心地よいまどろみに漂っていた旭陽は、目覚めたくなかった。二度寝のような気だるい空気が満ち満ちている。寝返りを打つと、額から何かがするりと滑った。手探りで触れると、生温くなった濡れた手ぬぐいだ。
はっとした旭陽は勢い良く上半身を起こし、光に包まれたきっかけを思い出した。虹色の渦に触れた瞬間から完全に記憶が途絶えている。きょろきょろと辺りを見回すと、何故か木造の古い民家に居た。天井には黒々とした太い梁が腕のように伸び、屋根を支えている。部屋の戸は木の引き戸で、こんなに厚い木戸は雨戸でしか見たことがなかった。
部屋にホロウの姿は見当たらない。彼女はあれからどうしたのだろうか。あの化け物も壊れた社から出てきた事実があるだけで、結局何だったのか分からないままだ。
すると、戸の向こう側に人の気配があった。ホロウかと思い、旭陽はすぐさま布団を抜け出した。そっと覗くと、囲炉裏の側には人が座っている。ホロウではなく、綺麗な女性だった。「あの…」と恐る恐る声を掛けると、女性は肩を弾かせ、手に持っていた乳鉢を床に置いた。
「申し訳ございません。驚いてしまいました。お加減はいかがですか」
「全然平気です。あの、私、どうしちゃったのか分からなくて…。ここはあなたの家…ですか?」
「ここはウタカタの里、この家は鬼ノ府の仮住まいでございます。申し遅れました。わたくし、この里で医者をしております、那木と申します。貴方様のお名前を伺っても?」
「時東旭陽です。私、友人の後を追ってたはずなんですけど…そこから先の記憶が全くなくて」
言葉が尻すぼみになりつつ、旭陽はウタカタの里とはどの辺りだろうと思案した。すると、おもむろに立ち上がった那岐が、旭陽の握っていたの手ぬぐいを取り、ごしごしと頬を拭き始めた。
「あの、な那木さん!何か…、ついてます…?」
「ええ、まだ、海苔が」
「海苔…?!」
「ええと…そうですね、何から説明すれば良いか…。取り敢えず順を追って、はじめからお話いたしましょう」
差し出された座布団に旭陽は腰を下ろした。那木がさあ話そうかという時、玄関の方から話し声が聞こえた。戸が開くと、またもや女性が二人やってきた。
「那木ーっ!ただいま!頼まれてた薬草、買ってきたわよ!」
「ああ、君はもう起きていても大丈夫なのか?」
那木は、お帰りなさいませと言うと、旭陽に二人を紹介した。元気の良い白い着物を着た女の子が初穂、羽飾りを付けた女性は桜花という。この三人が旭陽を見つけた際、共に居合わせたらしい。
「初穂様、桜花様、ありがとうございました。今しがた、旭陽様が起きられたので、一から状況をご説明しようかと思っていたところです」
那木の言葉にうっ、とまずそうな表情を浮かべた桜花は、一度咳払いをすると私が代わりに説明しようと、旭陽の隣に座った。
ウタカタの里には、社がある。古くからある小さな社だ。近所に住む人間が気が向いた時に掃除をしたり、供物を供えたりするので、長年綺麗に保たれている。
その社のご神木が珍しく綺麗な実を付けたというので、桜花と那木、そして初穂は花見の約束をし、重箱を広げていたのだそうだ。三段重ねの立派な重箱には彩り鮮やかなおかずが敷き詰められ、さあ食べようと手を合わせた所、突然社から大砲のごとく旭陽が飛び出し、頭から弁当箱に突っ込んだのだという。
絵空事の様な話をする桜花に、旭陽は何から質問して良いのか考えあぐねた。だが状況を説明する桜花も、頷く二人も真剣そのものだ。旭陽自身も信じられないが、和やかに弁当を広げていた本人たちが一番驚いたに違いない。
「もう、本当びっくりしちゃったんだから!旭陽、あなたまさか鬼じゃないでしょ?」
「鬼…?」
「まさか君は鬼を知らないさけじゃないだろう?」
「ええと、角の生えた厳しい顔の、節分とかのお面のやつ…ですか?」
旭陽の説明に、三者三様複雑そうな顔をしていた。目配せする彼女たちに、何となく疎外感を感じる。その疎外感は、目覚めた時から感じていたのかもしれない。室内の古民家風な意匠と、自分だけが浮いている空気、また彼女たちの装いだ。古めかしいとは言わないが、旭陽には馴染みがなさすぎる。それに、この家には電化製品の類が一切無い…。
部屋を伺う不安な様子の旭陽に、桜花は手を取り励ました。
「鬼を…その、知らないという事は、つまるところ君は“外様”なのかもしれないな。確かにどこか私達と雰囲気も違うように思う。じき、お頭も霊山から帰ってくるから、詳しく事情を話して判断を仰ごう。それまではこの家でのんびりするといい」
乳棒を鉢に押し付け、那木が賛同するように深く頷いている。初穂は隣で、思わしげに「そっかー…外様かも知れないのね…」と天井に向かって呟くと、顔をずいと旭陽に近づけた。
「そうだ!私が、この里を案内してあげるわ!いい里なの!」
「初穂様、名案です。幸い、軽い脳しんとうだけの様でしたし、気晴らしに見て回るのも良いかも知れません。今晩、お食事処で夕食などいかがですか」
「賛成!賛成!」
そうして夕食の約束をすると一度解散する運びとなった。桜花は、妹が居るらしく様子を見に行くと言い、初穂は「いっけない!見回りの時間だわ!」と慌てて出て行った。那木は旭陽の体を案じ、約束の時間まで共に民家に居てくれた。そうして夕刻になると、初穂と桜花も戻り、四人は食事処へと向かった。
陽が山の端に隠れようかとする時分、烏は夕焼けに飛び込むようにしてねぐらへ帰り、里には煮炊きの匂いが広がっている。目覚めた時は辺りの物音に気を配る余裕もなかったが、人の喧騒は思いの外大きく里は賑やかだ。その中にカンカンと鉄の打つかる音が響いていた。鍛冶屋が近くにあるらしい。
民家を出ると、建屋の脇には井戸があり、険しく切り立った斜面から山水が染み出で、水面の盛り上がる湧水の池に波紋を重ねている。そこでは皿を洗ったり、食材を洗ったりする女性が大勢いた。旭陽は、水道が通っていないのだと気づくと、益々何時の時代の何処に迷い込んだのかと不安に駆られた。
何件もの藁葺き屋根の民家や店を通り過ぎ、連れ立った四人は、目的の食事処に到着した。ガラリと戸を引き、紺色の暖簾をくぐる。給仕のいらっしゃいもそこそこに、一番に店へ入った初穂が「げ、」と小さく呟いた。
店には、上がりの座敷がありその一番奥には男性二人組みが酒をあおっている。そのうち一人が、人好きのする笑みを浮かべひらひらと入口へ手を振っていた。どうやら三人の知り合いらしい。
金髪の彼は息吹、そして、がたいの良い背を向けて座る男性が富嶽だと桜花が教えてくれた。彼らは桜花たちの同僚であるらしい。
「よー!初穂ちゃん!珍しいこともあるもんだ。なあ、富嶽ー」
富嶽と呼ばれた彼の前に座る男性は、その筋骨隆々とした体をのっそりとひねり振り返った。見知った三人の後ろに、小さく佇む旭陽を一瞥すると、怪訝そうな様子だ。厳しい視線が旭陽に突き刺さっている。気づいた息吹も「そちらのお嬢さんも」と笑顔を面のように貼り付けたまま手招きした。
「入口に突っ立ってないでこっち座りなよ。富嶽と二人きりで飯食ってて丁度今、味気ないな〜って思ってた所だ」
「抜かせ。飯に誘ったのはてめえだろうが」
席につき、注文を済ますと猪口を掲げた息吹が桜花に言った。
「で、そちらさんは?里じゃ見ない顔だけど」
桜花は、旭陽に説明したのと同じく、息吹と富嶽に事情を話した。二人とも、話を聞き終え半信半疑だ。息吹の視線が品定めするかのように何度も旭陽を上下している。富嶽に至っては敵視するようにも感じる。
旭陽は居心地が悪った。そんな旭陽を気遣うように、那木は、鉢盛りの刺し身を取り分けてくれた。
経緯を聞いた息吹は、ふうんと猪口を空にすると枝豆に手を伸ばした。
「へぇー…まあこんな世だ。何があっても驚きゃしねえって言ったら嘘になるけど、不思議なこともあるもんだねえ。社から飛び出てくるなんてさ。ま、俺は可愛い子ちゃんが里に増えるなら大歓迎だけど」
話している間に、机の上には料理が次々と置かれている。早く食べないと息吹に横取りされるわよ!と言う初穂は、一生懸命好物から腹に収めていた。案の定、喉に詰まらし、水を差し出す桜花は呆れながらも笑っている。皆、なんだかんだ歯に衣着せぬ事を言っても親しみがあった。
そんな様子に、旭陽は彼らの仕事とやらをイマイチ良く理解していなかった。那木は医者だと言っていたから、皆医者なのかとも思ったがどうも違うように思う。
「あの、皆さんは…」
恐る恐る呟いた旭陽に、桜花がぱちぱちと瞬きをした。
「どうした、旭陽」
「同僚とさっき仰ってましたけど、皆さんどんなお仕事されてるのかな、と思って」
「そういえば、詳しく話していなかったな。私達は、この里を鬼から守るモノノフだ。日々仲間と共に鬼を退治するのが、私達の勤めだ」
「鬼、退治…」
「まあ、外様っていうんなら、俺らと違って鬼とは無縁の世だろうよ」
吐き捨てるように言った富嶽に、那木がまあまあと宥めた。
「旭陽様、心配なさらないで下さい。この里に居る限り、私達が必ずやお守りいたします」
彼らの生業は、鬼を退治するモノノフ。そして、外様とは鬼との無縁の歴史の表の世からやってきた人間を差す── 話を聞いた旭陽にはちっとも現実味が無かった。
皿に盛られた美味しそうな煮物や焼き魚は、大層美味しい。里の特産だと振る舞われた地酒も大変美味だ。味覚も顔の火照りも実感はできる。決して桜花や那木を疑っている訳ではないのだが、どうしても鬼だの、鬼退治だのが旭陽には想像の範疇を超えていた。昔話の「桃太郎」や「赤鬼と青鬼」くらいなら、聞いたことはあるが…。つまりはこの里を一歩踏み出せば、討伐職業として成り立つ数の、鬼が無数に闊歩していると言う事になる。
旭陽は、飲み過ぎたのか少々気分が悪かった。店の店主にトイレはどこかと、用を足したい旨を伝えると「厠」はこっちだ。と案内してくれた。店の建屋の外に小さな掘っ立て小屋があり、木の板に男、女と達筆な文字が走っている。明かりも灯らず真っ暗だ。唯一月の明かりが眩しいのが幸いといった所だろうか。
用を足し、外へ出ると大きく息を吸った。青々とした葉の匂いと土の匂いとが、夜露に溶けて宙に漂っている。旭陽は、ぼんやりしたまま店へ戻る気にならず、少しだけ辺りを歩くことにした。
外へ漏れ出た家々の明かりは、大きく揺れている。電気ならこうは揺れない。行灯や燭台に点った火だからこそ、人が動作をするだけでこんなに大きく揺れるのだ。飲料や洗い物に使う水も井戸から汲み上げたもの、そしてトイレも水洗ではない──
時代も場所も全く異なった場所に来たのだと、旭陽はようやく腹を括る決心がついた。だが、ついたといっても、今後の身の振り方を考えると気が滅入るばかりだ。
勿論、虹の渦に飲み込まれる前の元の場所に戻り、大学にアルバイトにサークルにと当たり前の日常に戻れるに越したことはない。しかし戻る方法すら分からない。
ため息をつき、とぼとぼと歩みを進めていると、旭陽はいつの間にか隧道の入口に差し掛かっていた。どうやら、その先は洞窟ではなく、吹き抜けになっているようだ。空より差し込んだ月光が、内側から地面を伝い漏れている。
不思議な場所だと思い、旭陽は自然と引き寄せられるように足を向けていた。
石のアーチをくぐると開けた場所に出た。雑草がひざ上辺りまで奔放に伸びているが、人の通る場所だけは土の地肌が露出している。そこを辿り、道の途切れた突き当りの光景に旭陽は絶句した。
「ここ…パズルの絵の場所…じゃない…?」
── 深い森の真ん中に、大きな橙色の柑橘類の実がなった木と、小さな朱塗りのお社がぽつんと佇むだけの何とも不思議な風景画
それが、今、ボードゲーム同好会で勝数をカウントする際使われているパズルだ。
言葉を失い、気が遠くなりかけていると、葉が擦れ合いざりっと地面を踏みしめる音がした。驚き振り向くと羊歯の生い茂った影になった場所に、妖麗な女性が佇んでいる。
黒と白髪の混じった長い髪を一つに結い、彼女の着物は肩から胸元に掛け大きく開けている。神主が祝詞を上げる時に持つ、幣(ぬき)を手にし、うつろな目をしたまま、舐めるように旭陽をじっと見つめている。
暗がりから月明かりの下に一歩ずつ歩みを進め、彼女は旭陽に近づいて来た。
「そう、あなたのせい…だったのね…」
「ええっと、あの、一体…」
「私は樒、祭祀堂(さいしどう)の巫女をしてるの。今日は本当に御霊が騒がしかった…」
樒と名乗った彼女は、後退る旭陽にお構いなく距離を縮めた。色白の肌に、桃色に染まった頬、色気のある唇がゆっくりと動いたかと思うと、旭陽はふいに手を握られた。
「私の胸に、触れて…」
「あの、あの!樒さん…。私そっちの趣味は…ありません!」
「御霊が煩いから早くして」
樒は問答無用で旭陽の手を自身の胸に押し付けた。すると、バレーボールほどの青い光りを発した球体が突然宙に現れたのだ。ふわふわと上下に浮遊を繰り返したかと思うと、一瞬にして旭陽の体に吸い込まれるようにして消えた。
僅かの間に何が起こったのか分からぬまま、旭陽は呆然とするばかりだ。樒は「やっぱり…」とつぶやくと旭陽の手を離す。その手で、青い発光体の消えた胸元の辺りを擦ってみるも、何も変化はない。確かに青い光は旭陽の中に入っていった。
「今の…何ですか…」
「それはミタマ、やっぱりあなたは宿すことが出来る。力になってくれるわ。新しいモノノフさん…」
「モノノフ…?鬼を倒すっていう?」
「そう。桜花や那木みたいに、あなたはその運命を負っている。聞こえるでしょ、あなたのミタマの声が。よく耳を凝らしてみて」
御霊が何かもよく分からないまま、言われたとおりに耳を澄ましてみる。辺りにさざめくのは葉擦れの音と、涼やかな風の音、それに混じり若い男性の声が聞こえた。
『貴殿が、私の新しい主殿か。私は那須与一だ。よろしく頼む、旭陽殿』
旭陽は自分の脳内に響く声に驚き、樒を見ると、彼女はただ可笑しそうにくつくつと笑うばかりだ。
「御霊の声聞こえたでしょ。那須与一、弓の名手。大切にして。お頭には、私からきちんと伝えておくわ」
そう言った樒は、旭陽の制止も聞かずその場を去っていった。わけも分からず取り残された旭陽は、橙色の実がなる木の前で、ただただ佇む事しか出来なかった。
その後、旭陽がウタカタの里のモノノフとして正式に任命されることとなるのは、里のお頭、大和が霊山から帰還してすぐの事だった。