冷たい

 中つ国に鬼ノ府が誕生したのは、大凡九百年前であるとされている。神籬(ひもろぎ)のあった神域に拠点が築かれたのが始まりだ。
以後長い年月を経て、鬼の研究部署、モノノフの養成機関、中つ国の歴史研究…などなど、鬼ノ府では組織の編成改革が行われ、人の世を守るために様々な思想、主張を持つモノノフも増えていった。と同時に、組織内の階級も明確になり、次第に派閥も出来始めた。
 現在、鬼ノ府の最高機関の地位にあるのは、総本山である霊山だ。
 各里で任務に就くモノノフの全てを取り仕切り、優秀なモノノフや神垣の巫女を多数抱える鬼ノ府組織の中枢である。霊山には霊山君とよばれる最高権威が在位し、その声一つで各里のお頭は有難がったり、辛酸を嘗めたりもする。何はともあれ、モノノフにとっては絶対的な権力、存在であるのが霊山なのだ。
 ところが六十年ほど前、鬼ノ府組織から離反した者たちが独立し、組織が作られた。陰陽方という組織である。
 陰陽方は「長老」と呼ばれる十二人の支配者が上位にあり、その下に研究調査を行う「令部」、そして令部の研究を手助けする陰陽方の実動部隊「暗部」と呼ばれる部署があった。
 陰陽方の発足当初は、霊山に背いた者たちとして鬼ノ府と対立関係にあり、険悪だったそうだ。
 鬼の研究を始め、鬼門の調査を専門的に行う機関であると自ら宣言していたが、その実黒い闇が覆い被さった得体のしれない組織で人々からは薄気味悪がられていた。というのも、陰陽方の設立後、頻繁に神垣の巫女の行方不明者が頻発し、また各地で鬼の変死体が多く見つかったからである。陰陽方の仕業であるとの確証は無いが、時期が時期であった為に、当時の人々は<得体が知れない>との言葉で皆片付けたがった。暗部が討伐した鬼を持ち帰らせ、令部で部位を解剖しているとの噂が市井に広まったことも、人々が陰陽方を嫌悪し遠ざかる要因だった。
 だがそんな組織も、現在は鬼の根絶という鬼ノ府と共通目的の下、霊山側もその働きを認め、協力体制を取っている。情報の共有は明日を生きるに必要だ。可もなく不可もなしといった関係が今日に及んでいる。
 独立した組織の陰陽方だがその建物は霊山の郊外にあった。霊山本部からは殆ど異界との境界付近、生い茂った常緑樹の間に屋根だけが見えている。明かりを取るための縦格子には、廊下のそれに至るまで黒い布が掛けられ、外からは中の様子が一切分からない。一見すると不気味な佇まいだった。
 鬼ノ府試験に落第した夏菜は、少し前からこの陰陽方の暗部で働いていた。暗部の仕事は鬼の討伐は勿論のこと、鬼の部位や異界物質の収集である。
 部署の名の通り、その仕事内容は常人はやりたがらないものだった。はっきり言えば、戦後の追い剥ぎの様な事をやっている。霊山のモノノフが戦闘を繰り広げた場所に赴き、鬼の生体を探るべく残った死骸を漁るのだ。
 普通のモノノフであれば気が狂いそうなものだが、暗部の人間は訓練を積んでいる為に多少の酷さは慣れている。鼻の曲がるような臭気と、どろどろとした体液の中、淡々と肉片を麻袋に突っ込む様はいっそ見ていて清々しいほどの仕事っぷりだ。
 骨肉ともわからないものが入ったそれを抱えた夏菜は、とある部屋の前で膝をついた。障子の向こうは蝋燭の明かりがゆらゆらと揺れている。声を掛ける前に、中から凛とした声が届いた。

「夏菜か…、早かったなぁ。入るがいい」
「只今戻りました。虚海様、失礼致します」

 この部屋の主は「虚海」という名の女性だ。見かけは十幾つの少女のようだが、実際の年齢は不明だ。陰陽方の長老の誰よりも歳をくっているという噂もあるが、定かではない。
 虚海は机に向かい、夏菜に背を向けたまま「少し待っていろ」と呟き暫く筆を動かしていた。どこかへ返書を書いている様子だ。夏菜は命じられるがまま、じっと華奢な背中を見つめていた。
 彼女はこの陰陽方の一番の古株であり、令部にも暗部にも所属していない特別な立場を与えられていた。長老たちも彼女には少々頭が上がらない節がある。どういう理由で特別な存在なのか詳しいことは分からないが、ただひとつ言えることは彼女はこの中つ国の歴史に詳しく、非常に鬼門に通じているということだ。虚海が調べあげたであろう、鬼と、この不思議な世に関する様々な事象が記された綴りを見せて貰ったことがあるが、図解は明瞭であり、まるでこの世の創世を見てきたかの様な解説文が添えられている。彼女の探究心に夏菜は感服していたし、またこの終わりなき混沌に何かを見出そうとする粘り強さを尊敬していた。
 虚海はいつも顔半分に赤い面をつけ、それと同じ材質で、腕、足と体半分も覆っていた。初めて会う者は皆その異様な形にぎょっとする。夏菜も始めはそうだった。今まで一度だって全貌を見たことはない。
 だが、半分晒された顔は色白で瓜実顔の表情は涼やかだ。きっと隠された半分も「すまぬ、待たせた」と同じ様に笑っているのだろう。席を立った虚海は、夏菜の前でしゃがんだ。「面を挙げよ」と伸ばされた手は頬に伸びている。冷たい親指は慈しむように目の下を行き来していた。

「大事ないか。度々感謝している。暗部の中でもお主にしか頼めぬ」

 低頭し、夏菜は麻袋を差し出した。

「虚海様のご所望でありますので。わたくしにできる事なら、なんなりとお申し付けください」
「そう、かしこまるな。お主と私との仲だ。…茶でも飲んで行くか?」
「はい…。ありがたく」

 虚海は立ち上がると、円形の机の椅子を一脚引き、夏菜に座るよう促した。恐縮しながらも腰を下ろした夏菜は、膝の上で両手を揃えた。忍装束に似た暗部の隊服は土煙に少々汚れていた。太ももの辺りを手で擦っていると、虚海は二人分の茶を盆に乗せ夏菜の向かい側の椅子に座った。

「良い茶葉が手に入ったのでな。体が温まる」
「ありがとうございます」

 虚海が口を付けたのを見届け、夏菜も一口飲んだ。良い茶葉も悪い茶葉も区別が分からないのは、虚海にじっとみられているからだろう。気づかぬふりをして、また一口飲み、茶托に戻した。顔を上げると虚海は頬杖をつき、じっと花器に生けられたホオズキを眺めていた。既に朱色に染まり、先端は茶色に変色している。直に枯れるだろう。虚海は口角をわずかに上げ、ふっと笑っていた。妖麗に微笑む彼女はいつも見ていてどきりとする。顔を戻した虚海と目が合い、夏菜は思わずそらしてしまった。

「夏菜、 ──」

 そう言って、机の下から夏菜の膝に自分のものではない手が届いたかと思うと、段々と遡り土埃のついた箇所へと伸びていた。机の曲線から覗いた指先は白く、鋭く、少しでも動けば爪を立てられそうだ。

「あの…、虚海様…」
「少々、裂けておるなあ」
「見苦しく申し訳ございません」

 椅子がギイと音を立てていた。虚海は腰を浮かし体を夏菜の方へ乗り出している。覗きこむ彼女の黒い髪が夏菜に掛かった。向けられた一つの瞳には深い寂しさを宿しているように思えた。

「夏菜、お主は居なくなるでない」
「虚海様…?」
「私を一人にしてくれるな…」
「どうしてお一人になどしましょうか」
「約束してくれるか」
「はい…」

 悲しそうに笑った虚海は夏菜の髪をすくい上げ、そのまま顔を近づけた。気づいた時には彼女の唇が夏菜に触れていた。面が半分邪魔をして、全てが触れないと気づいた虚海はぺろりと舌で夏菜唇をなぞった。体がやけに熱かった。心臓の音が煩い。硬直している夏菜に虚海は腕を回し頭を肩口に押し付けた。虚海のからは、薬品と僅かな香の匂いがした。

「なあ、夏菜。千歳と呼んでくれ」
「ち、とせ…、千歳…」
「ああ、懐かしい…。覚えていてくれ。私の、古い名だ」

 彼女が全てを話した時、夏菜の心は冷たく濡れていた。