暗くて良くは見えない。怒りを露わにしているのは明々白々だった。
だが、暫くスミレが怯えていると男は手首を掴んでいた手を緩め、更にはスミレの口元から手を離した。スミレの上に跨ったまま、俯いた男は歯切れ悪く言葉を発した。
「食いもんだけだ、それ以上は望まねえ。頼む」
繰り返す切実な訴えは次第に言葉尻が細くなり、仕舞いに男は力が完全に抜けてしまったのかスミレに雪崩れ込んでしまった。
まるで意味がわからなかった。スミレといえば先程まで恐怖に震えていたにも関わらず、何故か今は男を哀れむ自分もいる。二転三転しかき乱された心境に、益々混乱をきたすばかりだ。
兎に角、この男は泥棒は泥棒でも、多少の情は持ち合わせているようである。そう判断したスミレは、話をせねば分からぬと思い、雪崩れた男の肩をそっと押し返した。
「あの…、私今本当に怖い思いをしています…。あなたが怖いです。でも、相応の理由があるのだとも…思います。ですから盗みを働こうとした理由を話しては頂けませんか。こんな体じゃこの先旅をするにも力が出ませんよ…」
「……」
スミレは必ず食べ物を分け与えると再度約束に念を押すと、男を支え壁際へ座らせた。
話をちゃんと聞くので武器を預からせて欲しいとの申し出に、男は素直に差し出した。竈を扱うにも背中を見せるのが心底恐ろしかったが、湯を沸かし茶を男に差し出した。
脱力しきった男はゆっくり口を開いた。
男は焔と名乗った。
生まれた里は分からず、両親も知らず、幼い頃から孤児としてあちこちの盗賊団を転々とし生き延びてきたそうだ。盗人として生計を立てていたのである。まっとうな生き方とは言えぬが、鬼が蔓延る世で盗賊である事は並大抵の精神を持ち合わせなければ生きてはいけないだろう。
里で生活するのとは違い、鬼と瘴気に晒された中裸で生活するに等しい。そうして焔は物盗りをしながら鬼を倒し、十年を過ごした。だが悪名は霊山に届きお尋ね者となった。そして逃げついた先がこのマホロバだった。里に着いた時には既に空腹も限界であったという。仕方なく人気のない民家、もといスミレの家に入り物色していた── とおおまかな顛末を話した。
スミレは本部事務職員である。霊山から毎月送られてくる手配書をよくよく思い出した。
手配書には、人相と年齢や背格好また犯罪経歴が羅列されているが、焔の手配書は終ぞ見た記憶が無い。霊山からの伝達もこの西果てではかなりの日数を要するから、或いは通達が送れているのかもしれなかった。だがそれにつけても焔が物盗りをしながら鬼を倒し続けてきた事実は、万年人手不足のマホロバに取って不幸中の幸いであるのかもしれない。
仮に焔がお尋ね者でも、スミレは本部モノノフとして奉公して貰えないだろうか…との考えが過ぎっていた。過去にもマホロバでは、先代お頭であった亡き西歌が外様を受け入れ、彼らはサムライ部隊として現在里を守ってくれている。焔がこの里でモノノフとして働ける可能性が無いわけではない。
だが問題は一介の事務職であるスミレが盗人を本部モノノフへ推薦できるかどうかだった。よそ者やあぶれ者を一番に毛嫌いするのは、近衛隊長の八雲だ。きっと彼がいの一番に否を突きつけるに違いないだろう。
それでも、これまで生き延びた彼の実践は、マホロバの里にとっては貴重な戦力だと思った。
「あの…、大型鬼とも今まで対峙したことが…?」
「ああ、何遍も遭遇した。一人でぶっ倒したのも居たが、命からがら逃げ延びた事もあった」
「そうですか…」
ことり、とスミレは湯のみを床に置いた。
一度、近衛でもサムライでも無い、紅月に相談すべきだと思った。優しい彼女ならきっと焔の力になってくれるに違いないし、このまま良い腕を野放しにしてしまうのは勿体無い。本部職員としては是非とも欲しい逸材でもある。また、近衛でも、サムライでもない焔は、きっと紅月をも支えてくれる ──
スミレはダメ元で提案した。
「あの、取引しませんか?」
「何だ急に…」
「焔さん、これまで培ったそのモノノフの腕、是非マホロバにお貸し下さい。その代わりご飯をお腹いっぱい食べられる事をお約束します。実は私は本部職員ですが…今回の物盗りの一件は水に流します。あなたの事も霊山に報告はしないとお約束します」
「俺は、ひと所に留まる気はねえよ」
「これ以上、物盗りを続けても今日みたいにふらふらになるまで彷徨うことも考えられます。今後私みたいに怖い思いする人も居ると、思いますし…」
「冗談じゃねえ!勝手に決めんな。俺はこれまでもこれからも盗賊だ。今晩飯を分けてくれたらそれきりだ…。この里の連中と馴れ合うつもりは微塵もねえ」
「……。」
暫し間があった。沈黙は重く、互いに言葉が見つからない。焔に取ってみれば物盗りに入った先で説教されているのも同然だ。根っから盗人としてこれまで自由気ままに過ごして来たのだから、急に若い娘に指図される事には矜持が働くのも最もだ。
結局、スミレは説得と勧誘を諦めようとした。梅干しと、漬物と平らげてもらったら帰ってもらおう。そう思い、壷と折り箱を焔に差し出した。
その時、再び人の気配を感じ振り返った。勝手口には人影が落ちていた。土間にまっすぐ伸びた長い髪を持つ影。そこには傾き落ちた月を背に、紅月が仁王立ちをしていた。
「スミレっ!明かりが無いのに物音がすると不審に思って覗いてみれば…怪我は無いのですか?!あなたは不用心にも程があります!お人好し過ぎます!」
「紅月さん…、ご、ごめんなさいっ」
「そちらの男性が、焔といいましたか?鬼との実戦経験があるのなら、私が預かりましょう。あなたには証ノ儀を受けて頂きたく思います」
いつの間にか漬物を平らげ、指先を舐めていた焔は初対面の紅月をギロリと睨んだ。今にも食って掛かりそうだ。すかさず腰に手を当てるもお生憎である。焔は片膝を立てると頭を傾けた。
「ったく、黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって。何だてめえ、話はとっくに着いてんだ。こいつは食料を俺に寄越す。俺はこいつに手を出さない。それだけの話だろ」
「他人の家に押し入っておきながら…スミレは許したとしても私はあなたを許せません。あなたは鬼を伸す心得がお有りの様です。本部は万年人手不足で困っていたところです。家屋侵入の罰として、是非私の下でみっちり働いて頂きましょう」
「おまえっ、人の話聞いてんのかっ?!」
「スミレ、焔のことは私に任せてください。八雲やかぐや様にもきちんと話をしておきます」
「あの、でも…紅月さん…まだ、」
「大丈夫です。そうそう、その武具はスミレがしっかり預かって於いて下さい」
まさか本当にこの場で紅月が焔を連行する流れになるとは思わなかった。
紅月は抵抗する焔をお構いなしに、強引に家から引っ張り出すと引きずるようにして本部へ向かっていった。彼女を信じていない訳ではないが、里の最強とは言え仮にも焔は盗賊だ。スミレは紅月が心配になるも誰にも相談できず、その夜は一睡も出来ずに夜を明かした。
翌朝、スミレは一番に本部へ出勤した。先に受付に入っていたのは事務総括の上司、主計だった。昨晩の事を相談するには、彼が一番である。思い切って話してみることにした。
「主計さん、おはようございます。実は、ご相談が…」
「おはようスミレくん。昨晩の事件、紅月くんから聞いたよ。またとんだ災難だったね。怪我は無かったかい?」
「もう、ご存知だったのですね…私は大丈夫です。…その、もう本部職員は皆、焔さんのことをご存知なんですか?」
「いいや、まだ私と隊員が数人だけだ。丁度、紅月くんには長期任務を振ろうと思っていた所でね。今日から一ヶ月間、焔くんにも同行して貰うことにしたんだ。ついさっき発ったんだよ」
「一月も…?!大丈夫でしょうか…」
「なに、心配はいらないさ。彼女に逆らうと大変なのはもう十分身に染みている様子だったよ。はは、どうも昨晩は随分ときつくお灸を据えられた様子だったね。盗賊だったと紅月くんからは聞いていたが、私から見た彼の印象だと焔くんは…素直で芯の強い子、なんじゃないかな。これは長年モノノフを見てきた、事務員の勘ってやつだがね」
年の功とも言うのかもな。そう言って主計は笑った。彼には椿という一人娘がいる。椿も近衛として、最前線で活躍する敏腕モノノフだ。
長年里で大勢の隊員を見守る主計は、隊員が落ち込んだ時、任務が無事に終えた時、どんな時でも隊員たちを我が子同然に見守り支えてくれる。それ故主計の人を見る目は間違っていた事はない、とスミレは思っていた。
しかし、紅月の実行力も大したものである。一晩で、どうやって焔を説き伏せたのかスミレには見当もつかない。何はともあれ、無事に隊が任を終え戻ってくることを祈りつつ、スミレも自分の職務に励み彼らの帰りを待った。
それから日々忙しくしているうちに、早くも一月が経過した。本部には遠征隊から一足先に連絡係が里へと到着し、皆無事に帰還の途にあるとの報告があった。
本部職員の殆どが終業し、帰宅するのを見送ったスミレは、一人紅月と焔の帰りを待った。帳も落ちきった頃、ぎいと音を立て里の門が開かれた。
そわそわと落ち着かなかったスミレは受付から出ると、紅月と焔、そして隊員らを出迎えた。焔は、紅月の後に付き従うようにして入ってきていた。彼自身の武具はスミレが預かっていたにも関わらず、彼は本部で武具を借り遠征へ向かったらしい。腰には太刀が一振り下がっていた。
スミレの出迎えに、紅月が嬉しそうに笑い入ってきた。
「スミレ、こんな時間まで待っていてくれたのですか」
「お帰りなさい紅月さん、それから…焔、さん」
焔は随分気まずそうな表情を浮かべ「おう」と一言返事をしただけだった。物盗りに入ってきた晩の刺々しい雰囲気はどことなく削げた様子だ。いやむしろ初対面の時より元気が無いように思える。
遠征先で何かあったのか、と紅月に密かに問うと彼女は「報告書に書いておきますので後で読んで下さい」とだけ言い、隊員を解散させ自身もまた帰宅準備を始めた。荷物を整理し終えた紅月は、今だ黙って突っ立って居る焔に言った。
「焔、あなたはやはり自分の武器の方が扱い易いでしょう。スミレの家で預かっている物を取りに行って下さい。今後はそちらを」
「おう」
「それでは、焔、一月お疲れ様でした。とても良い働きでしたよ。これからもマホロバのモノノフとして手伝ってくれますか?」
「そういう約束だからな」
「ありがとう。では、スミレ。あなたも遅くまでご苦労様でした。私は先に失礼します」
「はい、紅月さん。長期任務お疲れ様でした。ゆっくり休んで下さい」
紅月の背を見送ったスミレは本部の片付けを始めた。今だ焔は受付向かいの椅子に座り、壁に掛かった地図をどこに焦点を合わすでも無く眺めている。机に頬杖をつき何か考え事をしている様子だった。
「あの…焔さん…」
「あ?」
「そろそろ、明かりを消しますが…」
「ああ、そうだった。てめえの家に預けてあったもん取りに行かねえとな」
スミレは焔と共に本部を出た。空はすっかり星々が威勢の良い時間となっている。
焔の半歩後ろを歩き、スミレはやはりぎこちなかった。自宅へ盗みに入った盗人と今、帰路を共にしているのだから当然である。しかし妙に威勢の無い彼を不思議に思った。
「焔さん、あの…里のモノノフの件、承諾して下さってありがとうございました。ところで、少し元気無いみたいですけど…具合でも?」
「…いいや、すこぶる体調は良好だ。毎日陣所でうまい飯食ってたからな。つーか、丁度任務の帰りに近くの集落が盗賊に襲われてるのに出くわしてよ…。俺らがその掃討に当たった。しっかし、襲われてる最中の連中ってのは、あんな顔して恐怖してたのかと思ってよ。まあ今さらって感じもするが」
任務から帰還の途中、盗賊の一団が家々を襲撃していた所に出くわしたらしい。過去、盗賊として数ある一味や土地を転々とし、村や町を襲っていた焔は、当時は逃げ惑い悲鳴を上げたりする家の人間に、何とも思わなかったそうだが、その光景を端から見て思う所があったのだろう。焔は続けた。
「俺は、金品食料は盗んで来たが…当たり前だがいまだかつて人殺しだけはやってねえ。これは俺の信条だ。けどよ、それがなくともやっぱ一般人にしてみりゃこんな奴ら怖えわな。勿論あんたも…、悪かったな…」
焔の言葉にスミレは歩みを止め、首を横に振った。確かに、あの時は大型鬼に遭遇した時と同じくらい、震え上がるほどの恐怖を感じた。命は取らないと言われても、あの状況では物盗りの第一声を素直に信じられる余裕は無い。
ただ、今こうして改めて焔が謝罪の言葉を述べてくれた事は素直に嬉しかった。頭の後ろに手を組んだ焔は、一度うんと背伸びをしながら更に歩みを進めた。
スミレの自宅まで到着するとスミレは「少々お待ち下さい」と言い、長持ちの蓋を開け焔の武具を取り出した。玄関先で待っていた彼に返した。
「長年連れ添ったとても大切なものなのに、預かったままですみません。…人質の様な扱いになってしまって」
「気にすんな。俺を強制連行したのは紅月だ」
「でも、焔さんがモノノフとして里で働いてくださる事は、本当に感謝しています。この里はお頭が不在な上、西の最前線ですから、いつも猫の手も借りたいほどなので」
「…人に感謝なんてされるの何年ぶりだっけか。まあ、だがそれはお互い様だな。いいか悪いかは分からねえが、俺もあんたに会えて無かったら今頃お縄についてたかもしれねえからな。結果論でしかねえが、これからもよろしく頼むぜ、職員さん」
「はい。あ!そうでした。私、焔さんと約束しましたよね。美味しいご飯をお腹いっぱい食べさせるっていう約束」
「そういやそうだったな。ところであんた料理は?」
スミレは久音の小料理屋や、里でもとびきりの食事処へ彼を誘おうと考えていただけに、焔の的外れのような問いに首を傾げた。
「ええと…、人並みには…?」
「んじゃ、それだな。あんたの作った飯、食わせてくれ」
「そ、そういうこと…、さらっと仰らないでください…!」
「あ?別に、素直に要望言っただけだろうが」
「本当、焔さんには驚かされてばかりです…」
スミレは背を向けると俯き、ぽつりと答えた。言葉が聞き取れなかったらしい焔は、横から覗き込みスミレを見上げている。まるでお宝でも見つけたかのように不敵な笑みを浮かべていた。