樒に呼ばれたのは、里の見回りを終え門を潜った時だった。黄昏時、門柱の影になった場所に突然ぬっと現れ「付いてきて」とぼそりと呟いたかと思えば、旭陽の手を引き祭祀堂まで連れてきたのだ。
祭祀堂は、本堂へ続く石段のすぐ脇にある。神社のような佇まいで、木造の床の高い建物だ。
階段を上り、賽銭箱を横切り中へ入ると、旭陽の自宅の倍はある広い板の間があり、部屋の奥には子供が腕を目一杯広げたくらいの丸い鏡が置かれてあった。旭陽と樒は楕円に歪み写っている。周りに供え物があるところからして、祭壇であるらしい。
樒はそれを背にして座ると、ぼうっと突っ立ている旭陽に己の正面へ座るよう座布団を差し出した。恐る恐る腰を下ろした旭陽を、樒は舐めるように見つめているが、まったく一言も喋らない。我慢できず、旭陽は口を開いた。
「あ、あの…樒さん。私、どうしてここに連れて来られたのでしょうか…」
「あなた、最近御霊と話しをしている?」
樒の言葉に旭陽はそういえば…と思い返した。ミフチを倒し、安倍晴明が己に宿って以来、ここ暫く那須与一の声も安倍晴明の声も、終ぞ耳にしていないないのだ。いや、彼らが単に話し掛けないだけなのかもしれないが、それでも、うんともすんとも音沙汰が無くなって── かれこれ二週間にはなる。
樒の鋭い指摘に旭陽はおののき、また自身の鈍さに頭を抱えた。
「そう、言われてみれば…全然声を聞いていません。でも、どうして樒さん分かったんですか」
「私は御霊と話ができるから。御霊たちは貴方に話し掛けているけど、旭陽に声が届かなくなっているのが、かなり心配。みたい」
どうやら、樒は、今旭陽を正面に据えたまま、那須与一と安倍晴明の声が聞こえているらしい。だが、旭陽はやはり声が聞こえなくなっていた。御霊同士の会話を少々うるさいと感じることもあったが、いざ会話が出来なくなっていると分かると、不思議と寂しさがこみ上げる。
何が原因で御霊の声が聞こえなくなったのかさっぱり分からなかった。
やはり、元々がこの土地の人間ではないからして、旭陽はモノノフに向いていないのかもしれない…。声が聞こえなくなったのも、樒に教えて貰わなければ、今だに気づいていなかっただろう。項垂れる旭陽に樒は更に問いただした。
「旭陽、あなた、最近ご神木を通って出る湧き水を飲んでいる?」
「湧き水…ですか?」
よく考えてみれば、近頃旭陽が飲用として使う水は、家のすぐ裏にある井戸水ばかりだった。
樒の言う湧き水とは、旭陽の家からご神木の方角へ少し歩いた所にある泉のことだ。石に囲われた湯船の様な場所に、澄んだ水が昼夜問わずこんこんと溢れるほどに湧いている。
そこは、家一戸に付いている井戸とは違って、里の住民は勿論のこと、外から訪れた人間も自由に使うことが出来た。湧き水は、山の斜面を通り滲み出る山水と、ご神木に降り注いだ雨が地中を通り、長い時を経て湧いたものだと樒は言った。
「あの水を飲むようにするといい…。神木の加護があるからまた話ができるようになる。私の話はそれだけ」
話を終えた樒は立ち上がり、祭壇から幣を持って来た。表情を変えず、旭陽の頭の上でそれを二三度振った後、まじないを唱え「おしまい」と言い旭陽を返した。
ようやく樒から開放された頃には、既にとっぷりと陽は沈み、辺りは墨を掛けたように真っ暗になっていた。
ともかく、再び御霊の声が聞こえるようになるには、樒に言われた事を実行に移す他ない。早速水を汲みに行かなければなと思い、旭陽は階段を下りた。
辺りは里のモノノフ隊員らが、等間隔に配される松明にすっかり灯りを点している最中だ。増えゆく灯りにほっと息をつき、旭陽は帰路をたどる。
その先には真っ赤な傘と腰掛けがある。里の民と行商人が夕涼みをしながら雑談をしていた。行商人は、里の「よろずや」によく出入りしている男性だ。旭陽とも顔見知りだった。
「やあ、旭陽さん、樒様のところに用事だったのかい?」
「はい。色々ご助言頂いた所でした」
「あのお方は御霊と話が出来るって言うしなあ。さぞ、霊力のある御方なんだろうな。そういうモノノフの皆さんも、御霊と話は出来るんだろ?」
「そう…ですね。得手不得手もあるのでしょうけど」
「そうか。でも羨ましいよ。俺、もし御霊と喋れたら、過去の偉人の方々に女性の好みとか聞いて、話咲かせたかったな」
「女性の…、好み…」
「そうそう、昔の人の美人の基準って、今とは違うだろうからさ。って…、悪いな、帰るところを急に呼び止めちまって」
帰宅した旭陽は、その日から暫く神木の湧水を飲むように心掛けた。すると不思議なことに那須与一と安倍晴明の声が再び聞こえるようになり、また驚くべきことに、目を閉じると二人の姿が鮮明に浮かび上がるようになっていたのだ。
那須与一の印象は利発そうな好青年で、旭陽が思っていた以上に若く、安倍晴明もこれまた目鼻立ちの整った青年だった。陰陽師というよりは、まるで舞台役者のような顔立ちをしている。
二人は生まれた時代は違えど、大分馬が合うようだった。旭陽が声が再び聞こえる様になったとは知らずに、まるで母親宜しく、勝手にお節介を焼き、旭陽の婿を選んでいる真っ最中だった。「ちょっと、お二人共、勝手に話まとめないでくださいよ」と話に割って入る旭陽に驚嘆するも、また会話が出来て嬉しいと言ってくれた。
丁度、与一と晴明が婿がどうのと話していたので、旭陽は以前行商人が言っていた、御霊の女性の好みとやらを聞いてみようと思い立った。
「あのー、偉人の方にこういうの聞くのも失礼かと思いますが…。以前、行商人の方が、御霊と喋れたら女性の好みを聞いてみたいって、仰ってたんです…、お二人はどんな方が好みですか…?」
突拍子もない旭陽の質問に、意外にも失笑気味なのは那須与一だった。腹を抱えて笑っているのが目に浮かぶ。それでも、仮にも旭陽は主だ。「主殿の質問には答えねばな」と与一は頷いていたが、先に答えを口にしたのは晴明だった。
「ほう…、今世の人間も変わりませんね。陰陽師としてはやはり、癒やしをくれる女性が良い。日々祈祷に明け暮れれば喉は潰れ、魑魅魍魎に精神を蝕まれますので」
「陰陽師も意外と重労働なんですね…。(里のモノノフで言ったら那木さん…みたいな人かな…)ちなみに与一さんは?」
「私か。晴明の言うように、確かに武士にも癒やしは必要とは理解するが、私は気概があり、共に戦ってくれる者が良い…かと」
与一は晴明とは違って少々照れた様な声を出した。
「成る程…(桜花さんみたいな人かな…)」
二人の相貌からして妙に納得行く答えを得られた旭陽は、時間のある時にでも、彼らの奥方がどのような人物だったのかを調べたくなった。
すると、晴明が逆に旭陽へ問いただした。
「主殿、人には聞いておきながら、貴殿はどうなのです?年頃でありましょう。好いた殿方の一人や二人、居らねばなりません」
「私は…、毎日の生活にしがみつくのに必死で、そんな余裕が無いというか」
与一は「ほう?」と訝しむような声を出した。
「とすると、主殿は心に余裕があれば、そういう者が出来るかもしれぬということだな」
「与一さんそれは、解釈の幅が大きすぎますよ!」
「ふふ、楽しみですね、与一殿」
「全くです、晴明殿」
「もう、勝手に楽しみにしないでくださいー」
そうして三人でやいのやいのと話しながら、市へ買い物に出かけようと旭陽は玄関を出た。すると、家の前を富嶽、息吹、速鳥が丁度通りかかった所だった。三人が一緒にいるのも、また、この辺りで会うのも随分珍しいことだ。
戸に手を掛けたまま、きょとんと瞬きをする旭陽に、息吹は「よう、旭陽ちゃん」と手を掲げ近づいてくる。よく見ると三人共桶を小脇に抱え、その中には大きめの手ぬぐいが入っていた。まるで今から銭湯にでも行く構えだ。
「皆さんお揃いで、どうしたんですか」
「ん?いやあ、禊場が新しくなったらしくてさ、隣に温泉もできたんだ」
「へー、温泉ですか」
「そ。旭陽ちゃんも一緒に入るか?禊場の改装には、広さがあまり取れなくて混浴なんだってさ」
するとすかさず富嶽が「ばか言え」と間に入っていた。
「まーたてめえはいい加減なことばっか言いやがって。時間帯はちゃんと決まってるだろうが。混浴な訳があるか」
舌を出し、お茶目を装う息吹を、富嶽は明らかに厭らしいものを見るような視線を浴びせた。
旭陽の頭の隅っこ辺りでは、那須与一と安倍晴明が何やら騒がしい。よくよくそばだててみると、眼前の三人のうち誰が旭陽の婿に相応しいか物議を醸していた。まったく余計なお世話だと肩を落とすと、速鳥が言い合う息吹と富嶽の後ろよりひょっこり顔を出した。
「旭陽殿、連日の疲れが溜まっているのでは」
「い、いいえ。これは違います。どうぞお気になさらないでください…ありがとうございます」
「そうか」
速鳥は旭陽と言葉を一往復だけさせると、富嶽と息吹を放って先に一人ですたすたと歩いて行ってしまった。
富嶽と息吹の言い合いは絶えず、日頃の生活態度にまで互いの指摘が及んでいる。博打のし過ぎ、酒の飲み過ぎ、女を口説きすぎ…などなど、悪いところばかりを上げていけば切りがない。旭陽が間に入り、二人をなだめていると、与一と晴明は結論を出した様子だった。
「晴明殿、主殿はこの里のモノノフへ嫁にはやれません」
「仰るとおり、なんとも騒がしい連中ですね。これでは心配でたまりませんよ」
今日もウタカタの里では、過保護な御霊と新米モノノフが賑やかに過ごしている。