第一章
04.鬼ノ府

「おい、こりゃ一体どういった風の吹き回しだ」

 帰還したばかりの富嶽は、受付に居た木綿と、真新しいモノノフ装束に身を包んだ旭陽に向かってそう言った。
 旭陽が身に着けているのは、一見普通の衣装の様にも見えるが、これは霊山より支給されるモノノフ専用の言うなれば対鬼戦闘用の甲冑と言っても良い代物だ。異界の様々な物を使い作られた誂えは、大変動きやすく機能美に特化している。いやしかし、今は機能美の話はどうでもよかった。それよりも、旭陽がその装備を今現在身に着けていることの方が富嶽にはよっぽど問題だった。
 旭陽はつい数日前まで竹刀を竹刀として扱うことすら出来ないような、ただミタマを宿しただけのべそをかいていた娘だ。にも関わらず、まるで新人モノノフの様に、木綿から本堂の使用に関する説明を聞いている。
 富嶽自身も、今は無きホオズキの里からこの地へ来たばかりの頃、里のことや、本堂本部の規則等を木綿から懇切丁寧に教わった。そう、つまり今の状況は、旭陽が「モノノフの様」にではなく、「モノノフ」として、木綿に説明を受けているということになる。
 先日、旭陽が息吹らと見回りに出かけた際、黄泉の餓鬼が桜花に襲いかかった。ところが、咄嗟に旭陽が投げた石が餓鬼の頭部を直撃した。お陰で桜花は怪我をせずに済んだが、以後そんな幸運が度々ある訳でもない。餓鬼は鬼の中でも下級の鬼に分類される。石ころひとつで住むならモノノフなど要らないのだ。
 富嶽は「なめんじゃねえ」といきり立つと、抱えていた己の身幅はある手甲をずしんと床に下ろし、旭陽の鼻先にぐいと人差し指を突きつけた。

「いいか!モノノフごっこがしてえんなら、その辺のチビ共と遊んでろ。本部はな、言っておくが、テメエの寂しさ紛らわす為の場所じゃねえんだ。命張って任に出て行く奴らの管理をする所だ」

 体を乗り出す富嶽に、木綿は受付の内側より腕を伸ばし宥めた。少し眉を下げながらも明るく答えた。

「富嶽さん、霊山からの通達書もあって旭陽さんはきちんと署名もされました。お頭も承諾済みです。旭陽さんは正式にモノノフの一員ですよ」

 舌打ちをした富嶽は持っていた手ぬぐいを叩きつけるようにして肩に掛けた。「はっ、精々死なねえこったな」そう吐き捨て、手甲を軽々と持ち上げると、大きな体を揺らし本堂から出て行った。
 旭陽は富嶽の言葉に何一つ言い返せなかった。顔は酷く熱く、唇を噛み締めた。
 モノノフとしてウタカタで生活し、帰る手がかりを探す。そう、決意をしたものの、当然、未知の恐怖の方が今だに勝る。富嶽の言葉にも揺らぐくらいのささやかな希望を見出したいだけの意志だった。

 聞くに、モノノフとなるには、様々な試験を経た後正式に任命され、各里へと配属されるという。
 本人のモノノフ適性の見極めは勿論のこと、凡そ一年から六年の歳月をかけ心身の鍛錬、鬼の種、弱点、闘い方、またその歴史といった基礎を学び、座学、実地と厳しい過程を修了した者だけがモノノフとなれるのだ。
 だが旭陽は、突然ウタカタに現れ、突然霊山から通達書が届き、鬼やモノノフの基礎知識など一欠片も持ち合わせていないままに任命を受けた。正確にはモノノフになれる許可が既に下りていた。モノノフになりたいと渇望する人間にとっては願ってもない待遇なのだ。
 大和から前向きに考えてくれと言われるも、当初旭陽は断る気持ちの方が強かった。だがやはり、那須与一との会話をきっかけに悩んだ。元居た場所に戻れる可能性が少しでもあるなら、自ら行動を起こさねば解決の糸口は見つからない。或いは、ホロウも見つかるかもしれない。

 そうして旭陽は、与一と話した翌日、優柔不断を抱えて今一度大和に相談しようと家を出たのである。
 視界を遮る朝靄を潜り抜け、年季の入った石段を登り、お頭へ取り次いで貰おうと本堂までやってきた。ところが、たまたまこの本堂本部で大和と桜花が話をしている所に出くわした。
 二人は、難しい顔をして話し込んでいた。重苦しい雰囲気であるのは遠目からでも十分に分かった。声を掛け、中断させるのも申し訳無く思った旭陽は、暫くしてから出直そうと踵を返した。その時、桜花の悲痛が静寂に響き渡った。

「霊山は戦況をわかっているのですか…!ホオズキの里が全滅したように、今度は我々に死ねと言うのですか!」

 石段を下りようとしていた旭陽は歩みを止めた。冷静で温厚な桜花が、激しい剣幕を見せたことに焦燥し、また桜花の言葉に不安が募った。
 大和は、霊山から里に戻ってからも支援要請の書簡を送り、モノノフ増員を打診してらしい。しかし相変わらず霊山は「旭陽を使え」としか返事を寄越さなかった。
 仮に中枢の戦力を他里へ分散し、万が一にも中央が鬼の襲撃に遭っては、鬼ノ府組織の壊滅は免れないからだ。霊山の総意としては、現状、里は里で対処すべしとの方針なのである。
 桜花も頭の中では、ウタカタの里も縦割り組織の一部であると理解している様子だったが、末端の集落を見捨てるような霊山のやり方に酷く憤っていた。
 旭陽は立ち聞きするつもりは無かったが、石段を下りることができずに入口付近で立ち止まったままだった。
 那須与一との話も去ることながら、もし旭陽が最初に放り出された場所が異界であったならば、今頃は鬼に食われ骨と化していたかもしれない。だとしたら、悩める旭陽はここに無いことになる。
 旭陽はくるりと反転すると、決意とともに本堂へ一歩踏み出した。そして大和へ、出来る事から少しずつモノノフとして手伝っていきたいと告げ、今に至るのだ。

 旭陽は、富嶽の出て行った本堂の入口を見つめた。

「旭陽さん、富嶽さんはちょっとだけ言葉は乱暴ですけど、とても心配してるんだと思います。あまり気になさらないで下さいね」

 ・

 木綿から、里の施設等について色々と教えて貰うと、旭陽は一旦家へと戻った。旭陽が寝泊まりしている仮住まいは、今後自由に使って良いとのことだ。
 囲炉裏に、階段箪笥に、寝室の寝床は寝台。座布団に座り、部屋を改めて見回すと気持ちに余裕が戻っていた。飾られた甲には埃がうっすら被っているし、文机の足は意外と太く頑丈そうだ。食事の心配も無く、勝手方の女給が作ってくれる。
 支給された風呂敷包みを開いてみると、任務に必要な道具が揃えられてあった。応急手当の薬、非常用の保存食、位置を知るための方位磁針など。旭陽にとっては珍しいそれらを一つ一つ手に取り眺めていると、戸を叩く音と共に「旭陽様」と那木の声が届いた。
 恐らく大和から旭陽の指南役になって欲しいと、那木は頼まれたのだろう。早速、鍛錬へ参りましょうとの誘いだった。
 那木に連れられやって来たのは、小さな弓道場だ。半屋外の屋根は立派な瓦で、漆喰の白壁が朝の陽に眩しく反射している。的を射る音がしんと静まる空気を規則的に割っていた。突き破る音は鋭く、無意識のうちに旭陽は背筋が伸びていた。
 那木曰く、非番だったり、時間の空いたモノノフたちが道場で腕を磨いてるのだそうだ。
 弓を初めて持つ旭陽は、それから毎日マンツーマンで手取り足取り那木から指導を受けた。日数を重ねるに連れ、次第に構え方に手を添えて貰うことも少なくなっていった。

「旭陽様は、飲み込みが早くありました。私も教えていて大変楽しゅうございます」

 旭陽の正面で腕を組み、那木は頷いていた。

「えっと…、嬉しいです。那木さんのお陰です。本当にありがとうございます」

 鍛錬が終われば、昼も近かった。近場の食堂で昼食を取ろうと那木の提案に、旭陽が弓を立てかけ一息ついた時だ。物見櫓の方角から、けたたましく警鐘が里内に轟いた。瞬時に道場内には緊張が走り、柔和な笑みを浮かべていた那木は音が叩きつける空を睨んでいた。

「旭陽様、或いは貴方様にも命が下るやもしれません」

 唾を飲み込み、旭陽は那木に従い本部に急いだ。
 そこには既に、桜花、息吹、初穂が揃っていた。富嶽と速鳥は先陣切って既に討伐隊に加わっているという。里のモノノフたちにも焦りの色が見え、あれが足りない、人員の配置を急げなど、怒号の応酬だ。大和はいつになく険しい表情を携えていた。

「大型の鬼だ。旭陽は知らぬだろうが、ミフチという凡そ蜘蛛の姿形に似た鬼が付近に出現した」

 ミフチは、六足に加え、大きな鎌を二つ持つ鬼らしく、里周辺に現れるのは稀であるらしい。現れた場所は里と異界との境界のようだ。
 蜘蛛という言葉に旭陽はすっかり頭が真っ白になっていた。足の多いものが旭陽は得意でない。ましてや、大型。旭陽は竦んでいた。大和の話しぶりからも、餓鬼とは比べ物にならない鬼だというのはひしひしと伝わってくる。弓を握りしめた手のひらにはじんわりと汗をかいていた。
 大和は桜花を里の防衛に当て、初穂、息吹、那木、そして旭陽をミフチ討伐に赴くよう命じた。
 その命に、声を上げたのは桜花と初穂だった。

「お頭、旭陽はまだ早いかと」
「そうよ大和!」

 初穂は不服を頬に溜めていた。

「分かっている。だが、悠長に構えている暇はない。初穂、そういうお前もまだまだ半人前だ。旭陽と二人、協力するように」
「当たり前でしょ!私の方がお姉さんなんだから、きっちりこなして見せるわ!」
「頼もしいな。…旭陽」
「はい。お頭…」
「危険を感じたなら直ぐに引け。深追いはするな。いいな」
「わかり、ました…」

 ── 総員、出撃準備を!他の者は結界付近で迎撃体制をとれ!

 里の境界付近を闊歩する小型鬼の侵入を食い止める為、他の隊も一斉に四方八方へと散り散りになった。
 旭陽も弓を担ぎ、握り潰されそうな心臓の痛みに耐え、皆に続いた。
 里から出て、ミフチが彷徨いているであろう場所へと息吹を先頭に駆け足で進んでいく。
 過去の威光を僅かに漂わせ崩れ朽ちた石壁から石壁へと身を潜めながら、一行は徐々にミフチとの間合いを詰めていった。気配に近づくと、那木はピタリと足を止めた。時を積み上げ過ぎた拉げた屋根の影に初穂と旭陽を引っ張り、息を潜めた。
 瓦からそうっと顔を半分覗かせれば、倒れた石柱の奥に、蜘蛛の容貌に似た大きな鬼「ミフチ」が、有り余る足を忙しく動かし張られた結界をくぐらんとしている。躯体は黒光りし、小さな脳味噌が詰まった禿鷹の様な頭にはわずかに毛が生え、その合間合間にはいくつもの目が赤く光っていた。
 旭陽はぶるりと体が震えた。旭陽の想像より遥かに大きく、また目の多い様をいつまでも見ていられなかったのだ。弓を掻き抱き、背を向けしゃがみ込んだ。隣で近辺の状況を把握している那木は至って冷静だ。退路などを見極めている。旭陽は彼女の着物の裾を軽く数回引っ張った。

「な、那木さん…!あれに?今から?私達だけでですか…?!」
「左様でございます。お覚悟よろしいですか」
「よろしくはありません…っ!!」
「まったく、旭陽ったら本当にお子様なんだから。あんなの唯の蜘蛛じゃない」

 屋根に体を預けた息吹は、初穂に視線を流すも直ぐミフチへと戻した。口から糸のようなものを出し、瓦解した建物は一瞬にして包帯が巻かれたようになっている。キツく糸が絡まった瓦礫は亀裂が入った。あれが人であったなら、骨まで潰れていただろう。

「初穂、そうやって余裕ぶっこいてっと、今にあんな風に糸まみれにされるぞ」
「そんな間抜けなことしないわよ!」
「そうかい。んじゃ、俺はお先に」
「ああ!ちょっと!抜け駆け禁止!」

 初穂の制止もお構いなしに息吹が一番にミフチへ駆け出した。鬼も本能的に身の危険を感じたのか、鋭い鎌の先端を叩きつけるように動かしている。
 二人が注意を引きつける間に、那木は援護するため矢を放った。普段の優しい相貌とは打って変わって、那木の標的となった鬼には容赦がない。放たれた矢は、光線の如く凄まじい速度を保ったままミフチの体を射抜いていた。間断なく続ける那木は、旭陽にも促した。

「旭陽様、わたくしの見よう見真似で構いません!」

 旭陽は恐ろしさの余りなるべく己がミフチの標的とならぬ様、物陰から矢を抜き、構えた。初めて対峙する大型鬼に腰が引けていた。
 乗用車を縦に積み重ねたような巨体であるにも関わらず、滅多に止まらない。鍛錬で動かない的を相手にするのとは訳が違った。鋭角を作る鎌は、近接する初穂と息吹の首をいまに刈らんとしている。
 手練の二人がそう簡単に鎌の餌食となる訳が無いと分かっていても、弓を構えた旭陽は落ち着かなかった。狙いを定める矢尻は右往左往し、放つ矢は三本に一度は逸れていた。
 とうとう幻聴でも聞こえ始めたかと思ったが「主殿」と旭陽の脳内で繰り返される声は、那須与一だった。

『足を狙え。もいで動きを止めるのだ』

 那須与一も随分荒い助言だ。たった一本の矢で、あの巨大な足を折ることが出来るのか。旭陽は半信半疑ながらも構えた。左足に照準を定める。
 その時、初穂と息吹に夢中になっていたミフチが、ふいに旭陽の方へのっそりと転換し、相対する形となった。旭陽は気づかれてしまったのだ。途端、ミフチは猪のように突進していた。判断が遅れ、舞い上がった土埃は襲うように旭陽に降り掛かり、小さな小石が肌を弾く。地面を滑るような早さに、恐怖で体が動かなかった。
 少し離れた位置にいた那木は、声を荒らげ、逃げろと叫んでいる。しかし、足はまるで飾りとしか思えない程役に立たない。
 ところが与一は「堪えるのだ」とあろうことか旭陽をその場に留めようとしていた。

『旭陽殿、構えを解くな』
「無茶言わないでくださいよ!」
『耐えろ!勝機がやってくる、逃すな!』

 勝機どころか、旭陽には死神が鎌を持って迫ってくるようにしか思えなかった。今にミフチに轢かれ、頭上に輪を掲げてしまう。だが、足が動かねば与一の言葉なくとも結果は同じだ。旭陽は一か八か、与一の言葉を信じ、弓を構えたまま粘った。

『今だ!放て!』

 限界ギリギリまで引き付けたのを見計らい、与一は叫んだ。旭陽はやっとの思いで弦を弾いた。小気味良い音を立て、矢筈は弦を離れ、矢は真っ直ぐにミフチの足目掛け飛んで行く。放った時の感覚は今までに感じたことのない開放感だった。旭陽の力というよりも、与一との念とでも言おうか、練り上げられた何かが一瞬にして爆発を起こしたような発散だ。
 見事、旭陽の放った矢は、足を一本宙にふっ飛ばした。走っていたミフチは巨体を支えられずによろけ、その隙に初穂と息吹が角を折る。麻痺したようにミフチは怯んだ。

「これで終いだ!」

 息吹は矛を垂直に下し、ついには頭を貫いた。ぎらぎらとどぎつい邪気を放っていた眼は日が沈むように光を失い、ミフチはぴくりとも動かなくなった。旭陽は地面に膝から崩れ落ちた。
 眼前にはうっすらと黒い煙を上げた、ただの大きな蜘蛛がひっくり返っている。旭陽は全身から一気に嫌な汗が吹き出していた。

「私、死んだかと思いました…。三途の川辺に立ってたと思います…」
「旭陽様…、無茶なさって…。しかし、良き判断にございました。那木は寿命が縮まる思いがしました」

 那木はほっとした様子で旭陽の肩に手を添え、にこりと微笑んだ。

「与一さんの、お陰でした」

 任務完遂に喜ぶのも束の間、息吹と初穂は、臆すること無くその死骸をまじまじと検分している。鬼を調べることも、禍々しく今もなお生体不明な生き物を知る一つの手段だ。
 すると、死んだはずのミフチの体から、いつか見た青い火の玉の様な光りがふわふわと宙に現れた。暫く上下に浮遊すると、光は、地面に手をつき、過ぎ去った恐怖に今だ項垂れる旭陽の眼前でぴたりと止まった。
 旭陽があ、と声を上げた時には既に、光は旭陽の中に飛び込んでいた。凝視していた初穂は大きな目をぱちぱちと瞬かせた。

「ちょ、ちょっと!旭陽!もう那須与一を宿してるんでしょ!?」

 息吹はいつになく真剣に答えた。

「いいや、宿せるミタマが一つとは限らない、奴もいる…」
「私、初めて見たかも」

 驚いたのは旭陽も同じだ。だが、既に頭のなかでは与一と、新たなミタマ某が言葉を交わしている。
 また一人、過去の英霊が鬼から開放されたことは喜ばしいが、例えば今後、こうして次々とミタマが旭陽に宿ったならば、賑やかの一言では済まない。何となく先が思いやられた。
 ともあれ旭陽は、名乗るミタマの名を復唱した。

「あ、べ、のせ、いめい…。安倍晴明…っ?!」
『主、お見事でした』

 安倍晴明 ── 平安時代の陰陽師だ。その家柄は代々中央の儀式を任され、呪詛を払い、悪霊を滅し、五行易、占星術など駆使し朝廷や貴族から絶大な指示を受けていた人物である。
 旭陽は恐る恐る「よろしくお願いします」と晴明へ告げると、端から見ていた初穂が「旭陽はいちいち律儀ね」と可笑しそうに笑っていた。

 ミフチ討伐を無事に終え、一行は無事里へと帰還した。
 長い石畳の坂をくだり本部へ入れば、広間には速鳥と富嶽、そして大和が帰りを待っていた。息吹がひと通り報告を済ますと、大和はよくやったと旭陽の肩をぽんと叩いた。少しは役に立つことが出来た達成感と、無事の帰還に安堵し、旭陽は胸をなでおろした。ようやく生きた心地がしていた。
 里周辺で、小型鬼の掃討に出払っていたモノノフたちも続々と帰ってくる。人がひしめき始め、ひと通り状況報告を終えた大和は、解散の号令を出した。
 共に帰ろうと、那木を探していた旭陽は、よそ見をしていたが為にふいに誰かの背にぶつかった。広い半裸の背中だ。すみません!と謝り顔を上げれば、相変わらず厳つい顔を携えた富嶽だった。

「いってえな」
「す、すみません!!ごめんなさい…!」
「てめえ…」

 そう言って富嶽は手を上げる。旭陽は反射的に肩をすくめた。ところが大きな手のひらが旭陽の頭をがっしりと掴み、縦横無尽に揺らされていた。

「足ふっ飛ばしやがって」
「へ?え…!と!うわぁっ!」
「へっぴり腰のくせによくやったじゃねえか」

 ぐいと頭に掛かっていた力が抜け、旭陽はゆっくりと体を起こした。富嶽は少々罰が悪そうに、頬をかいていた。

「富嶽さん…」
「精々励めよ。腰抜け」
「こ、腰抜け!?」
「ぴったりなあだ名だろうが、俺が付けてやってんだ。ありがたく思えよ」
「私には、ちゃんと旭陽って名前がですね…う、わ!」

 富嶽はおもむろに旭陽の首へ太い腕を回していた。顔を近づけると、ニヤリと口角を上げ、杯を煽る仕草をしている。

「てめえ、いける口か?」
「いける…?」
「酒だ」
「まあ、人並みだと思いま ──」
「おっし、決まりだ!おい那木!」

 富嶽は旭陽の言葉を最後まで待たずして、那木を呼び、結果、任務後三人で飲みに行くこととなった。
 酒の席で、那木に労いの言葉を掛けられた旭陽は、帰還後張っていた緊張の糸が解け、抱えていた不安も、鍛錬中我慢していた泣き言も、一気に開放されてしまった。途端、何もかもが緩んでしまい那木にすがり、暫く涙が止まらなかった。食事処に居た客は、喧騒に響く嗚咽に驚くも、それが旭陽とわかると、妙に納得した様子で杯を傾けていた。三人の座る座敷には、注文してもいない、料理がぽつぽつと運ばれてくる。
 富嶽は相変わらず、この泣き虫がとか、べそっかきなどと旭陽をからかうも、それは以前の様に決して冷たく放たれたものでは無く、親しみに染まった言葉だった。
 こうして旭陽はモノノフとして、無事に初陣を終えたのだった。