相惚れ
紅月がお頭となり、千景が隊長を拝命してから幾日か経った。万年人手不足のマホロバは、本部が新体制になったとはいえその慌ただしさが軽減するわけでもない。隊長とはその名の通り、隊を率いて任務遂行の指揮を引き受ける役回りだ。彼らの安全を第一に考え自らも戦線に立ち奮迅するが、その管理にはいまだに慣れないことが多い。刀也や八雲が卒なくこなしているのは、彼らには積み重ねた経験が豊富だからだ。千景はついていくのに必至である。
任を終えた隊員が千景に挨拶をし本部を出て行った。それを見送り、千景も最後に退出し帰路についた。重い体を引きずり鍛冶屋前の自宅を目指す。濡れたように照らされた石畳を歩き玄関先までやってきたが、ふと思い立って方向転換した。外様の居住区の方へ歩みを進め、気がつけば焔の家の前に立っていた。だが、家の灯りは付いていない。勿論その理由も知っていた。焔は夜間任務の応援に呼ばれ今は異界に居るのだ。
片や隊長、片や手練れのモノノフ。焔はその敏腕を買われ方方へ緊急に駆けつける事も多く、最近は千景と休みも合わずもう長いこと顔を合わせていない。いつもなら諦めて引き返すが、なぜだか今日の千景はそんな気が起こらなかった。たまには彼のために、朝食でも作って “いいひと” らしく待っていようと考えたのである。
勝手知ったる裏口からそっと家へ入った。真っ暗な部屋は殺風景で、必要最低限の物しかない。
千景が生活用品の購入を勧め、階段箪笥や使い勝手の良さそうな長持ちも多少増えたが、それでもひょうひょうと身軽な焔がいつまた、里を出て行ってしまうのではとそんな不安がいつまでも心底に淀み時折胸がちくと痛む。
博士や紅月に話したならばもう心配はいらないと答えるだろうが、結局、今こうして朝食を作ろうとしているのだから、会えないことでのさばる不安は日頃の忙殺のせいだと言い聞かせ、千景は行燈に火を灯した。
板の間に上がり、囲炉裏に火を焚べた。鉄瓶に水を入れ自在鉤に吊るした。土間に行かねばと思うも、温まる部屋と揺れる炎を眺めるうち次第にまどろみ始める。冷たい床に頬をつけ、いつの間にか意識を手放していた。
思うあまりか、夢にまで焔が出てきた。
焔は、気に入りのいつもの川辺に佇み「こっちに来いよ」と千景を呼んでいる。駆け寄ろうとするも、なぜだか焔には一歩も近づくことができない。それどころか焔は背を向け、次第に川の中へと足を踏み入れた。必死に彼の名を叫び、呼び止め、立ち止まって欲しいと声を上げる。だがどうしても届かない。焔が胸まで浸かった辺りで川の水はぶわりと溢れ浸水し、千景も水中に溺れるように漂っていた。遠くで焔が呼んでいるが、姿が見えない。
息苦しく彼の名を呼び続けていると、途端明瞭な声が降りそそぎ、驚きに千景は瞼を開けた。
「おい、千景、千景!」
「ほ、むら…?」
「てめえ、うなされてたぞ」
はっとして、上体を起こした千景はきょろきょろと辺りを見渡した。
部屋の隅の行燈を見る。火を入れたのは覚えている。囲炉裏を見る。火を焚べ湯をわかす所までは記憶がある。だが外はまだ暗い。あれからそう時間は経っていないにも関わらず、焔は帰宅していた。振り返って首を傾げると「寝ぼけてんじゃねえよ」と指で額を小突かれた。
「数間に合ったから帰れって紅月がよ」
「あ…、ああ、そうなの。おかえりなさい」
「ったく、ビビらせやがって。帰ってきたら家の明かりはついてるし、唸り声はするわで、物盗りでも入ったかと思っちまった」
「ごめん…。そ、そう!私、焔が返ってくるまでに朝食作ろうと思ってたの。でも寝てしまった…」
「そんなこったろうと思ったぜ」
焔は、頭を撫でて揺さぶり伸ばした手をそのまま頬へ下ろした。覗き込むようにしてまじまじと視線を這わせ、目を細め顔を近づけてくる。触れた親指の箇所が熱を持った。頬の上を何度か滑らせ焔はニヤリと笑った。
「頬に跡、ついてんぞ」
慌てて両手で覆い隠すと焔はしたり顔で土間へ下りた。竈の前にしゃがみ手際よく火を焚べている。恐らく夕食はまだなのだろう。千景も立ち上がり手伝いを申し出たが、背を向けたまま「座っとけ」と制した。
暫くして焔は出来上がったらしい鍋と囲炉裏の鉄瓶とを入れ替えた。木蓋を開けると良い匂いが充満し空腹を誘う。焔の手料理は随分久々だった。
「俺様特性鍋な。たんと食え」
「美味しそう…」
焔は椀によそってくれた。今晩はいつにも増して世話を焼いてくれる。舌鼓を打っていると段々と込み上げてくるものがあった。
モノノフは大立ち回りや華々しさが際立ち、人々からは賞賛と羨望を向けられるが、その実薄氷を踏むような異界で常に死と隣り合わせた、良い結果がそれだ。焔は腕が立ち、精神力も人並み外れて逞しいが、心を交わしてからは目に見えない恐怖により一層怯えている。顔を合わせない時間は意外にも千景の気丈を蝕んでいた。
こうして何気ないやり取りや、当たり前に食事を共にしているだけだというのに、感情的になってしまうのは久々に一緒に過ごしているからだろう。夢見が悪かったのも一因かもしれない。
安堵と嬉しさに思わず鼻をすすっていた。
「なんだ、風邪か?」
「う、ううん!熱いもの食べたからだよ」
束の間箸を止めた焔は「そうか?」と言ってまた黙々と箸を動かした。
鍋の八割ほどを焔が食べたお陰で、見事に空になった。満足気に腹を擦る焔を横目に、後片付けを始めた。桶に水を張り、外で食器類を洗って戻ると焔は仰向けになっている。千景が戻ったのを認めると「ご苦労さん」と労った。
囲炉裏の鉄瓶がしゅうと湯気を吹いている。茶を淹れて一服すると、焔は起き上がって傍らに座った。
「今日来会えてよかった。ありがとう」
「なんだー、改まって。いつでも来りゃいいだろ。遠慮すんなよ」
「そうだね。今度からはそうする」
火のくすぶる音と茶をすする音とが交互に響く。少し冷たい隙間風が届きそれが火照った頬に心地よい。囲炉裏の火を見つめたまま沈黙が二人の間を埋めていた。別段息気まずくも無く、穏やかなものだった。湯呑みの縁の上からちらりと焔を見遣れば思い掛けず視線が通った。覗き見をしたような気分になり咄嗟に目を逸らすと焔は湯呑みを口に付け、くぐもった声を出した。
「…泊まってけよ」
ぱんと炭が弾け火の粉が舞った。唐突な音に驚いて肩を震わし焔を見遣った。向けられた視線は今にも射抜かれそうだ。いや既に千景の深淵に届いていた。人間は欲深い。欲していたものに手が届くとその先を期待してしまう。自らが言えなかった言葉を焔が言ってくれた。断る理由など無かった。
ことりと湯呑みを床に置き、焔が腕を伸ばした。されるがままに抱かれて顔を埋める。これまで悶々と綿のように詰まっていた不安が瞬時に消えていた。体温が伝わる。鼓動が耳に届く。今は満ち足りた気持ちに心底息苦しい。
「これだけで満足気な顔してんじゃねえ」
噛み付くように口づけをし千景の手首を掴んで床に押し倒した。深く浅く繰り返し互いに受け入れ応える。呼吸する間もなく続ければ息も上がった。焔は上下する胸に手を這わせ無造作に着物を剥ぐ。首、肩、鎖骨と暗がりに露わとなった肌には行燈の朱が映えた。
千景は焔の後頭部まで手を伸ばし鉢巻を取った。前髪がぱさりと下り、くすりと笑う。焔は仕返しだとでも言うように彼女の存在を確かめるよう丁寧に体の線を撫で、所構わず唇を落とした。
彼女の嬌姿に焔は余裕を失っていた。いつもは多少焦らす愛撫も太腿を遡れば直ぐに触れた。届く前から随分興奮していたらしく焔の指は間もなく付け根まで濡れる。焔は彼女の恥じらいを益々煽った。
「もう、こんなだぜ」
わざと音を立てると千景は身を捩るが抵抗という程でもない。そんな茶番を押さえ付けては繰り返し、焔の首に回された腕に力が入ると察して焔は手を止めた。千景は焔の名を消え入りそうな声で呟いている。物足りなさに潤む彼女の眼差しを、掌握する今の焔は独占欲の塊だろう。今一度深く口づけを交わし、彼女の懇願望むままに焔もまた彼女に溺れた。
夢中に求め、時に巫山戯て笑い合ううちに既に外は明け方に近くになっていた。行燈の火が弱々しく揺らぐ中、焔はくたりと横たわる千景の腰を引いた。
「明け方はやっぱ寒いな」
「私ゆたんぽがわり?」
「嫌かよ」
「ううん」
千景は恥ずかしがる素振りを見せながらも焔と向き合った。いつもなら俯きただすがるように抱きつくだけだが、今日は珍しく正面に見合う。かと思えば、彼女からゆっくりと焔の唇に触れていた。
「ったく…、いつもこうだといいのによ」
想う気持ちも、思い詰めれば苦になる。もう少しだけ単純に、そして素直に相手へ身を委ねてもよいのかもしれない。